自己愛、歪んだ思い出②

2


「愛くんって、女の子の名前呼び間違えた時ってどうしてる?」


 ゼミ帰り、大学近くのラーメン屋で注文したラーメンを待つ間、ボクは愛くんに尋ねた。


「あ?」


 愛くんは一瞬だけ呆けた顔をして、さもおかしそうに顔を歪めた。


「え? やったの? お前が?」


 愛くんは笑いを堪えきれない様子で口元を手で覆ったが、すぐに噴き出した。


「悪いかよ」


 ボクはムッとして言った。そりゃ異性関係の他人のポカ、特にボクのっては愛くんにとっちゃ、さぞ面白いだろうよ。それに正確には、ボクは名前を呼び間違えたわけではない。むしろ無意識で正しい方の名前を呼んだわけで。ああ、くそっ。


「俺はまあ、その時々だよ」


 一足先に愛くんの方のラーメンが届いた。愛くんは割り箸を横にして割り、ズズズと一口ラーメンを口にした。


「うまっ」

「そりゃ良かった」


 大学近くにあるこのラーメン屋ら、大学の昼休憩や帰りによく寄る行きつけだ。以前はカウンター席の、その後ろの開けたテーブル席しかなく、たまに大学で仲良くなった女の子の彼氏だか思い人だかが、ボクに彼女を寝取られたといちゃもん──間違ってはいない──を付けてくる定番のスポットだったりもした。それでもわざわざ通うのは、単純にここのラーメンの味が好きだからなのだが、喜ばしいことについ先日改装をしてボックス席が導入されてからは、顔を隠しやすくなり、そういう心配も減った。


「あー、だからあれだ。相手がそれですげー怒ってそうなら誠心誠意、土下座してでも謝るし、ちょっと違和感って感じだったら、間違えちゃったごめん! ってヘラヘラして流すこともあるし」

「その前に平手打ち食らってたら世話ないけどね」


 愛くんは痛いところをつかれた、と言うように眉間に皺を寄せ、目をつぶった。


「そりゃ言いっこなしよ。ほら、呼び慣れた名前って口を出るんだよ。先生のことをお母さんって呼んだり。甥っ子の名前を間違えて弟の名前で呼んじゃったりさ」

「そりゃそうか」

「それは相手が恋人だからとか関係なくそうだろ。仕方ねえよ。──で、お前はどう乗り切ったの?」


 愛くんはまた麺を啜って、興味深げにボクの方を見た。そのタイミングでボクのラーメンも来たので、丁寧に割り箸を割っていただきますと口にする。まずはスープを一口いただいてから、卵を箸で割って、チャーシューと一緒に食べる。


「ボクは別に呼び間違いをしたわけじゃないんだよ」

「あ、そうなの」


 愛くんは残念そうに鼻息をついた。


「疲れてんじゃねーの」


 それから愛くんは僕を一瞥してそう言い、麺を啜った。


「意地で家帰ってなかったり、無理に人に会ったりして」

「ボクは別に無理してない」

「その言い草が意地張ってんだろ」


 ボクは言葉に詰まった。さっきのお返しのつもりか? その論法はズルだろう。何を言ってもボクの言葉が届かない。そしてボクは男友達相手にそれを軽くいなそうと思える程に暇ではない。


「ま、それで良いよ。実際、バイト先の社長にも言われたし」

「噂の美人社長か。いつになったら紹介してくれんだよ」

「しねーよ」


 以前、愛くんには静香と同じように、玲奈さんの写真を見せたことがあるから、愛くんも玲奈さんの容姿は何となく知っている。だが、ボクが愛くんに玲奈さんを紹介することはない。当然、夜のマッサージをしている話もするつもりはない。


「家には帰れよ」


 愛くんが真っ当なことを言う。全然真っ当な大学生じゃないくせして。しかしまあ、皆して同じことを言うんだから。


「エイリアンがいる家に帰れないだろ」

「姉貴のことをエイリアンって呼ぶなよ……」


 いいや、今のボクにとって静香は侵略者エイリアンだ。間違いなく。


「心配しないでもちゃんと帰ることにしたから大丈夫だよ」

「別に心配はしてない」

「だろうよ」


 今朝も、紫音と共にホテルで一夜を明かした後に帰宅した。静香は家にいなかった。もしいたら、静香にも改めて「いつまでいる気なのか」と問いただすつもりだったのだが、いなかったのだから仕方ない。おかげでまた部屋の片付けをして、時間に余裕を持って大学のゼミの準備をしてから通学できた。

 紫音の寝起きは相変わらず悪かった。ボクも紫音も裸のまま、布団も被らずに気絶するように眠っていた。部屋の暖房は効いてとは言え、冬の朝だ。ボクは寒くて凍えながら起きたのだが、紫音の方はいつの間にかベッドのシーツをひっぺがして、毛布代わりに体を覆ってすやすやとしていた。ボクはそんな状態で眠気まなこを擦る彼女の頬を軽く叩いて起こし、なんとか一緒にホテルをチェックアウトした。昨夜の記憶はあまりにも朧げだった。意図してのことではあるけど、酒を飲みすぎた。紫音に対して、首絞めプレイなんて、ボクが数えるくらいしかしてないハードな遊びをしたことはちゃんと覚えている。そのまま紫音と一緒に果てたことも。アルコールのせいか絶頂感のせいか分からないけれど、その後しばらく、まるで宇宙を遊泳するような感覚を味わった。気付けば朝になって、酔いの冷めたボクは二人でホテルを出て、紫音を半ば引っ張る形で家に帰したのだった。


