恋慕の情、追憶遊戯③

 眠りを享受したと思って、すぐに目を開けると、朝になっていた。ボクの頭の下には枕が置かれている。膝枕をしていた紫音がソファからいなくなっている。ボクはソファから起き上がり、寝室に向かった。紫音は布団をしっかりかけてぐっすり寝ていた。ボクは紫音の寝起きの悪さを思い出して、くすりと笑った。ボクはリビングに戻り、自分のスマホを探そうとソファの周りを見ていると、スマホが充電ケーブルに繋がれていた。ボクが寝た後、紫音がやってくれたのか。


「気が利くな……」


 ボクは大きく欠伸をする。そして昨夜とその前の晩のことも思い出す。静香のことで頭がモヤモヤしている中に酒をそれなりに入れて、少し好き勝手し過ぎた。時計を見ると、朝の七時を過ぎていた。今日は午前中の講義はなかったはずだ。まだゆっくりしていても良いが、昨夜の紫音のことを考えると、あまり長居する気にはなれなかった。


 ──すきって言って。


 我ながら、それくらい言ってやれば良いのに、という気持ちもないではない。けれど、その言葉を軽く扱わない、というのはボクが女の子相手にする為の数少ない原則のひとつ。そうやって、逃げ場を作っているんだと言われたこともある。そうだ、ボクはそういう人間だ。仕草だけなら、いくらでも愛を勘違いさせてやる。だけど、ボクにとって紫音はその他大勢の女の子たちと同じだ。本当に面倒になればいつでも捨てられる、ただの遊び相手の一人。


「紫音ちゃーん」


 ボクは寝室の入り口に立って、紫音を呼ぶ。


「んんん」


 紫音は布団を頭まで被って唸ったが、その後ゆっくりと上半身を上げた。紫音は眠気まなこを手で擦り、目を細めながらボクを見る。


「昨日はありがと。ボク、帰るね」

「えと、うん。こっちこそ、ありがと」

「来週も楽しみにしてるね」

「うん。……え?」


 紫音がしょぼしょぼした目を、ぱちくりと何度も瞬かせた。それから、ボクの言葉が理解できないとでも言うように首を捻る。まだ寝ぼけてるか。本当に朝弱いんだな。


「来週も映画行くって約束したじゃん」

「えっと、そうだけど──」


 紫音がボクを真っ直ぐに見ていた。少しは目が覚めたらしい。


「もう、会ってくれないと思ったから」

「なんでよ、約束は守るよ」


 ボクは紫音に微笑む。昨夜のあれで、紫音が自分は拒絶されたと思ったことは想像に難くない。確かに、今日を機に紫音との関わりを完全に断つことは選択肢の一つだ。めんどくさそうな女は情なんてかけずに切るに限る、とは大輝さんの言だ。ボクも色々か女の子を相手にしてきて、心底そう思う。女の子に呼ばれたら真っ先に向かう。それもボクの原則の一つだが、他人の都合も考えず、会いたいと一方的に言うだけの人間の相手をする必要はない。メンヘラとヤるのは容易いが、それこそ一夜限りにしておくべき。ただ、紫音の場合はこっちから望んで連日会うという、ボクとしては少し特殊な関わりを持ってしまった。紫音に対する面倒くさいという気持ちより、自省の念の方が強い。当然、他の女の子よりも今後の連絡は優先度は下げて、控えめにさせてもらうが、だからって約束をブッチする程じゃない。紫音はその辺り、自分で割り切れるくらいには賢いと思うし。それが連日体を重ねた自分の、彼女に対する偽らざる評価だ。


「じゃ、また」


 ボクは紫音に手を振って、寝室から出た。リビングにある自分の荷物をまとめ、スマホも忘れずに手に取る。家に帰るつもりだが、静香はいるかな。今家にいるのか電話して聞けば良いのだが、それは嫌だった。ボクは大きく溜息をついて、玄関から出る。紫音は送り出しに来たり、追いかけてきたりはしなかった。

 外に出て自分の車を停めた駐車場まで向かう途中にスマホを開くと、一時間以上前にメッセージと電話が入っていたのを見て、ボクは慌てて確認した。

 メッセージは遥華からだった。ボクの予想した通り、給料日に遊ぼうという連絡だ。あまり緊急性はないメッセージに、ボクは胸を撫で下ろす。僕はとりあえず遥華のメッセージに対して、ごめんなさいのスタンプを送る。


