まぜまぜ
『まぜまぜ』
1
「海月、吸血鬼って知ってるかい」
「知りません。博士が教えてくれていないはずです」
「おっとっと、そうだった。ついつい、疑問文にして人に聞いちゃうんだよね、私。悪い癖だ。海月はこれを引き継いじゃあいけないよ?」
「善処します」
博士はコーヒーを片手に、くつくつと笑った。
「それで博士、吸血鬼とはなんですか?」
「人の血を吸って人を殺す、怖ーい化け物さ」
博士は両の手を白衣の袖の内にしまい込み、幽霊のようにゆらゆらと揺らした。
おどろおどろしさを醸し出したいのだろうか。
それとも、吸血鬼がそういう動きをするのだろうか。
「私も殺されるのでしょうか」
私があまりに無反応だったからだろうか。
博士は大きく肩を落とすような仕草をして、咳ばらいを一つしてから続ける。
「海月は不死だから、どれだけ血を吸われても、どれだけ肉を喰われても、死ぬことはないよ。でも、覚えておくんだ海月。吸血鬼に体を喰わせるのなら、覚悟がいる」
「覚悟?」
「吸血鬼は自分のものに手を付けられることを酷く嫌う。海月は食べても食べてもなくならないから、一生その吸血鬼の所有物になるんだ……、そう、お前の物は俺の物、俺の物は俺の物、ということだよ」
「? それは何かの引用ですか?」
「ん⁉ おおっと、私としたことが海月にあの名作を一本も視聴させないどころか、今日に至るまでその名を教えていなかったとは……、これは致命的だな……」
ぱちんと、自戒のように、博士は自分の額を両の手で叩いていた。
「まあいい。いや、よくはないんだが、今度一緒に見よう。映画版もすべて見よう。映画版ではピー助に、アニメ版ではお婆ちゃん編に、いつも涙腺が緩んでしまうんだ」
「はあ、そうですか」
ピー助とお婆ちゃん編とやらがいったいどういうものかは分からないけれど、博士が言うのなら感動するのだろう。
私にはいまいち感動という感情に理解が及ばないけれど、それでも、私の隣で博士が悲しそうにしているのなら、その一端でも汲み取れるかもしれない。
そこに、何かを重ねられるかもしれない。
「それで、博士。私が吸血鬼に狙われても死なないのなら、問題ないのではないですか?」
なんらかのアニメを私に教えていなかったことを後悔するような表情の博士に、私は話題を戻した。
「私は海月が、誰の所有物でもなく、自分で自分を所有できるような子になって欲しいだけよ」
博士は、悲しそうに、私によく向ける、繕った笑みを浮かべていた。
「私には、それも叶えてあげられないのだけどね」
私の生みの親であり、魔女の中でトップレベルに優秀だった人。
思い返せば、いかにも不老不死を作れてしまいそうな、むしろ博士が不老不死なんじゃないかというくらいの名前だった。私に昼神海月という名を付けたのは博士で、海月という名前は、有名な不老不死の生物、ベニクラゲに由来したものらしい。昼神というのはひょっとしたら、吸血鬼に飼われないように、みたいな意味合いで冠させたものなのかもしれない。
そんな博士との会話、吸血鬼についてのそれを、私は夢の中で思い出した。
ヴァニアは、やけに私に懐いている。
こんな世界で私のような不老不死に出会えたからなのかもしれないが、おそらく一番の理由は、私がヴァニアの所有物であるからだろうと思う。
どれだけ食べてもなくならない食糧、所有物。
いつまでもなくならないからこそ、少しずつそれは愛着、というよりは執着に変わる。自分で自分のことをそう評価するのには赤面してしまいそうだが、実は、ヴァニアと一緒にいたとき、ついうっかりとゾンビに一度だけ噛まれたことがある。
そのゾンビは、液体になった。
何度も何度も、ヴァニアによって細切れにされ、肉片も骨片も残らず、まるでミキサーにかけられたかのように、ドロドロの液体になるまで切り刻まれた。とうに再生しきったゾンビに噛まれた場所を、しかしヴァニアは上書きするかのように食いちぎった。
ヴァニアはそれくらい、私という食料に誰かが手を付けること、傷つけることすら、蛇蝎のように嫌っている。なにが言いたいのかと言えば、私が攫われた今、不老不死ゆえに初めから危険などない私よりも、攫った相手の方がずっと危険な状態にあるということ。
そうは言うが、実際どうでもいい話だ。攫われた身ではあるものの、そういうどうでもいいことに思考を裂くくらいには、自分の置かれている状況もまた、どうでもいいのかもしれない。
治るとはいえ自分の身をなるべく傷つけないように、という博士の忠告は、時とともに効力を薄めている。それに関しては悲しいと感じ、しかしそれでも、過去ほどの自戒を私に与えてはくれなかった。
「……」
背にある硬い感覚の中で、私は目を開ける。
どうやら檻の中のようだ。石の床に石の壁。鉄格子。窓はない。
暗くじめついていて、私の幽閉されていた研究所よりもずっと酷い環境だ。服も相変わらずボロボロ。着がえさせられていた方が問題だろうから、ここには一応安心しておこう。
斧も胸ポケットのリボルバーは秒とやり合った時にでも落としてしまったのだろう、なくなってはいたものの、別に不安はない。どうせ死ぬことはない。
夢というやつを初めて見た。もっと荒唐無稽なものを見られるのではと期待していたが、これでは博士との思い出を振り返っただけだ。見られたことに関して言えば喜ばしいものだし、ヴァニアという吸血鬼に出会った今、思い出してしかるべきことでもあったのかもしれない。
とはいえ、少々拍子抜けだ。
私が死ぬ様でも見せてくれれば、多少は愉快だったろうに。
「起きたようですね」
初めて見た夢の余韻にぼんやりと浸りながら天井を見上げていると、鉄格子の向こう側から声を掛けられた。
「初めまして、不老不死のお嬢さん」
折り目正しいスーツ姿。整髪料で整えられた髪。腰には左右に一本ずつ、鈍く光る短い十字架を、さながら刀のように携えている。