「ごっそさん」


 先に食べ始めた愛くんがスープまで飲み干して、空になった器を片した。ボクも続けて器を空にする。各々の支払いを済ませて店の外に出てお互いに軽く別れの挨拶をして帰路についた。愛くんはこの後、新しい恋人とデートらしい。今回も長続きしないんだろうな、と思う。愛くんは「そんなことねえよ、見てろよ」なんて言っていたが、そのセリフも聞き飽きた。

 ボクも紫音と縁を切った方が良いのかね。

 心の中でそんな風に考える。愛くんは恋多き男だが、それは切り替えが早いからでもある。そこは見習うべきところかもしれない。ボクなんて、一体全体どれだけ切り替えが下手なのか。たくさんの女の子を相手にしてきても、正直なところ、未だに縁切りには慣れない。愛くんの言う通りだ。奴からすれば、とっくに昔の女である静香や紫音のことで悩むボクのことは理解できないことだろう。

 そして今日は久しぶりに、誰とも会う予定がなかった。昨夜のことがあった後だ。今日紫音と会うのは気が引ける。玲奈さんのバイトもない。バーに行く気力も、ない。


「帰ろう」


 皆に言われている通り、疲れているのは確かなんだろう。でなければ、もっと遊ぶ気力が湧くはずだ。そう思い、ボクは家路につく。電車の中でもスマホを見ることなく、ただぼうっとする時間を過ごした。


「あれ」


 アパートの前につき、ボクは見慣れた顔に面食らった。若々しく艶のある顔の良い男。


「お、拓巳じゃん。今帰り?」

「大輝さん。どうしたんですか、こんなとこで」


 こんな場所で、陽の沈みかける夕闇の中でも、大輝さんはニコニコとした笑顔を絶やさずにいた。


「拓巳んチ行ってた」

「いや、何でですか」


 咄嗟に尋ねたが、大輝さんが来た理由を思い立ち、溜息をついた。


「姉ですか」


 大輝さんがふらりとボクの家を訪れるのは別に初めてのことではない。終電を逃して帰れなくなったと、べろべろになってボクの家に押しかけてきたこともある。そんなだから、ボクの義姉に会ってみたいという理由でここにいることは、不思議なことでもなかった。

 大輝さんはボクの言葉に、にこやかに頷いた。


「そう。やっぱり師匠としては、弟子の家族には挨拶しとかないと」


 よく言う。バーでも気になっている素振りを見せていたし、ボクの家に行けばもしかすると静香の顔を拝めるかもしれないと思ったのだろう。


「いました?」

「うん、いた。菓子折り渡してきたよ」


 ボクは思わず眉間に皺を寄せた。いるのか。


「いやー、流石は拓巳のお姉さん。綺麗な人だね」

「大輝さんでも、姉に手出すのはやめてくださいね。人妻なんで」

「んー?」


 大輝さんはニヤニヤと口元を歪めて、首を傾げた。こういうことするんだよな、この人は。それにちょっと前のボクもそうであったように、大輝さんも気に入った女性に相手がいるかどうかなんて、基本気にしない。だから大輝さんに「人妻だから」なんて言っても無駄だ。それでもわざわざボクの姉には手を出さないだろう、とは思う。出さないよな?


「ま、また何かあったら来るよ。今日はこの後、俺は用事あるしー」

「せっかくだからボクと一緒に飲もうとか思わないんですか」

「思うよ。でもホントに予定が詰まってるからさ。あ、拓巳って今日は店来る?」


 ボクは首を横に振った。


「ボクも予定あるんで」

「そろそろ年末だしねえ。皆忙しいか」


 大輝さんは勝手に納得して首肯した。それから「じゃ、また」と手を振って、ボクから遠ざかっていった。ホントに静香に会いに来ただけだったのか。ボクも他人のことは言えないが、出会いのためには労力を惜しまない人だ。大学に入ってすぐ、あの店で大輝さんと知り合ってからは、ボクよそういうところを参考にさせてもらっている。そのせいであの人はボクのことを弟子だなんて呼んでいるわけだが、別にボクの方から師事を仰いだわけではない。


「はあ」


 ボクは改めて溜息をついた。静香、いるのか。せっかく予定が入っていない貴重な時間だ。願わくば、また一人で優雅な時を過ごしたかったものだった。


「ただいまー」


 ボクは気を落としながらも、自分の部屋の扉を開けた。返事は返ってこない。水音が聞こえてくるから、多分また風呂にでも入っている。ボクは部屋の奥にある洗濯物干しにかかっている、乾いたタオルと静香の着替えを引っ張って、脱衣所に置いた。また半裸でうろうろされてはたまらない。ボクは台所に向かい、冷蔵庫を開けた。まあ、二人分の食事を作るくらいの食材はあるか。ボクは、ふうと息を吐く。改めて、大輝さんや愛くんを見習おう。静香のことを、ことさら嫌に思うことはないのだ。あくまで昔好きだった女。今はただの義姉。それに既婚者だ。何も、気を張ることはない。ボクは当たり前の態度で、普通の人間なら家族に対して当たり前にやるように、もてなしてやれば良い。今更ではあるが、そんな風に考えて、ボクはコンロの火を点けた。

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