第41話 無垢な子
薄明の空気はまだ夜の名残をわずかに残し、研究所の窓辺からは淡い朝日が差し込みはじめていた。日の昇りが遅くなったせいで、朝の光は柔らかく短く、季節が確かに秋へ、そして冬へと傾いていることを感じさせた。
リィは机に向かい、書きかけの手帳と道具に指先を走らせている。
背後からそっと抱きしめられる温もりに、肩が小さく跳ねた。
「もう起きたのか? 寝不足だろ?」
低く落ち着いた声。振り返らずとも、誰かだと分かる。
「あなたこそ、レオンの稽古は?」
穏やかに問い返すリィに、ローガンは首筋に頬を埋め、甘えるようにして呟く。
「今日から忙しくなる。それに俺もあいつも昼間はいないじゃないか」
「くすぐったいわ」
リィは小さく笑いながら、彼を振り払うこともせず、机の上の作業を整えると、簡素ながらも心のこもった朝食を彼の前に並べた。
ローガンは椅子に腰を下ろし、香ばしい匂いに息をついた。
「アレを手に入れたのか」
瓶に閉じ込めた光の粒が、ゆっくりと呼吸しているように脈打っていた。
「昼過ぎには完成か?」
「ええ、来てくれる?」
「わかった」ローガンは軽く頷き、パンを手に取りながら、少し真面目な顔で問いかけた。
「なあ、リィ。マコの件で、ちょっと考えてたことがあるんだが…」
リィはフォークを置き、目を向ける。
「うん、聞かせて」
「歴代の聖女は、精神年齢が退化するようなことって起きてなかっただろ?」
「そうね。彼女たちは愛する人にしか力を使わなかったし、対象も限られていたの。存在自体も特別だから、心が自然に保護されていたのよ」
ローガンはパンを半分かじり、考え込む。
「じゃあ、マコがあんなふうに無垢になったのは、力の使いすぎで、しかもアルベール王とルーク王子の呪いに触れたから…ってことか?」
「ええ、そういうことね」
リィはパンを小さくちぎりながら答える。
「記憶や心が自然に退化することで、無意識に自分を守ったのかもしれない。正当防衛みたいなものね」
ローガンは眉を少しひそめ、興味深そうに問い返す。
「なるほど…でも、もしそうなら、やっぱり俺たちが見守るしかないってことだな」
リィはうなずき、朝日を受けた手帳の文字に目を落とす。
「そう。一歩ずつ。無垢な状態だからこそ、観察や成長の機会として貴重でもあるの」
「なるほど…じゃあ、研究対象としても、手がかかる子だな」
リィは微笑み、ローガンに小さく突っ込む。
「ちょっと失礼ね。手がかかるのはあなたも一緒でしょ」
ローガンは肩をすくめ、笑いながらも真剣な瞳でリィを見つめた。
「そうか…じゃあ、俺たち二人で焦らず守っていくしかないな」
「ええ、無理に急がなくてもいいの」
リィは微笑み、朝食に手を伸ばした。柔らかな朝日が二人の間に温かく差し込み、静かな時間を優しく包み込む。
ローガンはパンをかじりながら、小さな声でつぶやく。
「…リィといると、朝から落ち着くな」
リィは微笑みを返し、手帳に書き込みを続けた。
二人だけの静かな朝の時間は、これからの日々を守る覚悟を、穏やかに育んでいった。
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