『ごめん 寝てた』

『りょーかい その日はたくさん楽しも』


 スタンプの後に、メッセージへの返信も打ち込んで、しばらく反応を待ったが、既読にならない。この時間だとまだ仕事で忙しいか、それとも終わって疲れ果てているかのどちらかか。

 駐車場に着き、料金を支払った後に車に乗り込み、愛車を慎重に発進させる。ボクはそのまま車に道路を走らせ、ハンドルを握りながら、今日のスケジュールを頭に思い浮かべた。とりあえず、午後の講義とゼミ。ゼミは近々発表会があって、それまでに休むと単位がヤバいから必須。夜は特に予定はない。明日は玲奈さんのところでバイトの予定だから、無理に予定を埋めることはないかもしれないが、やっぱり静香のいる家に夜、帰りたくない。この意地がどこまで続けられるか、自分でも定かじゃないが、少なくとも諦めるのは今日はまだだ。


「うーん、また今夜もバー行くか?」


 それも別に構わない。昨夜が思ってたより早めにお開きになった分、もしかしたら大輝さんと隆之介さんに、どこか連れて行ってもらえるかもしれないし。


「まー、それで行くか」


 当然、他の女の子から連絡が入ればそっち優先。真琴あたりが会いたいと言ってくる可能性はある。休み明けの月曜日は耐えられても、火曜水曜に、彼女の仕事の愚痴が溜まることはよくあることだった。真琴はボクの大学から三駅程離れたところにある飲屋街のコンカフェで働いている。そこであったクソ客の鬱憤を吐き出し先に困り、ボクを呼び出して、そのまま身も心も慰める、というのは週半ばの黄金コースだ。勘ではあるが、これまでの経験を踏まえても今日はその可能性が高い。ま、柔軟に行こう。紫音のことで失敗したばかりだし、家に帰りたくないという気持ちは大事にしつつ、無理にスケジュールは埋めない。うん、これでいこう。



3


 やっぱりボクの女の子に対する嗅覚はずば抜けてるな、と思った。思った通り、その日の夜は結局、昨夜同様にボドゲバーに行った。家にも一度帰ったが、幸いなことに静香とエンカウントすることはなく、さっさとシャワーを浴びて服を着替えて、電車に乗ってバーに向かった。大輝さんと隆之介さんは来ていなかった。仕方がないから、少しだけ顔は見知った他の常連と一緒に卓を囲み、人狼ゲームをした。タクシーで帰るつもりでラストオーダーまで楽しくゲームに興じていると、真琴から電話があった。


『うー。たくみぃ、今夜空いてるー?』


 涙声だった。


「空いてるよ。すぐそっち行くね」


 ボクはすぐにそう応えて、ラストゲームに参加することは断って、タクシーを拾って真琴の家に向かった。その間も常に真琴へのメッセージを送り、そこでのやり取りで、やはり今日も酔っ払い客、セクハラ客、冷やかし客といったクソ客に対する鬱憤が溜まっていたところで自宅で独りでいると寂しくなり、ボクに電話を寄越した、という流れだった。


「ホント、ありがとー。たくみ、優しい」

「どうってことないよ。頼ってくれるのは嬉しいし。ほら、泣かない泣かない。真琴は泣き顔も可愛いけどさ」


 ボクは真琴の涙をハンカチで拭って、彼女の話をひたすらに聞いた。聞いているうちに段々と話したいことが溢れてきたのか、話はクソ客のことだけでなく、最近結婚したという真琴の妹の話になった。真琴の妹は元キャバ嬢で、そこで会った客に惚れて、結婚までこぎつけたらしい。どうして自分はそういう相手に出会えないんだろう、と泣きべそをかくので「今日はボクが相手するから」と背中を抱いた。なお、こういう時にボクがいるでしょ、と言ってはダメだ。あくまで寄り添うのは今だから、という余地は残さないといけない。