両の足を揃え、背筋を張った立ち振る舞いのその男は、こんな世界ながら恭しさを感じさせる佇まいをしていた。
「着替えはそちらに用意させていただきました。サイズが合えばよいのですが」
男が視線を送った先には、服がたたまれて置いてあった。
ヴァニアが選んでくれた物よりも、ずっとシンプルで動き易そうな服だ。
男に視線を戻す。
「どうしたのですか?」
「私は今から着がえようと思うんだが」
「ええ、構いませんよ」
「出来れば向こうを向いておいてほしいんだが」
「貞操観念があるのですか?」
「これでも人間らしく生きてきた——そう振る舞ってきたものでね。模倣的ではあるが、いっぱしにそういう感情は持っているつもりだ」
振る舞ってきたとはいっても、そうするようにしたのは最近の話。ヴァニアがとても気にしているのだ。それまでの私がどうだったかは覚えていないけれど、ヴァニアがそんな風だから、出来るだけ気にしておいた方がいいのではないかと、私も思っている。
ヴァニアのためだ。私自身はどうでもいい。博士には怒られた覚えがある。
「そういうことであれば」
案外聞き分けよく、男はくるりと私に背を向けた。
見届けてから、私はボロボロになった服を脱ぎ、用意されていた服に袖を通す。
「秒はいるかな。生まれて初めて眠りを経験した。悪くない体験だった。礼が言いたい」
後ろを向いたままのその男に向け、着がえながら私は言う。
「……随分余裕ですね。不死ゆえに、死ぬ心配がないということですか」
わざとらしくも、驚いた様子を見せるその男。
「ああそうだよ。不死だから死ぬ心配がない。ただ、私は不死なだけでね。特別な力なんてないんだよ。なぜ私を捕らえたのか知らないが、抵抗してもすぐ抑えられるだろうから、ここを出してはくれないかな?」
「構いませんよ。もとより鍵はかけていません」
後ろを向いたままで、その男は言う。
断られると思って言った言葉だったから、肩透かしをくらった気分だった。
「私は不死ゆえの余裕だが、キミは何ゆえの余裕なのかな?」
「ただの人間ですよ。それでも余裕を持っているだけです。切羽詰まった話し方をするよりも、貴女も話しやすいでしょう」
確かに話しやすいが。
しかし、不老不死である私が不老不死であることしかアドバンテージを持っていないことをまるで知っているかのような口調だ。というかそもそもどうしてこいつは、私が怪異でも妖怪でも変異種でもなく、不老不死だということを知っているのか。
なんにせよ、喰えないやつだ。
「秒は人間ではないね?」
気にしても仕方なく、私は切り替える。
「先ほどから何もおっしゃいませんが、ここがどこだか気にならないのですか?」
「見た方が早いだろう。ならば、聞くだけでしか分からない情報を、と思ってね」
「……」
男は刹那だけ眉をひそめた。後ろ姿だから正確には分からないものの、そういう雰囲気を隠せていなかった。見ず知らずのこんな場所に入れられているのだから、せめても会話のペースくらいは貰ってもいいだろう。
正直なことを言えば、そんなつもりは全く無く、気になることを訊いただけだが、不死ゆえの余裕はそんな力を私に与えているらしい。
「獏という生物をご存じですか?」
軽く嘆息して、男は言う。
「獏? ああ、夢を食べるとかいうあれかな?」
「秒はそれなのですよ。人を夢に落とし、その悪夢を食べる。身のこなしは天性のものですが」
博士の妖怪紹介シリーズではなく、私が本屋で、自力で集めた情報に、獏はある。
読んだ本の中で、男の話に捕捉を入れると、食うのは悪夢に限ったものらしい。仮に秒というあの少年が私の悪夢を喰ったのなら、私にとっても悪夢と言えるだけのものがあったのだろうか。
それは少し気になることだ。
着がえを終えて、牢を出る。
その男の言ったとおり、鍵はかかっていなかった。
どうせ開放するのなら、こんなところに捕まえておかなくても良かったんじゃないかと思う。いろいろ実験こそされたものの、あの研究所でも、もう少し部屋の待遇は良かったはずだ。
「
「昼神海月だ、よろしく」
握手。かわしたその手だけで、鍛えられていると分かる。
攫ってきた割に丁寧なのは、私に対してのなんらかを円滑にするためだろうか。
「千、悪いんだが、私を研究しようと思って連れてきたのならば、私はなんの役にも立たないぞ? 私の不死性は誰かに渡せるものではないし、ワクチンにもならないと思うが」
「そんなことはありません。唐柿博士のレポートには、まだ欠けがあります。調べ切れていない貴女の要素が」
千は歩き始め、私は後についていく。
「千は博士を知っているのか?」
「私の父が、件の研究所にいたのですよ。貴女という成功例の話を、よく聞いていましてね。まさかこんなところで出会うとは思っていませんでしたよ」
これは思いがけない人物と出会ってしまった。
あの研究所にいた人間は全員死んだのだろうが、別に研究員の全員があそこで寝食を行っていたわけでもない。ならばなるほど、その血統くらいは生きていたとしても、そこまで不思議なことではなかった。
「しかし千。博士は私に関しての研究データをすべて廃棄しているはずだ。現存するのはあの研究所の実験記録だけ。そもそもデータが存在しないだろう」
「おや、知っていたのですか」
「博士とは仲が良くてね。研究所のやつらとは違ってさ」
皮肉を込めて私は言ってやった。
あそこにいた研究員とはまともに会話をした覚えはない。せいぜい実験の経過観察くらいだ。私が持っている博士の情報なんて、無理に話させられたことを除けば、ほとんど提供していない。
というか、私の不死性に関しての情報は、博士も私に開示していないから、話そうにも知らないというのが本当のところだ。
「貴女ならば、貴女の身体の秘密を知っているのではないですか?」
