泰然自弱、愛の切端①

1


 タクシーを降りて紫音の家に着くなり、ボクは彼女の家のインターホンを鳴らした。事前の連絡はしなかった。いつもだったらするのだけど。


「……拓巳くん?」


 紫音は玄関を開けて、驚いた表情でボクの顔を下から見上げたが、すぐにボクを中に招き入れた。


「えと、良いよ。入って」

「ありがと」


 ボクは紫音の言葉に甘えて、彼女の家に入った。もう何度も来て、慣れた場所だなと思った。女の子の家は、三回も来れば自分の家みたいに振る舞うことにしている。その方が、女の子の方も喜ぶのを知っている。男が強引に家に来たという言い訳は、女の子にとっては棄却しづらいカードだ。ああ、そうだな。ボクも同じだったと思う。静香は、ボクの家に強引に転がり込んできた。ボクはそれを受け入れるしかなかった。


「拓巳くん、何かあったの?」


 リビングのソファにどかりと座るボクを見て、紫音が心配そうに尋ねた。


「急にごめん」


 ボクは座ったまま、頭を下げる。紫音は慌てて首をぶんぶんと横に振った。


「ううん。私は全然。あ、なんかいる? コーヒーとかなら、すぐ用意できるけど」

「お願い」

「うん、わかった!」


 紫音は気合いの入った口調と共に力強く頷くと、キッチンの方へ消えていった。この感じ、少し懐かしい。大学に入ってすぐの頃、女の子に対するスタンスを決めかねていたボクは、女の子に対して色々な自分を試した。わざとデリカシーの欠ける言葉遣いをしてみたり、わがままな自分を演じてみたり。結局、色々試してみて、今多用している「とにかく優しくて、頼みはなんでも聞いてくれる、都合の良い男」のロールプレイが、一番女の子と仲良くなれると踏んだ。それまでは、今以上に何度も女の子にフラれた。勘違い男だの、顔も良くないくせに選ぶってるだの、散々な言われようも経験した。おかげで、仮面を被らないと他人は自分に惹かれないのだと、早々に理解した。


「はい」


 紫音が二人分のコーヒーカップを手に、キッチンからリビングに小走りで来た。ボクは紫音から一杯分のコーヒーを受け取る。温かな湯気がボクの顔に当たった。一口飲んでみると、熱くも温くもない、ちょうどいい温かさだった。


「瑞穂」

「な、なんでしょう」


 紫音は少し肩をこわばらせながら、呼びかけに応えた。


「瑞穂はボクのこと、どう思ってる?」

「どうって……」


 紫音はこわばっていた肩をストンと落とす。


「拓巳くんは、優しい人だと、思う」


 紫音は、いつか言っていたのと同じことを言った。でもやっぱり、それは間違いだと思う。ボクは優しくなんてないし、紫音が何故そう思っているのかも分からない。


「ボクは瑞穂にはひどいことしかしてないと思うんだけど」

「どうして?」


 紫音は不思議そうに首を傾げる。心当たりがないとでも言いたげだが、絶対そんなことはないのに。


「浮気して、言い訳もしなかった」

「それは昔のことでしょ」

「瑞穂のこと、すぐに気付かなかった」

「私も言わなかったし。昔とは結構変わったし」

「うん、前よりももっと可愛くなった」


 紫音は目を大きく開いて、恥ずかしそうに俯いた。


「瑞穂の気持ちにも応えられない」

「私が拓巳くんのこと、勝手に好きなだけ、だから」

「それでも好きなの?」


 紫音は顔を上げる。口元が歪んで、泣きそうに見えた。それでもボクの目を真っ直ぐに見て、吐息を漏らす。


「好き、だよ」


 どうして、と言おうとして、やめた。ボクも彼女と同じだと思ったからだ。

 ボクもやっぱり今でも静香を好きだ。


「そう。そっか」


 ボクは紫音の入れてくれたコーヒーをゆっくり飲んだ。紫音もボクの方をチラチラ見ながら、自分の分を飲む。コーヒーを飲む音だけが部屋に響いている。ボクも口を開かないし、紫音も自分からは何も言わなかった。


「瑞穂」

「はい」

「おいで」


 ボクは両腕を開く。紫音がおそるおそるボクに近づいて、ボクの目の前の床にペタンと座った。ボクは彼女を抱き寄せて、顔を胸に埋めた。


「うぷっ」


 紫音は息苦しそうな声を上げた後、ピタリと頬をボクの胸にくっ付けて、ボクの脇の下から手を入れる。ボクは一度紫音を体から離して、彼女の体をすっと持ち上げると、ボクの膝に座らせた。紫音の顔と、ボクの顔が近付く。視界には彼女しか見えない。鼻と鼻が擦れ合うくらいにお互いの顔を近づけてから、ボクは紫音の首筋に指を這わせる。そのままグッと彼女を引き寄せて、唇を重ねた。ボクが彼女の口内を舐めると、彼女の方もぎこちなく舌を動かせた。紫音の心音が、ドキドキとものすごい勢いで服越しに伝わっている。そういえば、酒もなしに彼女とこうしたのは初めてだったのか、と思い出す。ボクは唇を離すと、さっき紫音がそうしたように、ボクからも彼女の目をじっと見つめた。


