自己愛、歪んだ思い出⑦

 大輝さんを殴った後、ボクは何も言わずに自分の家から逃げ出した。我ながら、ダサ過ぎる。大輝さんも静香も何考えてるんだ。ボクが他人のことをとやかく言えるような人間じゃないことは当然分かっている。でも。

 大輝さんの車が停まっていた公園近くで立ち止まって、ボクは息を切らしながら、静香の夫に電話をかけた。コールが続くばかりで、繋がらない。ああ、多分まだ寝てるんだな、朝早いから。馬鹿が。自分の妻が顔の良い知らない男と寝ている間に、独り爆睡か。呑気なものだな。


「馬鹿野郎がッ!」


 思わず口をついたそれは、決して静香の夫に対する罵倒なんかではなかったと思う。ボクは自分の手のひらを見た。少しだけ血がついている。大輝さんの顔を真正面から殴った時に鼻血かなんかついたな。ボクは公園のトイレで手を洗う。ボクは結局、そのまま大学に向かった。こんな状態じゃ、講義の内容なんてロクに頭に入らないとも思ったが、大学に着いた頃にはもう、だいぶ冷静になっていた。講義を聞きながら、ボクは改めて頭の中を整理する。大輝さんが静香に興味を持っていたのは分かっている。あの人はそういう人だ。静香は──多分、夫とうまくいってない。正直、その辺りのことを詳しく突っ込んで聞く気もない。静香の夫のあの優しさは、優柔不断な態度と紙一重、というか同じだ。何かきっかけがあって、静香がそれに嫌気がさしたというのも想像に難くはない。でも、だからって大輝さん──仕方ないか。あの人、本当に顔が良いし。女の子を落とす手練手管もある。そうやって、この人相手なら仕方ないという言い訳を幾重にも重ねて繰り出す人だ。

 でも、それならやっぱりボクでも良かったのだろうか、と思う。今の静香、そして今のボクなら、またお互いに気持ちを通わせられたのではないか。そんなもしもを、考える。考えてしまう。


「いや、やっぱり殴るこたなかったな」


 ボクは教室で、静かにそう声に出す。それも顔面から。もしかして、普段からあの顔にムカついていた本音が溢れたのかもしれないな、なんて思う。ボクはスマホを開く。静香や大輝さんから連絡はなかったが、静香の夫から留守電が入っていた。講義を終えて、ボクは早速彼に掛け直した。


『もしもし、拓巳くん』

「どうも、裕貴斗さん」


 電話口から聞こえる静香の夫の声からは、少し疲れを感じた。仕事に忙しい時間帯かもしれない。


『何かあった?』


 静香に、とは言わなかったが、そうしたニュアンスだ。さっきまでは、大輝さんのことを含めて洗いざらい話そうとして電話したわけだけど、今はわざわざボクから話す義理はない、と感じる。


「静香、当分帰る気なさそうですよ」


 だから、ボクは曖昧な言葉で濁した。そんなことで電話したというのも不自然だから、そのまま適当に静香の近況を話すことにする。


「あの人、だいぶ好き勝手やってます。友達と遊びに行ったり、家に泊まりに行ったり。男の人もいるみたいですよ」

『そう。元気ではいるんだね?』

「元気です。元気過ぎてこっちが困るくらいには」

『それなら、良いよ』


 何がいいものか。浮気してるんだぞ、あんたの奥さん。それも自分と歳もそう変わらない顔の良い男と。やっぱり全部言ってやろうか。いや、多分この男はそれをボクから伝えられたところで、怒る素振りなんかは見せないのだろうな。


『静香も、拓巳くんのことなら安心だし』

「その安心ってのはどういう意味ですか」


 対してこちらは、彼の物腰にどうしても少しイラついてしまう。ボクと静香の関係を対して知りもしないくせにどうしてそんなことが言えるんだ。客観的にも、姉弟とは言っても本当の家族じゃない。それならその間に何かあってもおかしくないと邪推するくらい、この人だってしてもいいはずじゃないか。


『どうって……』


 静香の夫は、困ったように声のトーンを落とす。小さな唸り声が電話の向こうから聞こえた。


「まあ……何かあったらまた連絡します」

『そうだね。うん、ありがとう』


 そんな煮え切らない感じの通話を終えて、ボクは大きく溜息をついた。こんなどうしようもない奴に、ボクは負けたのだと思うと、惨めだ。大輝さんみたいな人ならまだわかる。今朝は殴ってしまったが……。