「不老不死以外の、という意味ならば、生憎力にはなれないよ。博士は私にも研究データを開示しなかったからね」
「なぜ開示しなかったのだと思いますか?」
「私の動揺を誘っているのなら意味がないよ。博士が私に何も言わなかったというのは事実なんだ。千が私以上に博士のことを分かっているはずがないしね」
「……食えない方です」
「喰わせる相手は決まっているからね」
博士は私の殺し方を知らなかったと思う。そういう話は何度もしていた。
仮に私が死を選べる方法があるのなら、それを私に開示しないわけがない。当の本人である私すら知らない、告げられていない情報を、博士が他の誰かに言うわけがないのだ。
「一応言っておくんだが、千。早いうちに私を開放した方がいい。さもなければ——」
「吸血鬼が襲いに来る、ですか?」
遮るように、千は言う。
「あれはもともと、ここの隣の街で捕まえていたのですがね。ここへの輸送中に、貴女が襲ったのでしょう?」
「……ノーコメントだ」
「まあいいでしょう。襲いに来ることなど、百も承知です。そのために迎え撃つ準備はしてあるのですよ」
「準備?」
「ええ。私は吸血鬼に対応できる者ですから」
千は自分の胸に軽く手を当てた。
「というと?」
私は訊き返す。
「貴方も、妖怪や怪異の存在は知っているでしょう? そういう相手に対応できるものは少なからずいる。私もそれです。隣の避難所から死なない少女がいると連絡を受け、その特徴を聞いて、すぐに吸血鬼だと分かりました。私が管理をしようと思ったのです。吸血鬼の校則方法を伝え、この町へ運ばせていたんですが、その移送中で貴女に」
「………」
貴女に、といわれても、千の言葉を肯定した覚えはない。
………。
沈黙は最大の肯定だったか。
「吸血鬼を殺すのか?」
「貴女も喰われるのは辟易していたでしょう」
別に辟易なんてしていないけれど、私は何も言い返さなかった。
単純な不快感と、肯定と取られてでも私たちの情報を提供したくなかったという思いからだ。
「吸血鬼を殺す方法を千は知っているのか?」
とりあえずのところ、私ははぐらかし、そして実際気になることを聞いてみる。
ヴァニアは私に、吸血鬼を殺す方法を教えてくれていない。というか、私も聞いていない。せいぜい、銀では弱るだけだとか、日光は死ぬほどつらいだけだとか、それくらいだ。
しかし確かに、死ぬ方法はあると、博士からの知識とヴァニアの言葉で私は知っている。
「眷属として産まれた吸血鬼ならば、日光や銀の弾丸で殺せます。ですが、純正の吸血鬼はその限りではありません。殺害したければ、二つの方法に則る必要があります」
千は口を開いた。
「一つは、別の吸血鬼に喰われること。具体的には心臓を喰われれば良いと聞きました」
「なるほど、それでは殺せないな。もう一つは?」
「満たされること、ですよ」
千は私に少しだけ視線を送った。
「満たされる? ずいぶん曖昧だな」
「吸血鬼については、どこまでの知見をお持ちですか?」
「強い、飛ぶ、半不老不死。それくらいだ」
「吸血鬼とは、人間の時代に強い未練を抱えたまま死んだ人間がなるものです」
これは博士の言っていた情報だが。
吸血鬼は全員が元人間。その死体が変化したものが純正の吸血鬼で、その吸血鬼に眷属にされた人間が、言ってみれば私のような紛い物——純正でない吸血鬼だ。
ヴァニアは純正だと言っていたから、前者に該当する。
つまり、千が言うところの、なにかしらの強い未練を抱えて死んだ存在だということだ。
「その欲求が満たされた時、吸血鬼はその生を終えるのです」
「自覚しているものなのか? その欲求とやらは」
「吸血鬼によって様々です。自覚している者もいれば、いない者もいる。あの吸血鬼がどちらなのかは知りませんがね」
ヴァニアは死ぬ方法はあると言っていたけれど、私にその方法を明かしていない。
私に隠しているのではなく、自分がなぜ吸血鬼になったのかを記憶していないのだろうか。
それとも、なにか言いづらい事情があるのだろうか。
構いやしないんだが。私相手に、なにをためらうことがあるのやら。
「ですが、時に、その欲求は変化することがあります」
それなりの理解を自分の中でつけたところで、千が口を開いた。
「変化というと?」
「人間にもあるでしょう。このために生きている、そう言っている人間があっさりとそれを翻すことくらい」
「あるのか?」
「あるんです」
不老不死の私にあまり人間の常識を持ち込まないでほしい。
噛み合わなかろうが、会話のテンポが悪かろうが、私はそういう部分で結構ずれているらしいのだ。
「まあともかく、それを利用するんですよ、私たちは」
呆れというか諦めというか。
ため息の後で、千は言う。
「例えば銀、例えば日光で、あれらを死の淵まで追いやり続けるのですよ。そのうちに、あれらの一番の欲求は死にたい、辞めて欲しい、というものに変化する。あとは辞めればいいだけです。あれらは満たされ、その存在は失われる」
「死にたくなるまで痛めつけて、欲求を無理やり変化させるということか」
「簡単に言えばその通りです。吸血鬼自身が切に死を願うと勝手に朽ちもするのですが、
多くは前者です」
死にたくなるまで。そう願ってしまうまで。
あまりに残酷だと、冷酷だと、不老不死の私ですら、そう思った。
それは多分、ヴァニアの顔が頭に浮かぶからだ。
「残酷だな」
なので、とりあえずそのまま言ってみた。
「あれらは人間ではないのですよから、ためらう必要など、どこもありませんよ。まあ当面は、あの吸血鬼を殺すつもりは無いのですがね」
「………」
ヴァニアの顔が、再び脳裏によぎる。
小さく華奢な体を目いっぱいに動かして駆け回り、細い腕は建物を抉る。白銀の髪に真っ赤な瞳で、幼く無邪気な笑みを私に向ける。平気な顔をして、私にとって何が大切なのかを思い出させてくれる。
