月と絵描き
@shafu_kizoku
第1話
雨の商店街を歩いている。ぽつぽつと落ちていく雨に晒され、中途半端に浮かんだ落ち着くところのない紙のような心が滲んでいく。視界の端を人々が次々と流れていく。会話、コツコツ、ザッザッとなる足音は雨音に砕かれ、曖昧な音となって耳元に届く。曖昧な音は耳元から落ちて、滲んだ心に入り混じって溶けていく。
「おうい、あんた!」
背後からの少ししわがれた声に、心が輪郭を取り戻す。
「ほれ、落としたぞ。気をつけないかん。」
顔にたくさんのしわを並べたお爺さんが、傘の下から手を伸ばし、僕の胸の前にびちょびちょになった赤茶の柄の小筆を突き出す。反射的に礼を言い、それを受け取ると、お爺さんは僕とは反対方向に足を進めていった。筆を数秒眺める。なんで受け取ってしまったんだろう。君との約束の証。でも、これがあるから僕は、絵を描き続きなければならないんだ。意図せず手が震え出し、それを周囲に見られまいとしてさっさと筆を鞄にしまう。そのとき手が明るく染められ、ふと目を空に向けると、雨の雲間から陽が顔を覗かせていた。もう、夕暮れが迫っていた。次第に雲間が広がっていき、屋根を失った濡れた街が明るく照らされる。数秒間の光と雨のイルミネーションの後、傘を閉じる。右側には、見慣れたフラワーショップ。店先にクチナシの花が咲いている。雨粒が置かれた花びらの上でキラキラと光っている。
「はあ…」
鞄の中のカンバスに目をやり、ため息を吐く。横を通り過ぎるときに、甘い香りが鼻を覆った。
scene2
がらがら。宿の戸はいつも懐かしい音を立てる。
「ああ、お帰りなさい。雨、結構降ってたみたいだけど大丈夫でしたか?」
「あ、平気です。」
「急に降ってきたのでびっくりしましたねえ。」
「まあ。」
言いながら僕の濡れた足元や袖先をさっと拭き取ってくれる彼女に安心感を覚える。いつもスマートで、こちらを心配しながらもおせっかいに感じさせない冷たさがある。それに対して僕はいつもの調子で脳内にある対人用のフレーズ集から決まりきった言葉を引き出し、ぼそぼそと呟く。
「ご飯はいますぐ召し上がりますか?」
「いや…今晩は…いいです。」
「そうですか。でも、…身体も大事ですからね。」
そのとき彼女の口にふっと力がこもり、重みが増したような気がした。いつもらしくない。それで、彼女の顔を思わず見つめていると、
「わかりました。じゃあ、お風呂を沸かしますね。」
と、さっといつもの調子に戻って温かみのある声で僕に伝える。
「お願いします。」
会話を済ませると僕は、2階にある自分の部屋へ戻った。
scene3
扉を開けた瞬間、暑くこもった靄がまとわりついてきた。心がまた滲んでいく。歩くたびにぺたぺたと音が鳴り、まるで自分が無防備であることを知らせているようでちょっと恥ずかしい気分になる。体をさっと洗い流し、木桶の湯船に浸かる。ちょうどいい湯加減だ。気持ちがいい。身体にじわじわと染み入ってくる温かさだ。あの女主人は、夫を亡くしてから一人でこの宿を経営しているらしい。他に、雇い人が二人ほどいると思われる。あれ、もしかして…。
「そういうことか。」
先ほどの女主人の変な調子に合点がいったのと同時に、彼女の裏側を知ってしまったような気がして後悔する。他人の内情にはできるだけ距離を置いていたい。
ぽちゃん。腕を桶の端から下ろしたときに湯面が円状に波を立てた。今日は雨で引き返したんだったな。よかった。いや、よくないのか。でも…。あの筆、そして絵にそんなに固執する意味があるだろうか。まとわりつく靄は、まるで自分が雲の中にいるよう。そしてそれが電灯の光に照らされて、これはまるで…。
つい、長く浸かってしまったことに気づき、素早く桶から滑り出て、再度身体を洗った。浴室から出ると、靄は身体から離れて、思考も纏まりを持ってきた、というより、平坦になって動かなくなった。自分の部屋に戻ると、すでに布団が敷いてあったので、素早く潜り込む。やはり疲れが溜まっていたのかすぐに瞼が重くなる…。
scene4
「ん…」
ごにょごにょと下からなにか聞こえてくる。誰かが話し込んでいるようだ。夜中、こんな時間に…。内容はつかめない。気になった僕は、いやに目が覚めてしまったので、階段をゆっくりと音を立てないように一歩一歩慎重に降りていった。
「あれ」
縁側に腰を丸くして和装のお爺さんが座っていた。近づいてみると、こちらをちらりと振り返る。
「あ」
あのしわのあるお爺さんがそこにいた。
「月をみてごらん。」
月と絵描き @shafu_kizoku
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