 ああ、そうか。何でこんなにイラついているのかと言えば、二度目だからだ。静香を誰かに、取られたのが。最初は付き合っていた頃に、今の夫に。今度は成り行きとは言え、一緒に住んでいたのに、大輝さんに。

 あの人── 裕貴斗さんと初めて顔を合わせたのは、紫音──田口瑞穂と付き合い始めてから、半年くらい経った頃のことだ。ボクが静香に捨てられてから、彼女が別の男と付き合い始めていたことは、彼女のSNSなんかを見る限りで知っていた。ボクの実姉の誕生日パーティーの時に、静香はその男を連れて来た。その時もボクは、彼のことを「冴えない男だな」と思った。物腰柔らかで、誰かに話しかけられたらそれなりに会話は続けるけど、それ以上もそれ以下も自分を出さない。彼に対して、劣等感を覚えることはなかった。それよりも感じていたのは、やはり悔しさだった。もしボクが静香よりも大人だったら、もしボクがもっと並よりも余裕のある男であれば、もしボクが静香を悦ばせるだけの器量があれば。こんな男に、静香を取られることはなかったのにと、そう思った。

 結婚式になっても、ボクは静香と彼を祝福する気分にはなれなかった。一時の激情に任せて結婚したところで、どうせすぐに別れる。そんなカップルが世の中にどれだけいるか、あの二人は考えたことがあるのだろうかと、ボクは暗い目で、静香がバージンロードを歩く姿を見ていた。二人の馴れ初めが映し出されるスクリーンのことも、無感情に見ていた。


『二人が出会ったのは、大学の入学式。二人ともすぐにお互いに結ばれる運命だとさとりました』


 そんな小っ恥ずかしいナレーションを、ウェディングプランナーがマイクで口にする。大学に入った頃なら、まだボクと静香は付き合っていた。こういうのは、細かいことは置いといて綺麗に脚色した二人の道程を真実として語るのだから、仕方ない。新郎新婦がかつて付き合った相手のことまで網羅した結婚への道筋なんて、誰も聴きたくない。それでも、こうやって二人の道が他人に綺麗に舗装される物語を聞いていると、まるで自分の存在は最初からなかったみたいに感じられて、その時ばかりは感情が動いた。きっと静香の中でも、ボクとの昔の思い出なんてなかったことになる。ここで語られたことが次第に真実として、彼女の中で記憶されていく。何か、我慢のならない気持ちだった。ボクはあんなに静香のことが好きだったのに。一世一代の告白をして、彼女の出した条件もクリアして、恋人になった。それが全て、過去のこと、幻のようになるなんて、あんまりだ。それなのに、よりによって静香はボクを新婦の付き添い人の一人に選んだ。認められない新郎のもとに静香を誘導すると、彼女はさも幸せそうに笑った。ボクは彼女の背を睨みつけたが、彼女がその視線に気付くことはなかった。



5


 大学の講義、ゼミを終えたボクは玲奈さんのところに向かった。静香と大輝さんからは相変わらず連絡がなく、ボクの方から彼らに何か言うのも、嫌だった。再び自分の部屋に帰る気力をなくしたボクは、静香がボクの家に来た時そうしたように、まず玲奈さんを頼ることにしたのだった。


「──というわけで、今は帰りたくありません」


 ボクは玲奈さんに、今日のことを少し脚色して伝えた。ボクの気持ちのすべてを吐き出すのは土台無理だ。自分の歳上の友人が自分の姉と関係を持っていて、そのことにカッとなって友人を殴ってしまったせいで気まずくなり、今は顔を合わせたくないという筋の説明を玲奈さんに言った。


「だからやっぱり、部屋貸してください。当然、その分仕事はするので」

「強引だなあ」


 リビングのテーブルでお互いに顔を見合わせる形で、玲奈さんは呆れた様子で溜息をついたが、ボクの頼みに対して首を縦には振ってくれた。


「金元、やっぱりシスコンだったんだな」

「そうだったみたいです」


 玲奈さんに伝えた内容からは、それにはボクも頷く他なかった。


「お姉さんの旦那には話してないの?」

「一応、電話は入れました。話しませんでしたけど」

「ふうん。ま、他人だから関係ないって立場から言うけど、それも当人同士の問題だろうしな」

「ボクもそう思いますよ」

「なるほどね」


 玲奈さんは椅子から立ち上がると、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出して、ボクに一つ渡した。