同時に、あの護送車の中で見た弱弱しい姿も、思い出された。
「それで、私になにをしろというのかな」
軽い倦怠感らしきものの後で質問をする頃には、私たちはすでにその場所についていた。
見たまま、わかる範囲で言えば、それは溶鉱炉だった。
中には溶けた鉄が赤く、そして激しく、煮えたぎっていた。
「……入れと?」
溶鉱炉を見下ろして、思いついたことを言ってみる。
それなりの距離があるというのに、垂れ下がった私の長髪がチリチリいっている。
「そんなことは言いませんよ。これをかけたところで、貴女も人も溶けません」
私相手だから構わないが、千はなにを平気な顔をしてとんでもないことを言っているのだろう。この言い方はつまり、別の方法で使いますよ、と言っているようなものだろうに。
「まずはあれです」
千は溶鉱炉の隅にあるものを指さした。
タービン。何枚羽かも分からない速度で、大きな音を立てて激しく回っている。
「……つまり?」
私は首を傾げる。
傾げてみる。
「まずあそこで貴方を液状にします」
「……私は一応生きているし、知的生命体だったりするんだが」
「こんな世界でなくとも、不老不死に人権はないでしょう。それに貴方は、死など恐れてはいない。わざわざ確認せずとも分かります」
「……液状の続きを訊こうか」
千の言ったことは事実ではあるけれど、思うところがないわけじゃない。
吸血鬼の倫理観、不老不死の倫理観。それらが普通と異なっているのは仕方がないと思うけれど、不老不死でも、人間性が欠けていても、私は人間的見た目だ。
一般的な人間の倫理観の上で、しっかりと人倫に悖るだろうに。
「あそこで貴女を液状にし、その後で、この溶鉱炉に混ぜ合わせます」
「……それで?」
「急速に冷却します」
「で?」
「貴女と銀の融合品の出来上がりです。そして、それをさらに上から銀で覆います」
「そうか」
私を液状にして、銀と融合、そして凝固。つまり、身体の一番大きな部分から再生する私が、その硬さのせいで、身体を再生させられなくなるのではないか、という実験だろう。そうすればいつか死ぬ、とかだろうか。
なんとも、非人道的な。
私はおよそ人ではないのだろうが。
「ん、あれは銀なのか?」
「ええ、そうですよ。貴女を混ぜ合わせた後に、吸血鬼がそれを壊せぬようにです。奴らは銀に触れると人間の肉体よりも身体が脆弱になります。銀は柔い金属ですが、吸血鬼相手には純度が高いほど効力を強く発揮するのです。ここまで集めるのには苦労しました」
「……なるほど」
どうやら目的は私ではないらしく、つまり私は、おそらく人質、不老不死質なのだろう。
私を研究したところで不老不死の性質を分けられない。それは、かつての研究所で証明済みだ。ならば別の方法で活用しようというのは、通った理論だ。
「吸血鬼であるヴァニアを研究した方が希望があるということだな。しかし、なにを調べる?」
「その不死性を人間のそれに転用できないかと思うのですよ。ゾンビに噛まれても平気な存在を作れないか、という実験。良く言えば、ワクチンでも出来やしないかと」
「出来るか分からなくともやってみるというわけか……、だが、それは吸血鬼が私を助けに来る前提の話だろう。あの吸血鬼が私にそこまでの執着をすると思わないんだが」
「しますよ、絶対に」
千は、そう言い切った。
「吸血鬼は自分の物に酷く執着します。尽きない食糧であり、知的生命体、感情を持つ貴女が相手となればなおさらです。それと話を聞くに、良好な関係を築いているようですしね」
千の言う通り、ヴァニアは絶対に私を助けに来るだろう。
だから、どうせ吸血鬼は私のことを助けに来ないと言って、どうにか脱出を試みようとしたのだが、さすがは吸血鬼に対応できると自分で言っただけはある。
私の脱出大作戦は失敗に終わった。
「一応聞いておくんだが——、というか、なんとなく分かってはいるんだが、千は私を液状にすることに心が痛んだりしないのか?」
「いえ? とくには?」
「千は、研究所にいた父を持っているだけで、研究を見ていたわけではないんだよな?」
「ええそうです。ですが、研究資料はある程度受け継いでいます。映像データもいくつか」
「……私もこの性質のせいで記憶が曖昧なんだが、ここまでの実験をされるのは多分初めてだぞ?」
「される、ですか。実験には協力的なのですね。ありがとうございます」
礼を言われても困るが。
思えば、あんなに可愛らしいヴァニアを鎖でぐるぐる巻きにしたうえに、足に杭を打ち込んでいたようなやつらだ。この程度の扱いは不思議じゃない。
「痛いぞ、あれは」
「入ったことがないはずでは?」
「入らなくとも分かるだろう」
「痛覚があるのですか?」
「心が痛いんだよ」
「心があるのですか?」
こいつ……。
私だって扁桃体を持っているんだぞ。不老不死ゆえに、自分の感情に疎い私でも思うところがあるというのに……。
まあ、あるだけだが。
「一応聞いておくが、拒否権はあるのかな?」
「あると思いますか?」
「お前さては、悪い奴だな、千」
「だとしたらどうするのですか?」
悪意を持った表情で言う千に、私は大きく息を吐いた。
瞬間。
私の腕が飛んだ。
「……ふむ」
「……そこまで無反応だと、興が削がれますね」
腕を飛ばした犯人は千。
その理由は——。
「まさか、抵抗しようとするとは思いませんでした」
これから自分に何が起きるのかを悟った私が、抵抗を試みたからだった。
武器などないから、指をたてて千の眼球くらい抉ってやろうと思ったのだ。しかし、指が目に届くどころか、指先が動こうという瞬間に、私の腕は吹っ飛んでいた。
おそらく、腰元の十字架を使ったのだろう。切る瞬間こそ見えなかったものの、十字架を腰元に戻す仕草で、私は悟った。