「脱がせても良いの?」

「え、あの、えと」


 もう何度も同じようなやり取りをしているのに、紫音は目をキョロキョロと泳がす。


「ん」


 ボクは、先に自分のシャツを脱いだ。汗臭さを感じた。玲奈さんのところでシャワーは浴びたとは言え、服に染みついた汗の匂いがまだ取れていない。ボクは少しだけ紫音を抱くことをためらった。紫音はボクの体臭を気にすることなく自身の両手を胸に当てながら、激しく瞬きをして、ボクの裸を見ながら深呼吸をしている。ボクは彼女の両手首を掴み、手を胸からどける。彼女の着ていたワンピースを一息に脱がせて、ブラも外した。あまり陽に当たっていないことがわかる肌白い胸がボクの視界に飛び込む。紫音がまた恥ずかしそうに手を自分の胸に当てたので、ボクはまた彼女の手首を掴んでどかした。


「拓巳くん。私、あの、まだ、準備」

「ダメ?」


 ボクは目を細めて、紫音を見る。紫音は頬を染めた顔で、ポカンと口を開けながら、ふるふると首を横に振った。ボクは紫音の手首を拘束したまま、また彼女と唇を重ねた。半分以上、自暴自棄なのは自覚していた。けれど、この子とはずっと、そんな風なセックスしかしてこなかったな、と思う。


「可愛い」


 ボクは呟く。いつも、女の子には当たり前のように告げる言葉だ。それが自分の言葉なのかどうかなんて、もう分からなくなっている。嘘をついている気はない。自分の言葉が嘘だと自覚してしまったら、ボクはダメだと思う。当たり前のように嘘を吐いて、平気な人間もいるけれど、少なくともボクはそうじゃない。紫音が、それを優しさと呼んでくれるのなら、そうなのかもしれない。


「ふわ」


 紫音が蕩けるような吐息を声と共に出す。ボクは彼女の拘束を外す。そのまま彼女がボクの首元に手を回すのを合図に、ボクは彼女のショーツを脱がせた。ボクも自分の下着を脚だけでうまく脱ぐ。ボクは彼女のお腹の辺りに指を這わせて、ゆっくりと彼女の柔肌を刺激した。嬌声が部屋に響いている。どこか、その声に物足りなさを感じた。どうしてなのかと頭を悩ましていたが、紫音の方からボクの腕を掴んで、手を自身の首筋に添わせたのを見て、納得した。


「このッ」


 ボクは手を震わせながら、彼女の首を両手で絞める。どうして震えているのか、自分でも分からない。

 自分の感情に何か理屈をつけようと頭を働かせる。けれど、喉元から空気を断たれた彼女が、恍惚な表情でボクを見るのを目の当たりにして、考えるのはもう止めにした。自身の心臓の鼓動が高まっていた。多分、さっき紫音から感じたそれと、同じくらい。


「なんでッこんなッ」


 彼女の細い首の感触に、ボクは手だけでなく声も震えていることに気づいた。ボクは怯えていた。何人もの女の子を相手にしながら、その欲望に応えてきたボクが、心の中から湧いてくる自分では正体不明の感覚に、恐怖を覚えていた。何度かボクは彼女の首から手を離そうとしたけれど、それを許さないとでも言うように、今度は紫音の方がボクの手首を強く掴んだ。当然、振り払おうとすれば振り払える強さだ。それでもボクは逃げることを封じられたように感じて、泣きたくなった。なんとか唾を飲み込んで、涙だけは抑えた。大輝さんを殴った時以上に、玲奈さんの家から逃げ出した時以上に、ボクはもうこれ以上、惨めな気持ちになるのはごめんだった。

 彼女の体がぶるぶると震えた。ボクはパッと手を離す。肺に一気に空気が送り込まれた反動で、紫音が激しく息継ぎをする。彼女の顔が真っ赤に染まっている。彼女のその表情に、ここから逃げる以外の全てを許されているように感じた。ボクが女の子にいつもそうしていたように、紫音はボクに、したいことをするように、促している。けれどボクと紫音が違うのは、紫音はそれを打算でも、意図的にやっているのでもない、ということだ。ボクは紫音に覆い被さるように体を重ねた。


「紫音ちゃん」


 ボクは名前を呼ぶ。紫音はとろんとした表情で頷いた。鼻水と涎が、だらしなく垂れている彼女の顔は、綺麗とは到底言いがたい。


「好きだよ」


 紫音が急に我に帰ったように目をぱちくりさせて、驚いて口を開けた。ボクはその口を手で塞ぐ。そのまま彼女の耳元に口を近付けて、もう一度同じ言葉を囁いた。


「好きだ、紫音」


 そう囁くことで、自分の中にあった薄っぺらな壁がガラガラと壊れていく心地がした。今、ボクは何をしてしまったのか、自覚はない。そんな理性で考えるのは、とりあえず今はやめておくことにした。ボクの目の前にいるのは、ボクのことを好いている可愛い女の子。その子の痴態に、ボクは興奮して、愛おしく思っている。今、気にするべき気持ちはそれだけ。


「私も、好き」


 紫音がポロポロと涙を流して、言った。ねえ、紫音。ボクはやっぱりひどい男だよ。

 ごめんね、とボクは心の中だけでつぶやいて、もう一度彼女と唇を重ねた。そのまま腕を、脚を絡めて、二人裸のまま、体を重ねる。二人ともまるで、あの頃に戻ったみたいに心臓の鼓動が跳ね上がっているのを、今度は直に感じた。頭の中が空っぽになる。ふわふわと浮遊するような心地のまま、何度も唇を重ねて、ボクは彼女の情けない表情を見たいという欲望にだけ身を任せて、彼女を床に組み伏せたまま、何度も体を重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る