自己愛、歪んだ思い出①
1
ボクの浮気を知った時の、田口さんの狼狽ぶりと言ったらなかった。
「え、どうして。私、拓巳くんに何か、した?」
あの時の田口さんは、他の女の子と会っていたことを正直に認めたボクの胸にしがみついてポロポロと涙を流していた。何かしたか、と聞かれれば、何もしていない。田口さんは頭を抱えて、呻き声をあげて、それから甲高く叫んだ。その高音に、ボクは耳を塞ぎたくなったが、おさえた。そのせいで、それからしばらく彼女の言葉を耳鳴りと共に聞く羽目になったのも覚えている。
「好きだって、言ってたじゃん」
田口さんはいつまでも、泣くのをやめなかった。そしてボクは確かに言ったのだ。田口さんを抱く時、キスをする時、セックスが終わって後ろからハグをする時、ボクは田口さんに言っていた。その気持ちが偽りかと言えば、どうだろう。ボクにとって、田口さんがただの捌け口だったことは否定できない。ボクがことあるたびに彼女に囁いた「好き」の言葉は、そのことを取り繕う言葉でもあった。
「
と、ボクは田口を落ち着かせようと、彼女の名前を呼んだ。
「俺はさ──」
あの時、ボクは何と言っていたっけ。思い出せない。多分、田口さん──紫音に本当のところを聞かされたところで、きっとボクにはピンと来ないと思う。結局、ボクは田口さんを特に葛藤もなくフった。元々、彼女と付き合うことにしたのは、彼女が手頃だったからに過ぎなかった。いや、どうだろう。本当にそうだろうか。ボク──俺は本当にそう考えて、当時の紫音に向き合っていたんだっけ。全て、モヤがかかっていた。
昔の自分を忘れたくて。静香との日々を忘れたくて。ボクはかつての自分を少なくないだけ、捨てたから。
「拓巳くんは、優しいね」
ボクがあの時、紫音をフった時も確か、彼女はそう言っていた。多分、田口さんを嫌いなわけじゃないとか、二人でいると駄目になるとか、そんなことをボクは口にしていたと思う。
──そして今。そんなボンヤリとした記憶をようやく思い出して、ボクは今の紫音と向かい合っていた。
「ごめん、正直気づいてなかった」
ボクは紫音に正直に伝える。紫音はカクテルの入ったグラスを傾けて口にするが、もう中身は入っていない。カラン、と氷が倒れる音だけがした。
「カフェで呼ばれた時、かな」
ボクはそう言葉にする。その時もピンとは来ていなかったから、今思い出せば、という話だ。
「そっか。うん、そうだよね」
紫音は自分で納得したように何度も頷いた。
「前よりもっと、可愛くなったね」
ボクは言う。だから気付かなかったのだと、含意を込めて。
「うん。結構、色々したから」
紫音は顔を赤らめていた。恥ずかしさのせいか、アルコールのせいか、普段であれば割合を考えるボクだけれど、この時ばかりは判別がつかなかった。
「なんで、ボクに言わなかったの。私のこと覚えてるか、とか」
口にしながら、みっともないなと思う。紫音と田口瑞穂が同一人物だと気付けなかったのは、明らかにボクのミスだ。高校生の頃のことだから、と自分には言い訳できる。けど、今新しく出会った女の子の顔なら、多少整形していたところで間違えない。それなのに、紫音のことは気付かなかった。これはボク基準でも間違いなく、クソだ。
「いつ、気づいてくれるのかなって」
紫音は未だ、氷だけ入ったグラスを揺らす。カランカラン、と氷のぶつかる音が変に心地良い。
「でも気づいてくれて、嬉しい」
紫音は小さく笑みを浮かべた。その笑顔は確かに、ボクが昔知っていたクラスメイトの顔と重なる。紫音が表情を変える度に、ボクの霞んだ記憶が少しずつ鮮明になる感覚だ。
クラスメイトの田口瑞穂の顔を思い浮かべつつ、ボクは今の紫音と会った時のことも思い出す。あの行きつけのボドゲバーでカラオケをしていた。彼女の歌う曲は全て、妙にボク好みで気になった。だからボクは大輝さんもいる中で、紫音に声をかけて、彼女をホテルに連れ込んだのだ。紫音が田口瑞穂だというなら納得がいく。紫音が歌っていた曲は、ボクが彼女と付き合っていた頃に好きだったものばかりだったから。
「ボドゲバーにいたのは、たまたま?」
ボクが尋ねると、紫音はコクリと頷いた。またアルコールの空になったグラスを傾いて、口にもっていく。紫音は氷が少し溶けて水になっていた分を飲み込んで、鼻から息を吐いた。
「うん。友達──TRPGのオフ会で知り合った子に勧められて。だから、拓巳くんを見かけた時はびっくりした。覚えてなくても仕方ないな、と思ってたのに、拓巳くんは声かけてくれて」
そんなことを、紫音は本当に嬉しそうに話す。やめてくれ。ボクは君のこと、頭から完全に追い出していたんだぞ。紫音は相変わらず、氷だけ入ったグラスを揺らす。
「まだ飲むよね」
ボクは紫音の返答を待つことなく、二人分の酒を追加した。まだまだアルコールが足りない。今はセーブだとか言ってる場合じゃない。
「遅くなったけど、思いがけない再会に。乾杯」
店員の届けてくれたグラスをボクは掲げる。
「うん、乾杯」
紫音もグラスを掲げた。二人のグラスが軽く触れ合い、カランと小気味の良い音が響いた。