「何をされることにも、抵抗はしないと踏んでいたのですが」
「私には知性が残っているんだよ。資料を読んだだけで、私のことはさっぱりわかっていないのだね」
そうは言うものの、私自身、自分の行動には驚くところがあった。こんなにも無意識に、攻撃しようとするなんて思わなかった。
驚きはした。けれど、行動の理由はさすがに分かる。
「私はね、千。死の喜びになっても、生きる枷にはなりたくないんだよ」
不老不死の私にできるのは、看取ることくらいだ。
小晴が喜んでくれたように、最期の瞬間に私の姿を見せてやることくらいしか私には出来ない。死を持たないからこそ、私の関わった存在にとって意味ある生を送ってやりたいのだ。
なんて、私はいつから、こんなことを想うようになったのだろう。
「おとなしくあそこには入ってやらない」
腕はすでに、再生を終えている。
「勝てると?」
「思っちゃいないさ。けれど、死がないうえに、その恐れもないんだ。私は少々、厄介だと思うよ。吸血鬼ほどとは、言わないけどね」
2
海月の匂いを頼りに、空を駆ける。
私たちの行動範囲をとっくに離れ、海月の香りはそれでもまだ続いている。むしろ、少しずつ濃くなっている。海月は頭が潰されると意識が無くなると言っていたから、きっと頭をつぶし続けながら海月を運んだんだ。
海月は不老不死だから、どれだけの出血があろうと死なない。とはいえ、海月が完全な不老不死であるかどうかは、まだ分からない。私みたいな吸血鬼と同じように、不死のように見えて、その実死に方を持っているのかもしれない。
だけどきっと、この先も分からずじまいのまま、それでも生き続けるんだろう。
今一番の問題は、私の物である、私の食料である海月を、私から取り上げたということ。
到底許せるわけのないその所業を、私は裁きに行く。一人残らず殺しに行く。海月が囚われているのなら、助けに行く。
海月。海月。海月。海月。海月。
と、海月の匂いを頼りに夜の空を飛び続けると、遠くに明かりが見えた。それと、私を待っていたかのように、暗闇から私を睨みつける目が一つ。
四階か五階建ての住居。その屋上。
律儀に降りてやったのは、そいつの持っている鉈から、海月の血液の匂いが強く香ってきたからだ。
「待っていた。お前が、きゅうけ——」
「お前、海月に何をしたんだ?」
私はそいつの言葉を遮った。
夜の闇に溶け込むような、全身真っ黒のそいつはたじろいでいる。
「やっぱいい。聞く意味がなかった。海月はあの町にいるんだな?」
「吸血鬼、お前が——」
「海月はあの町にいるんだよな?」
私はまたそいつの言葉を遮る。
匂いからして、海月が遠くに見えるあの町にいることは間違いじゃない。けれど、だとして、こいつがなぜこんなところで私を待っていたのかが気になるところだった。
でも、もうそれもどうでもいい。
海月があそこにいるならそれでいいから、さっさとその確認だけ取りたい。
海月が私の元へ戻ってくるのなら、どうでもいい。
「聞け、きゅうけ——」
「海月に何をするつもりだ」
「きゅうけ——」
「海月は私のだぞ」
「きゅ——」
「絶対あげないからな」
「聞けよ、吸血鬼!」
無理に私の言葉を遮るそいつ。
どうでもいいから、海月のことを早く教えて欲しい。
「私はお前の首を飛ばして、さっさと海月の元へ向かってもいいんだ。お前がここで何をしているのか。私に何を話そうとしているのかが気になったから、ここに降りてやったんだ」
「遮ったのはお前だろ、吸血鬼」
「身に覚えが——ある!」
「あるんじゃないか」
「うるさい、早く話せ!」
「勝手な……」
話を遮ったとか自分勝手とか、知ったことじゃない。
知ったことじゃないというか、知っているというか……ともかく、どうでもいい。
「俺は獏だ」
「バグ? おい、自分がこの世界のバグだなんて格好つけてもいいことは……」
「違う。獏、だ。夢を喰うんだ」
「……なんだよ、なら初めからそう言えよ」
獏。夢を食べるとか、人を寝かせるとか、確かそんな怪異。
実在するバクと、怪異としての印象がなまじ混在しているからか、ゾンビになりきってはいなかったみたいだ。私ほど有名じゃないだろうに、無駄にしぶとい。
「俺の一族は、俺と、あと一人しかいない」
「おい、言っとくけど、お前の事情とか恐ろしいほど興味ないからな」
「聞けよ。海月とやらを助けるには協力者がいるだろ」
「……いるか?」
今は夜。
多少なり空腹を感じているとはいえ、人間相手に遅れを取るような弱体化はしていない。
仮に弱体化していたとして、海月救出の協力に、なんでわざわざこいつの昔話に付き合ってやらないといけないんだ。
「お前が大事に思っている海月とやらがどうなっているか知っているか?」
「知るわけがないだろ。だけど、あの町に海月がいるのは知ってる。私はさっさと海月に会いに行き——」
「あの女は、銀の中に閉じ込められている」
「銀……?」
吸血鬼だって銀には触れられるけど、触るだけで今以上の弱体化になる。人間の小学生、その程度の力にまで落ち込むし、その程度のパンチで悶絶してしまう程だ。
つまりちょうよわくなる。
その中に閉じ込められてしまっているのなら、私には手出しが出来ない。
「俺が、あの女を助け出すのに、協力してやる」
「どうして、それを信用できる?」
「信用? しないことには海月が助けられないんじゃないのか?」
「……だったら、なんでお前の鉈から海月の香りがするんだ? お前が海月を刻んだことはもう分かってる」
こいつの鉈から香る海月の香り。
強く香ってくるからこそ、その鉈で海月が、一度ならず、二度、それ以上に切り刻まれたんだと分かる。
「理由は、さっきの話に戻る。俺の一族は、俺とあと一人しかいない」
「……で?」
煩わしいけど、仕方がないから話を聞く。