「そういえば、たくみのお姉さんは?」

「結婚してるよ、二人とも」


 真琴が自分の家族の話を始めたところで、話題がそちらに傾くことは既定路線だった。


「え? お姉さん、二人いたの?」


 ボクの答えに、真琴の目が丸くなる。


「うん」

「そっかー。だからたくみは女の子の扱いが上手いのかー」

「どうかな。苦労はさせられたよ」


 主に義姉に。


「──じゃなくてよ。お姉さん、たくみん家に来てるって言ってなかった?」

「来てるよ。まだしばらく泊まるみたい」


 ボクはその家に夜帰ってないけど。あー、よく考えたら、いつ帰るかくらい聞けば良いんだ。簡単なことだ。いつまで粘っていれば良いか分かっていれば、気持ちはだいぶ楽。


「たくみって、お姉さんと何か話したりする?」

「普通に話はするかな。子どものことどうするかとか」


 静香からは、今すぐには子どもを作る気はない、というのは以前聞いていた。今もそう思っているかどうかは定かではないが、自分の勝手でこうやってボクの家にフラッと足を運ぶくらいだ。その気持ちは変わっていないものと思って良いだろう。少なくとも実姉には子どもが既に二人いる。それで静香の親もあまり彼女には子どもについての話をすることもないようだ。──夫の裕貴斗さんの方はどうだか知らない。結婚式以降、親戚の集まりでも特に話すこともないし、あちらの家族についてはあまりよく知らないんだよな。


「子どもかー」


 どうやら、これはこれで地雷だったらしい。真琴は自分の髪の毛をわしゃわしゃとかき乱し、冷蔵庫から持ってきていた缶ビールをプシュウと開けた。真琴はごくごくとビールを飲み、長めの溜息をついた。コンカフェでも飲んでるだろうに。真琴はボクの知っている女の子の中でも、おそらく一番に酒が強い。ガールズバーで働くには長所だろう。他には玲奈さんの酒豪具合も良いところだが、彼女の場合は二日酔いが激しく、祝いの席でもない限り、自分から酒を飲む量はセーブしている。そしてその辺も玲奈さんらしい。


「一口ちょうだい」


 ボクは真琴が缶ビールから口を離したところで、彼女に両手を向けた。真琴から缶ビールを受け取り、ほんの一口だけ飲む。それからすぐに真琴に返して、「ありがとう」と笑った。


「で、真琴はどうしたのよ」


 ボクは真琴に話の続きを促した。真琴はうーん、と首を捻る。


「どうってことでもないんだけど、妹にはもう子どもいるのよ」

「真琴の妹さんって何歳?」

「今年で二十一かな」


 ボクとタメじゃん。


「へー、すごいね。それの歳でもう子どもか」

「それも二人」

「すごいね」


 二度目に口にしたこれは演技でなく、割と本気の感嘆だった。そういう人ばかりであれば、日本の少子化も食い止められるな。


「上の子が今、3歳?」

「最近結婚したんじゃなかった?」

「そっちは父なし子なのよ。下の子が産まれたばかり」

「なるほど」


 あまり深く立ち入らない方が良さそうな話題だと判断し、ボクは真琴の話すままに任せた。曰く、上の子の父親は真琴の妹が結婚する前に真琴の前から姿を消したらしい。それで子どもを堕ろすかどうか悩み、真琴と母親に泣きついたところ、二人して「産むなら協力するから」と言い、結果妹は無事に男の子を出産。真琴から見た甥っ子は可愛く、母親や妹と共に世話をすることに何の躊躇もなかったという。

 ──どこの家庭も、言われなくてはわからない、なかなか難しいことを抱えているものだ。


「息子のために一生懸命に働いて。それで今の人と出会って結婚したってわけ」

「妹さん、良い人に会えてよかったね」

「良かったの。良かったんだよ。色々苦労してさ、それで新しく自分を愛してくれる人を見つけたんだから」


 でもさー、と真琴はどこか寂しそうな、それでいて怒りの感情も含まれるような複雑な面持ちで、小さく溜息をついた。


「なーんで妹はそんなにうまくいくのかなーって、そういう嫉妬? みたいな気持ちはあたしにもあるのよ」

「それは──仕方ないよ」


 ボクと真琴の抱えるものは、全然違う。それでも、真琴の話を聞きながらボクは、静香に対する感情について考えずにはいられなかった。嫉妬。ボクの中にも、それはある。もしかしたら、そんな可能性は万に一つなのかもしれないけど、静香はボクと幸せな道を歩む選択肢だってあったはずだと思うと、静香に対しても、その相手の裕貴斗さんに対しても、ぐるぐるとした粘っこい感情を、捨て去ることはできない。

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