自己愛、歪んだ思い出⑥

 そうして事を済ませて後、祐実はすぐに寝た。祐実の吐息のかかる位置で、眠る彼女の寝顔をしばらく見ていたが、それにもすぐに飽きて、適当な動画を見たり、大学の課題レポートを進めたりしていた。静香も含めて、女の子からの連絡はなかった。それでもこうして暇になると、紫音のことが少し気になった。彼女の首を絞めながら致して、お互いに果てた夜以降、連絡を取っていない。ただ、今思い出してもあの夜は、良かった。相手が元恋人で、しかもそのことに気付かなかった緊張感だとか、普段はやらないプレイだとか、極度に入ったアルコールだとか、色々な要因はあったんだと思うけれども。


「気持ち良かったな……」


 あの時ばかりは、いつも感じるゴムの中に精を吐き出した時の気持ち悪さのことも忘れていた。感じるまでもなく意識が朦朧としていたせいもあるが。それでもボクにとっても、あの一夜が悪くないものであったのは間違いなかった。紫音もおそらく、同じことを思っていたずっとボクに、自分が田口瑞穂だと言い出せなかった彼女が、それをはっきりと告白できたことは、彼女にとってかなりスッキリすることでもあったのではないか。そう思いたい。


「……これで良いか」


 ボクは紫音宛にメッセージを送った。祐実と行った居酒屋の食事を写真に撮っていたから、それを『今日のご飯』という文言と一緒に。すぐに既読になって、返信が来た。


『おいしそう』


 ボクも即座に『おいしかったよ』と返す。


『私はコンビニ弁当』

『そうなの? じゃあ、ご飯誘えばよかった』

『あまり、外でご飯食べるの好きじゃないから』

『そう? こないだはそんな風に見えなかった』

『拓巳くんだけなら良いけど』


 そんなやり取りを何往復かする。祐実は隣で相変わらず寝息を立てている。ボクは立ち上がって下着を履くと、リビングに向かった。食器棚から適当にコップを取り出して、水を汲む。ゴクリと一杯飲み込み、喉を潤した後、上着も着て外に出た。祐実のスマホにも一応、コンビニに寄る旨のメッセージを送る。合鍵で玄関を閉めてから、紫音に電話した。


『もしもし』


 深夜にも関わらず、紫音はすぐに電話に出た。


「夜中にごめん。声、聴きたくなって」


 決まり文句ではあったけれど、本心だった。決して、彼女に対して情が動いたとかではないけれど。


『ううん。私も一緒だから』


 紫音はいつもと変わらぬ、弱々しく今にも掠れそうな声で応えた。


『拓巳くんは今、何してたの?』

「大学のレポートやってた。でも手が止まって夜食でも買いに行こうかなって外出たとこ。そっちは?」

『こっちも、似たような感じ』


 ボクの応答に対して、紫音は少しだけ笑い声を含んだ調子で言葉を続けた。


「この時間、お腹空かない?」

『そうだね』

「ただ、あんまり食べ過ぎると太るしなあ。その分運動したら良いか、とは思うけど」

『拓巳くん、やっぱりそういうの気にするんだ?』

「そりゃね。ムキムキってわけにはいかないけど、結構良い体でしょ?」

『ふふ、確かに』


 そんな風に話しながら歩いていると、コンビニに着いた。


「明日、家行っても良い?」


 ボクが尋ねると、それまで笑いながら応えていた紫音が黙った。一瞬だけ、ボクの思考にも緊張が走る。直接会うのはダメか? その可能性は考えていた。この前は、酒の勢いであんなことをしてしまったけれど、ボクが紫音のことを忘れていたことも含めて、彼女に対して酷いことをしていたのは間違いない。


『……拓巳くんチは?』


 少しの沈黙の後、いつもと同じ小さな声量で紫音が言った。


「ウチは、姉がいるから」

「あ」


 紫音はそのことをすっかり忘れていたらしい。それで思い出した。静香は田口瑞穂のことを覚えていたけれど、紫音の方はどうなのだろう。


「し……瑞穂って、静香のことは覚えてた?」

『お姉さんのこと? ……うん、覚えてたよ』


 それはそうか。だから結局、ボクが白状だったという話だ。


「静香も覚えてたよ、瑞穂のこと」

『そうなんだ……』


 紫音はまた黙ってしまった。そんなこと言われても困るか。


「じゃあコンビニにも着いたし、この辺で。また。急にごめんね。ありがと」

『うん、こっちこそ電話くれて嬉しかった。ありがとう。またね』


 少し名残惜しさもありながら、紫音との通話を切り、コンビニに入る。そうは言っても、特に何か買いたい物があるわけじゃない。夜遅くまで起きちゃったし、明日の朝ごはんは簡単に済ますか。ボクは食パンとバター、ジャムなんかを買って外に出た。祐実の家にはトースターもあるから、この後短い睡眠を取って、できれば彼女より早めに起きてパンを焼こう。ボクはスマホを確認する。祐実に送ったメッセージは既読になっていない。まだぐっすりと眠っているんだろう。ボクはホッと一息ついて朝ごはんの材料と一緒に買ったあったかいコーヒーを口にした。体の芯から温まって、ボクは思考を巡らせる。静香には朝帰ると言ったけれど、どうだろうか。昨日、殊勝な態度だった彼女を頭に思い浮かべてみたが、あまり現実感がなかった。