「俺と二人で暮らしていた。しかしある時、あの町にいる男に捕まってしまったんだ。解放してほしければ、吸血鬼を連れてこいと言われた。そいつと相対したとき、俺の実力を知られてしまったことが原因だろう」
「で?」
「吸血鬼に勝てるわけがないとは分かってる。けれど、あの不老不死を見つけた。代わりになるかと思ったが、あの男が言うにあいつはお前の所有物なんだろう。お前を町に誘導できると、そう言われた」
「で?」
「で、って……だから、お前を待っていたんだ。どうせ解放なんかしてくれない」
「だろうな。そういうやつは開放しないって相場が決まってる」
大方、海月は人質——、不老不死質ってところかな。
私や海月の身体を調べて、ゾンビ世界の対抗策、例えばワクチンみたいなものが出来ないかと考えているんだと思う。海月の身体ではそんなもの出来ないと海月も言っていたし、私の身体でもそんなものが出来るとは思えない。
とはいえ、海月が捕まったのは事実。
「お前は、自分の仲間を助けたいって理由で、海月を捕まえたのか」
「俺一人では何も出来ない。あいつを、助け出すことが出来ない。だから、お前に協力してもらうためには、こうするしかなかったんだ」
——さて、どうしようかな。
海月が銀の中に閉じ込められているのなら、私にはどうすることも出来ない。この、獏だかバグだかわかんないやつの手を借りないことには、銀の中の海月を助けられない。
でも、だ。
こいつが海月を襲い、海月を攫った張本人であるのなら、その協力を借りるのは癪だ。
なんて、他に選択肢はないか。銀に捕まっているのなら、私だってなりふり構っていられない。
「提案がある、吸血鬼」
「さっきのが提案なんじゃないのか」
「俺を喰え、きゅうけ——」
「やだ」
そいつが言い切る前に、私は言葉を被せた。
「な、なぜだ……? 俺を喰えば、少しは本調子に近づくはずだろ。そうすれば助けることくらい難しくない。片腕程度に抑えてくれれば、俺も問題なく動け——」
「どうでもいいんだよ、私は海月以外食べない」
「だ、だからって、助けられると思うのか?」
「食べないんだよ、海月以外は」
「吸血鬼の対処法を心得ているやつなんだぞ。少しでも調子を取り戻して——」
「食べない」
私は言いきった。
海月との約束だ。
私は海月しか食べないし、海月は私以外に食べさせない。
でも、海月は弱いから、自分で自分のことを守れない。だからこんな奴に切り裂かれて、ゾンビにその肉片を食べられてしまった。
裏切りだとは思わない。海月は弱いから、私が守らないといけない。
守れなかった、私のせいだ。
ようやく、守ってもいい存在に出会えたのに。
「お前は喰わない。町にいる人間も喰わない。海月を助け出してから、お腹いっぱい海月を食べる。お前はお前で、好きに暴れればいい。捕まってるやつでもなんでも好きに助けだせばいい」
「吸血鬼。なぜお前は、あの不老不死にそこまで入れ込むんだ?」
「なんでお前に言わなきゃいけない」
「お前はあの不老不死と出会って、まだ間もないだろ。尽きない食糧だからって、なんでそこまで入れ込む?」
頭の後ろを掻く。
こいつに説明してやる義理はない。けれど、明確な理由のあるそれを、隠しておく理由もなかった。
なにより、質問に答えてやれば海月のいる街にさっさと行ける。
「獏。お前、吸血鬼のなり方、知ってるか?」
「眷属じゃない純正のってことか……? いや、知らないが……」
「じゃあいい。どうせわかんねーから」
やっぱり答えるのが億劫になった。
海月は記憶力がないと、よく自分で言っていた。
羨ましいと思う。自分で言うのもなんだけど、吸血鬼はなまじっか知能の高い怪異で、昔あったことをそう簡単に忘れることが出来ないから。
そもそも、私が吸血鬼になった理由。人間時代に最も強く抱えた欲望の正体なんて、吸血鬼じゃなくたって、そう易々と忘れることは叶わない。どれだけ忘れたいと願っても、どれだけ葬り去りたいと思っても、瞳を閉じるだけで、襲い来る。
真っ暗な景色。
私に科された最も強い欲求。
私が、死ぬ方法。
「獏、私は勝手に暴れるから、お前は同族とやらを助けに行けばいい。——ただ、一つだけ協力しろ」
こいつの力を借りるのは癪だ。
だけど、だからと言って状況がそれなりに悪いことであるというのも、私は分かってる。吸血鬼に対応できる相手と今の私の状態で戦って、その後満足に動ける自身は、正直そこまでない。
「俺は、なにをすればいい?」
「一番重要な役割だよ。でも、私には出来ないことだ」
ため息と舌打ちの後で、私は言った。
「お前にやって欲しいのは——」
3
「おい、聞いたか? 吸血鬼の話」
「あー、千さんが話してたやつだろ? いくらゾンビがいるって言ってもさ、いるわけないよな、吸血鬼なんか」
「やっぱそうだよな。ま、仮にいるんだとしたら、どんな奴かっ——」
二人の首が飛ぶ。
不快な音と血液をまき散らして、首を失った肉体が倒れ込んだ。
私は、その様をしばらく見ていた。
「復活するわけないか」
今まで殺した人間の数は覚えていないけど、首を飛ばして復活するやつなんか海月以外にいなかった。さすがにそんなやつがいれば覚えてる。殺した怪異の中には復活するやつがいたかもしれないけれど、記憶するほどの興味もない。
「……さて」
ひっそりと、人間どもの会話に耳を傾けた限り、どうやらここは、鬼食(おにぐい)町というらしい。
円形の街だ。ぐるっと空を一周するのに数十分くらいしかかからなかったから、そこまで大きな町ではないと思う。とはいえ、どうやらそれなりに人がいる街ではあるらしい。夜だから、外に出ているのは街の外周に立つ物見やぐらみたいなもののところにいるやつらくらいだとはいえ、気配で建物の中にいる人の数くらいは分かる。そのあたり鋭敏だ、吸血鬼は。街の中央には工場らしきものがあり、そこから吹き上げる煙が何となく嫌な感じを覚える。吸血鬼に対応できるものがいるのなら、あそこで銀でも鋳造しているのかもしれない。