「ほれ」

「ありがとうございます」

「素面でする話でもないしな」


 玲奈さんは自分の分の缶ビールも取り出して、タブを開ける。プシュッという景気の良い音が鳴り、ボクもそれを合図に自分の分の缶を開けた。


「で、えっと何だっけ」

「姉の話です」


 ボクらは二人で乾杯をして、まずは一缶開ける中で、改めてボクは玲奈さんに促されて、さっきの筋のまま今の状況を説明した。


「お前も他人のことどうこう言える人間じゃないだろうに」

「そんなの、ボクだって分かってますよ」


 玲奈さんは呆れ顔のまま、酒と話の続きを促した。ボクは自分の静香に対する感情は隠したまま、大輝さんのことや、静香のことを話した。どちらも長い付き合いだ。二人のことも、よく知っている。二人でどうこうしたいなら、好きにすれば良いとは思う。それはそれとして、煮え切らない気持ちもあるにはある。そんな曖昧なことを、玲奈さんに愚痴った。


「家族と友人とね。ま、大変だろうなってのは分かるよ」

「そう言ってもらえると、助かります」


 話していると、気付けば二人合わせてもう十缶以上はビールや缶酎ハイを開けていた。ボクもいつもより酔いの回りが早い。ボクはほろ酔い気分で玲奈さんを上目遣いで見上げた。


「玲奈さん、今日良いですか?」

「何を」

「セックス」

「金元にしては直球だね」

「何かもう、駆け引きとかそういうの面倒なんで」

「確かに、傷心状態のまま女のところにきて、慰めてほしいなんてのは駆け引きとしても下の下だな」

「そうかもですが、ボクはそういう人間ですよ」


 最初に静香にフラれた時からして、そうだ。ボクはそのことを紫音──田口瑞穂に言い、自分の弱みを武器にして、彼女を抱いた。ボクに少しでも好意を抱いていたことを当時のボクは利用したのも確かだ。今はそういうことを極力避けているけれど、元々ボクはそういう奴だ。そういう奴だからこそ、わざと避けないといけないんだ。


「別に良いよ。金元がしたいなら」

「玲奈さんはどうなんですか」

「どっちでも」

「ボクとはしたくありませんか」


 ダサい尋ね方だな、と分かりつつも口にする。ここ最近、ホントこんなのばっかりだ。


「今日は流石に随分と絡むな。珍しい」

「どうなんですか」

「んー、私も酔ってるから適当なこと言うけど良いか?」

「良いですよ」

「それならまあ、言うけど」


 玲奈さんは眉間に皺を寄せながら、もう一本缶ビールを開けるて、ぐいと一口飲む。それから「ぷはぁ」と美味しそうに息を吐いて、ボクの下半身の方に目を向けた。


「お前としても、気持ちよくないもん」

「……は?」


 酔いが覚めた。ボクは困惑しつつも、玲奈さんの顔を見る。


「どういうことですか」

「そのままの意味。いや、金元との夜は楽しいよ。だから金払ってるわけだし。でも、セックスは気持ちよくない」

「言ってる意味がよくわからないんだけど」

「んー、適当に思ったこと口にしてるだけだから怒らずに聞いてほしいんだけど、何て言うかさ、金元のセックスってさ」


 玲奈さんはまた一口、ビールを口に運んだ。口元からビールが垂れて、それを指で拭った後、ちらりと視線を上に戻して、ボクの目を見た。


「童貞ぽい」

「言うにこと欠いてそれはないでしょ」


 ボクは極めて冷静に、笑いながら返したが、実のところ、あまり穏やかではなかった。


「いや、今だから言い時かなと思って」

「そんな傷口に塩塗るみたいな」

「金元がそんなに傷ついてるの、やっぱりお姉さんが好きだからだろ。いやこれは、家族的な意味じゃなくてさ」


 玲奈さんには、ボクの薄っぺらな取り繕いは、見抜かれていたようだった。

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