 静香はボクにとって、ずっと制御の効かない台風のような存在だった。それが、こちらの思惑通りではなかったにしても、ちょっと手を替え品を替えただけで、あまりに矮小になってしまったような、そんな感じがする。静香にフラれてからこの方ポッカリ心に空いた物を、今は感じない。心の穴だなんて、そんなものないと自分には言い聞かせていたけれど、今なら言える。ボクの心には静香とのことで、これまで間違いなく穴が空いていた。それが今はない。

 心の穴を埋めるのって、こんなに簡単なことだったのか。そう思う気持ちと、何か釈然としない気持ちと、両方がある。でも、それもこれも考えていても仕方ないことだ。もう、静香のことで心を悩ませるのは、やめにするんだから。


「ただいま」


 祐実の家の鍵を開けて、寝室に向かう。思った通り、祐実はまだぐっすりと眠っている。ボクは祐実の横に潜り込んで、目を瞑った。静香のことは考えない。紫音とも、今まで通りで大丈夫そうなことがわかった。今日はもう、考えるのも何もかも、やめだ。そう思うと、気持ちは楽だった。



4


 朝起きてトーストを焼き、祐実を起こして一緒に朝食を食べた。祐実も学校に行かなければいけないから、朝は早い。ボクは慌てて食事と仕事の支度を済ませて出掛ける祐実を見送って後、祐実の部屋の鍵を閉めて、合鍵をポストの中に入れて帰ることにした。これも慣れた手順だ。家に帰る途中、静香からメッセージが届いていたことに気付いた。


『昨日はごめん。反省してる。朝ごはんは食べたよ。もう出るね』


 と、そういったメッセージが矢継ぎ早に届いた後に、ごめんねと行ってきますのスタンプが続けて送られてきた。反省って、何がだよ。とりあえず謝っておく、というのは大事なことだけれど、何も考えずにただ誤ったと思われるのは愚策も良いところだ。ボクなら、女の子相手にこんな応対はしない。ま、別に良いけど。静香が家にいないなら、それはそれで良い。

 家に戻る途中、見覚えのある車が目に入った。駐車場を使うのをケチる奴が、よく路駐している公園近くの道路脇だ。


「これ、大輝さんの……」


 大輝さんとはバーで会うことが多いから車を運転している姿をボクはあまり見たことがないが、彼も当然、車は持っている。ボクも数えるくらいではあるけど、乗せてもらったことがあるから覚えている。紫音のことがあった後だから胸を張って言うのは憚れるが、女の子を相手にする中の基本スキルとして、ボクはそこそこ記憶力には自信がある。そこまで目立つわけではないが、国産のスポーツカーだ。より忘れづらい。あまり路駐するもんじゃない。ナンバープレートにも見覚えがある。


「あの人……」


 また静香に会いに来たか。他人のことを言えた義理じゃないが、ご苦労なことだ。でも、静香はもう家を出たらしいし、大輝さんには悪いけど、無駄足かな。


「いや……」


 そこまで考えて、ふと嫌な想像が頭に浮かんだ。ボクは唾を飲み込んで、少し小走りで家に向かう。まだギリギリ早朝と言って良い時間だ。祐実が教師として学校に行くから、ボクも早めに起きたわけだけど、いくら用事があるにしても、いつもの静香ならまだ寝ている時間、だと思う。ボクはこの間、大輝さんと家の前で会った時のことを思い出す。大輝さんも元々、そのつもりで家に来ていたのだろうから。それに彼はボクの師匠を自称しているが、実際のところ、女の子を相手にするに辺り、彼に教わったことは少なくない。ボクが一夜を共にした女の子の朝食を用意するようになったきっかけの一つに、今の子はご飯作ってくれる男には弱いよ、なんて大輝さんが言っていたことは含まれる。走ってきたこともあり、早めに家の前に着いた。ボクは家の鍵を取り出して、玄関の扉に手をやる。


「あ」


 ガチャリ、と玄関が開く。部屋の向こうから、顔の良い男が出てきた。その顔はさっぱりとしていて、髪はシャワーしたばかりのような艶がある。


「拓巳、早いね」


 大輝さんは何でもないようにニッコリと笑うと、ボクの肩を叩いた。このまま出ていくつもりらしい。


「あ、拓巳……」


 静香が脱衣所のある方から、裸で廊下にでてきた。何度目だよ。裸でボクの家を彷徨くのはやめろって。っていうか、それどころじゃないな今は。静香の顔が、お湯を浴びたばかりだろうに青ざめている。あちこちと目を泳がせた後に、ボクの肩に手を置いている大輝さんの方を見て、困ったように笑った。

 ──どうして、そんな選択肢を取ったのか、ボクも判然としない。つい最近、大学の同級生から女の子を寝取ったことがバレて男に顔を引っ叩かれたせいかもしれない。もしくは、紫音との暴力的なプレイの時に感じた興奮が尾を引いていたのかもしれない。ああ、それとも一度この家で、人生で積もりに積もらせてきた静香に対する我慢の限界を向かえて、彼女にキレてしまったせいで、怒りの閾値が低くなっていたのが大きいか。


「ああああ!」


 ボクは自分の肩に手を置いていた大輝さんの手を右手で振り払うと、我を忘れる勢いで叫んで後、左拳を握って大輝さんの顔面を真正面からブン殴った。

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