鬼食町なんて、なんとも不快感のある名前だけど、獏が言っていたことを思い出すに、ここには私のような吸血鬼に対応できる奴がいるらしいから、ひょっとすると意図してそう名付けられたのかもしれない。
まあ、町の名前は置いといて、とりあえずのところ、私は物見やぐらの上にいる人間を狩りまくっている。いくら空腹とはいえ人間相手に遅れは取らないとは言ったし、実際そうではあるものの、やっぱりそこそこの元気しか出ない。
昔私が暮らしていたところでも私みたいなのに対応できる奴はいて、そいつらと何度かやり合ったけど、かなり手間のかかる相手ではあった。今の私に、あいつらを相手取るだけの力があるのか。
例えば、今しがた殺した、眼の前のこれでも食えば、当然のごとく私は本領に近づく。
けれど私は喰わない。
海月以外を、絶対に喰ってやらない。
「やはり来ていましたか、吸血鬼」
声をかけられ振り返ると、妙にかっちりしたスーツ(海月が来たら似合いそうだ)を着た男がいた。考えるまでもなく、この男が私に——吸血鬼に対応できるやつなんだろう。私を知っている口調もそうだけど、手に持った武器が何よりの証明だ。
そいつが両手に、そして、逆手に持っている二本の剣は十字架だった。詳しい名称は知らないけど、十字架の上の部分といっていいのか、短い方を持ち手にして、長い方が刃になっている。長さはこいつの肘から先くらいで、短刀のようだ。
「……そいつは、もっと神聖なものじゃなかったのか?」
「吸血鬼を殺すための道具でもあるのですよ」
「まあ、それはそうか」
十字架に刺されるのは痛い。
普通の刀は私の身体に通らないから痛くもかゆくもないけど、十字架を使われるとただの打撃も致命傷だ。しかもおそらく、そいつの持っている二本の——二刀の十字架は銀製だ。
まったくもって、ことごとく吸血鬼を相手どる装備だ。
「さて、では始めま——?」
私の背後、町の外周がやけに騒々しくなり始めていることに、男は気づいたようだった。
悲鳴の中に、やつらの声が混じっている。
「何をしたのですか、吸血鬼」
「吸血鬼の血は濃いんだ。ゾンビくらい、簡単に集められる」
街の様子を観察するついでに、夜の警備に当たっていたやつらを全滅させた。実際は、町の様子の観察も、ついでに過ぎなかった。
本命は、私の血液をこの街の周囲にばらまくこと。少し経つと蒸発してしまう私の血液も、朝ごはんならぬ、朝海月を食べ損ねている分、蒸発までの時間は普通よりかかる。ただでさえゾンビを集める吸血鬼の血液がしばらく残っているのだから、集まるゾンビの量も普通よりずっと多い。
「吸血鬼の血……、それなりに貴重なはずでは?」
「貴重? 変に取られんのが不愉快なだけだ。別に思い入れなんかない」
私は、指先に傷をつけ、血を一滴地面に垂らす。
ゾンビのうめき声が、私たちの方へ向くのが分かる。
「思い入れがあるのは、不老不死のあの女性だけですか?」
こいつの身体から、二本の十字架から、海月の香りがする。
こいつは、海月とさっきまで一緒にいて、海月の身体を切り刻んだんだろう。獏の言っていた海月が銀に閉じ込められているという話も、こいつによるものと思って町がないないと思う。
「彼女は銀の中にいますよ? どうされるのですか?」
「その話、お前を殺してからで良くないか?」
「……そうですね」
ふっと笑って、その男は逆手に持った二刀の十字架を構える。
体勢は低い。
およそ人間とは思えない瞬発力で私の下へもぐりこんできたそれと同時に、私は高く跳ねる。ハーフマックスの、さらにハーフにも満たない今の私の脚力では、せいぜい建物の三階部分の壁に着地するくらいだった。
「お前らって、ちょいちょい人間離れしてるよな」
壁に脚をつき、高いところから見下ろして、私は言う。
「人間ですよ、これでも。垂直の壁に直立する貴方のそれなんて、できたものではない」
へらへらと笑って軽薄そうに言っているけど、その気になればできそうな身体能力を、こいつは有している。やっぱり、伊達に吸血鬼の対応者ではないらしい。
刹那、男は私に向かって十字架の一刀を投げてくる。その刀は建物を抉った。
片手をガラ空きにさせた男の下に、私は飛び込む。
振りかぶった全力の一撃を、男はもう片方の十字架で受ける。
「いっ——!!」
声を上げたのは、無論私の方だった。
十字架に、銀。触れるだけでも痛むものを、全力で殴った。その衝撃はそのまま、私の拳に戻ってくる。
私は飛び跳ねて、住居の壁へと舞い戻る。
「めっ——んどくさい武器持ってんな、お前」
「吸血鬼を相手どるのですよ? 準備はどれだけあっても足りません」
壁に刺さっていた十字架には鎖がついていて、男の腕に巻き付いたものとつながっている。男は手を引いて、壁の十字架を引き戻した。
「さて、吸血鬼——」
じゃらりと、男は両の十字架を地面に垂れ下げる。
鎖のついたそれを鞭のように振り、十字架の当たった地面、壁を、次々に抉り、それは範囲を広げていく。
「貴方を殺しましょう」
振り回された十字架は私を狙って飛んでくる。
まだ加速の途中なのか速度はそれほどでもないから、軽くかわすことは出来る。けれど、十字架は、男が振り回すたびに速度も破壊力も上がっていく。
それを止めようにも、十字架には触れないし、十字架と男の腕を繋ぐ鎖も銀製だ。そして、男の周りを囲うように回転し続けている。
武器も触れず、男にも近づけない。
「……どうしようかな」
ぼんやりと考える私に、男はまた十字架を振りかざしてくる。
それを避けようとしたところで——。
「——っっ??」
私の足の力が抜けた。
刹那、十字架が、私の胸を切り裂いた。
「——っっああああああ⁉」
なにが起こった? 当たってないのに?