さっきまでと比べて、二人とも明らかに口数が減った。好きな映画の話を楽しそうに語っていた紫音の姿は引っ込み、また一週間前と同じような調子で肩を竦め、顔を俯かせながらも上目遣いでボクを見る。ボクもそれに笑顔で返した。ボクは乾杯したばかりのグラスをすぐに空にした。紫音にも飲むように促そうとしたが、彼女もボクと同じくらいに飲み終えていたから、また次を頼んだ。それを三回ほど繰り返した。流石にそれだけ飲めば、頭の中にモヤがかかったような心地になる。
さて、どう挽回したものか。ボクは酔った頭を働かせる。だが、結局のところボクの頭に浮かぶ選択肢はそう多くない。
「そろそろ出ようか」
ボクは紫音にそう伝えてすぐに会計を済ませた。紫音は空のグラスを両手で持ったまま立ちあがろうとしなかったので、脇の下に手を入れて立ち上がらせた。そういえば、高校生の時もこんな風に彼女を運んだこともあったな。
「拓巳くん、私」
おぼつかない足を不器用に前に進めて店の外に出て、紫音はボクを見上げた。その先に何を言おうとしたのかわからない。彼女が言葉を続ける前に、ボクは彼女の口を塞いだ。彼女の両頬に手のひらを当て、唇と唇を重ねる。普段のボクに比べれば、あまりにも乱暴に舌を捻じ入れる。息も絶え絶えになるほどに紫音の舌を呑み込むようにする。酔いも回って、お互いの輪郭が曖昧になる。ボクは口を離すと、紫音の腕を引っ張った。紫音は俯きながら、ボクについてくる。近くのホテルの場所はリサーチ済みだ。今の状態で、紫音の家まで歩いていくのは無理だった。二人で部屋に入るなり、ボクは紫音にもう一度キスをする。今度は紫音もボクの頬に手を当てた。
「目を」
紫音は唇を離した後、額から汗を流してボクを見つめた。ボクはすぐに紫音の瞼に口付けをして、まつ毛の辺りを舐めた。紫音が目にキスされるのが好きなのも、今は納得できる。ボクは田口瑞穂に、同じようにキスをしていたから。
「紫音ちゃん」
ボクが名前を呼ぶと、紫音は少しだけ目を潤ませて、口元を歪めた。
「……瑞穂って呼んでよ」
「瑞穂」
ボクはためらうことなく彼女の名前を改めて口にする。それくらいなら、お安いご用だ。ボクは紫音の肩を押して、ベッドに押し倒す。
「えへ、えへへ」
紫音がだらしなく笑みをこぼした。その顔を見て、ボクの中に昔の感情が呼び起こされた。ボクは彼女を女の子として見ていなかった。ただ、性の捌け口として見ていた。だから乱暴に身体を弄ったし、乱暴に押し倒した。紫音が無言でボクの手首を掴み、自分の首に手を持っていく。彼女が何をしてほしいのか、当然ボクには分かる。ボクは遥華を思い出して、一瞬だけ酔いが覚めた。多分、そういうの遥華も好きだけれど、やったことはない。遥華がボクの罵倒に興奮する様子を見るのは好きだけど、遥華をいじめたところでボクが楽しくない。
けれど今、ボクの心臓は紫音の求めに従って鼓動を速めていた。ボクは彼女の首筋にギュッと人差し指を沈めた。
「かッ、はッ」
紫音は苦しそうに息を吐き出す。それでもその瞳は恍惚そうに輝いている。ボクは服を脱いだ。ベッド脇のアメニティを適当に掴んで、ゴムを何個か適当に取る。下着まで全部脱ぎ捨てて、片手で紫音の首を押さえつける。酔ってはいても、ゴムは付け忘れなかった。酔いもまだまだ抜けないし、片手のせいもあって、普段よりももたついてしまった。ボトボトと付けなかったゴムが布団の上に落ちたが、そんなものは気にも留めなかった。ボクは酔いで揺れる視界の中、なんとか体勢を安定させて、紫音の服も脱がせた。彼女の白い肌が顕わになる。ボクは一度彼女の首から手を放す。すると紫音はゴホゴホと咳き込んだ。その間に下も脱がせてしまう。それでお互い真っ裸になる。その姿でボクはまた紫音の首筋を圧迫する。
「嘘吐き」
ボクは紫音にボソリとつぶやいた。この女は、ボクを騙していた。ボクを知っているくせにそのことを隠して、恥をかかせた。とんだ嘘吐きだ。
「ごめん。ごめんね」
紫音は苦しそうにそう言って、つうと涙を流した。同時に首を絞められているせいで、唾液が口の横から垂れる。そんな彼女の様子を見ていると、ボクの心臓が跳ね上がった。跳ね上がった勢いのまま、ボクは裸で仰向けになった紫音に跨った。あまりにも抵抗なく二人の身体が一体になる。
「拓巳ぐん」
喉を押さえつけられ、濁った声で紫音はボクの名前を呼ぶ。
「うっ、いっ」
苦悶と恍惚の入り混じる表情で、紫音は何かを口にする。何と言ったのか、ボクには検討がつく。
「瑞穂」
酔いの勢いに任せてボクも彼女に続けて同じ言葉を口にしたくなったが、名前だけを言った。
「すき」
紫音が濁った声をまた漏らす。今度はさっきよりは鮮明に聞こえた。
「うん」
ボクはその言葉に応えることなくただ頷いて、紫音の目に口付けをした。その瞬間、紫音の身体がぶるるっと震えた。そんな彼女に続くように、ボクも同じように全身を震わせて、彼女の上に倒れ込むようにして、果てた。
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