混乱と激痛で片膝をつく私の元へ、うすら笑いを浮かべた男が、その手に十字架を戻して走り込み、十字架を振りかざす。
すんでのところでかわしたものの、私の白銀の髪が一房持っていかれた。
男は止まらないまま、一刀の十字架で私に追撃を繰り返す。
あたってしまわないように、私は後ろに引き続ける。それだって、胸の激痛でままならず、十字架が、髪、服、そして皮膚の表面を掠め始める。
吸血鬼にとって十字架や銀でつけられた傷は、どんな些細なものでも致命的な一撃だ。
言ってみれば、猛毒が塗ってあるのと同じ。掠めれば掠めるほど、毒は周り、身体の動きは鈍くなる。一瞬で治るはずの傷も、それらの攻撃で受けたものならば、そう簡単には治らない。
「中途半端な実力で、私に勝てると思ったのですか?」
気づけば私は壁際に追いやられ、胸から溢れた血液と多数の擦過傷で、血まみれだった。
それだけ多くの回数きり刻まれ、毒がすり込まれ、最早立っていることすらままならないほどに、身体が弱っていた。
「この十字架は、切っ先から銀粉をまき散らすのですよ。壁や地面の粉塵で、気づかなかったでしょう? 貴方は、多量の銀を体内に摂取している」
「——っっ」
男は、悪意を隠さない笑みのままにそう告げた。
ずるりと、私は壁に沿って身体を地面に下ろした。引きずった背に付いた血液が、壁にべっとりと血痕をつける。
私が弱っているからだろう。血液は蒸発しそうにもなかった。
「お……まえは、さ、私を……どう、するんだ……?」
言葉とともに血を吐き出す。
顔が上がらない。視界も霞んでいた。
「貴方に眷属を作らせます。そうすれば、ある程度生き残れる人材は増えるでしょう」
「は、はは……なんだ、殺すんじゃ、なかったのか……」
「殺すつもりではありましたよ。それくらいの気概でやらなければ、貴方に——吸血鬼には勝てません」
「眷属なんか……、もう、人間じゃ、ないだろ……」
「私は別に吸血鬼を撲滅したいわけではない。吸血鬼の血を人間に与えたところで意味が無いのも分かっている。ですから、吸血鬼の持つ眷属づくりの力だけ、貴方には貸してもらいたい」
「い、やだと、言ったら……?」
「言ったところでどうするのです?」
「………」
私の血液の香りにつられたのか、ゾンビが群がってくる。
そいつらはズルズルと足を引きずって、腐った身体をこぼして、ドロドロの腕を突き出して、私たちの方へ向かってくる。
「さて、では私もこのゾンビ騒動を収めるために動かなければいけませんね」
言って、男は。
手に持った十字架を、私の腹に突き刺した。
「うっあああああああああああああああああ!!!」
突き刺さった十字架は、私の腹を貫き、壁にまでめり込んだ。
さっきまでの擦り傷や切り傷とはまるで物が違う。
刺された、刺しこまれた。痛みの比は比べるべくもない。
「んっうぐううああああああ——!!」
しかも、その痛みは継続する。
「しばらくそのままでいることです。また戻ってきますから」
最も激痛を起こす状態が継続する。
血が混じろうと、のどがかれるまで、破れるまで——どうなろうと、私は叫ぶ。
その声か、吸血鬼の血液か、私の元に、ゾンビが群がり始めていた。
「く、来るな……や、やめ——」
私の頭を腐った手で、異臭のするそれでつかみ、私の顔にかじりつく。
弱り切った私の身体は、腐ったゾンビのそれだろうと、造作もなく噛みちぎれる。
首筋。
脚。
腹。
腕。
眼球。
もうどこを噛まれているのかも分からない。何体噛んでいるのかも分からない。
中途半端に死なないまま——死ねないまま、私の身体はむさぼられ続ける。
「傑作ですね。気高い吸血鬼が、腐った人間ごと気に喰われるとは」
男の姿がゾンビの身体のせいで見えなくなる。
声だけは聞こえる。遠く聞こえるのはきっと、私の意識の問題。
声で、居場所は分かる。
だから私は、ようやく。
反撃、することにした。
「さて、私もこいつらを——っっぁ!」
声を聴くに、多分成功したんだろう。
弾丸が、男を貫いた。
「なっ、にを——!」
人間は馬鹿だ。
特に私みたいなものへの対応法を知っている奴なんか特に。
私が、現代兵器を使わないと思ってる。
私の懐に、海月のリボルバーをずっと入れておいたのだ。
けれど、あの瞬発力を持つ男相手に当たらないだろうと思ったし、ましてやこんな銃を使ったこともない私だ。とてもじゃないけれど当たるとは思えない。
だから、油断を待った。
確実に当たる油断を、確実に当たる距離を、待った。
「ぐっっ——くそっっ——くるな!」
吸血鬼の血液は濃い。だから、ゾンビたちは私の方へ群がる。集まってくる。
しかしそれでも、間近にもう一つ血液の香りがすれば、私に喰らいつけないゾンビがそっちへ向かうだろうことは、想像に難くない。
「あ、は、はは……、ばーか」
男が抵抗をしている。そんな音がする。
私の血液の香りに誘われたゾンビの数は相当だ。
どこに当たったかは分からないけど、弾丸に貫かれた負傷で、満足に相手は出来ないだろう。たとえ私と相対できる力があっても、所詮は人間だから。
「がああああああああ!」
男の悲鳴が聞こえる。
私の身体も食われ続けている。腐った汚い手が私の身体を好き勝手に握っている。異臭のする口を開いて、かじりついている。腹には激痛を引き起こし続ける十字架が突き刺さっている。
だけど。
「は、はは……」
男の悲鳴は、多少なりとその不快感を緩和してくれるようだった。
4
「——っくそ! こいつら、どれだけ群れて……! おい! 吸血鬼! 起きろ!」
「………」
……。
………こえ?
「なんで動かな——これ……か!」
「あっ……うっがあ——!」
いたい。
おなか。われる。
いたい。
「い、いきてんのかよ……これで……」
あかいち。たくさんの、ち。
しろい?
ばらばら。みどり。
くさい。ぐちゃぐちゃ。
「く……ぁげ」
だれ?
しってる、かお。ばくの、かお。
ぼやぼやの、かお。
「まだ終わってないだろ! 動けよ! あの女助けるんだろ!」
「う、あ……」
じめん。
うで。
ない? どうして?
ふしぎ。
どこ?
「い、ああ……う」
ひきずる。よわい。
ない。
……どこ?
「お、おい。吸血鬼、どこに……?」
「あ、ううあ」
どこ?
どこ?
「く……ぁげ」
くらげ。
どこにいるの?
「おえあ……ぎ、えあ……」
わかる。におい。
あっち。あっち。
「……あっちの方に、あの女がいるんだな⁉」
あがる。
どうして?
「お前が喰わせるなって言ったんだからな……! あとで恨むなよ!」
どいて。おろして。
いかないと。
くらげのとこ。くらげ。
くらげ。
あいたい。
「ちょっと揺れる! 我慢しろよ!」
くらげ。
くらげ。
くらげ。
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