義姉災来襲、猥雑労働③

4


 ゴムはつけてよ、と静香が言った時、ボクは焦った。セックスをするのだから、その為にコンドームを買う。その当たり前の感覚が、当時のボクにはなかった。それもセックスの前や最中ではなく、行為が終わった後、その時急に思い出したかのように彼女はそう言ったのだ。その時、ボクの額を汗が伝ったのを覚えている。いや、それは別に現実にあったことじゃなくて、それくらいに焦燥していたというだけのことだったか。

 今となっては、本当のところは覚えていない。けれど、静香と付き合い始めて、初めての彼女と二人きりで夜を過ごした時に感じた気持ちの一つ一つは、間違いなく本物で、しっかり思い出せる。静香と付き合い始めたことは、誰にも内緒だった。家族にも言っていない。お互いの両親にも、静香の兄の和希にも、今の静香の夫にも、今もあの時のことは、黙ったままだ。静香が話したがらなかったし、それならボクも殊更、家族であっても他人にそう言うことじゃないと思っていたから。

 付き合い始めた頃は、静香と会うたびにキスをして、家族に見つからないようにする行為に興奮していた。一緒に買い物に行って、ボクに似合っていると静香が言ってくれる服を迷わず買って着た。高校になって、コンビニでバイトを始めたから、好きな物を買う余裕もあった。静香が欲しいと言っていた雑貨やアクセサリーは喜んで買ってやった。二人でお揃いのペンダントも買った。水族館や博物館、公園にデパート、プールに遊園地──たくさん、たくさん思い出を作った。それなのに──。


「──あああ、もう」


 ボクの耳にピピピピピとスマホから、けたたましいアラーム音が届いた。ボクはアイマスクを外して、スマホのアラームを止める。時計を見ると、仮眠を始めてからもう1時間が経っていた。アラームは自動でスヌーズ機能がつくようにしていたから、何度目かの目覚めの音でようやくボクは目を覚ましたということらしい。


「急がなきゃな……」


 どちらにしても、一限目は間に合わないなと冷静に考える。遅刻はもう仕方ない。やはりちゃんと一度家に帰って、シャワーも浴びて、今日の大学の用意をしっかりしよう。


「あー、ムカつくなあ」


 夢を見ていた。静香と付き合い始めた頃の夢。久々に見る、嫌な夢だった。ボクは一度車から降りると、近くの自販機でホットコーヒーを買って、熱々の缶を手にしたまま車に乗り直し、エンジンをつけた。頭痛に頭を抱えて、ひとまず車を走らせコインパーキングを出る。

 本当に、あの女はよくもボクの順風満帆な生活に嫌な嫌なノイズを生み出してくれたな。

 一度車を走らせ始めると、問題なく運転はできた。家までハンドルを握りながら、さっきまで見ていた夢のことがどうしても脳裏から離れなかった。これだから、静香と顔を合わせたくないんだ。だが、ボクのその気持ちは打ち倒される。


「あ、拓巳。おかえりー」


 家に帰って玄関を開けるなり、下着姿の静香がボクを出迎えた。ちょうどシャワーでも浴びたばかりなのか、頭にはタオルを巻いている。ボクじゃなく、別の人間だったらどうしてたんだと一瞬思うが、鍵はちゃんとかかっていたことを思い出し、溜息をつく。


「まだいたんだ」

「いや、しばらくいるってば」

裕貴斗ゆきとさんは? 何も言ってないの?」


 ボクは静香の夫の名前を口にしたが、静香はあっけらかんとした調子で答えた。


「特に何にも。東京、楽しんできてねーって」

「東京行くの?」

「そうだよ? いや、この家には帰ってくるけどね」

「そもそも何しに来たんだよ」


 帰ってくるまでは、静香と顔を合わせても話をすることなく無視しようとも考えていたのだが、どうも口がよく回る。


「いやー、色々ね。友達と東京観光することになったんだけど、やっぱり拠点は欲しいじゃん。でも、ホテルは高いし。その子も私と一緒でこっちに家があるわけじゃなくて、彼氏の家に泊まってるらしくて。流石に友達の彼氏の家に一緒に泊まるのもなーって思ってたんだけど。そういや拓巳がいるじゃんって思い出して」


 そしてこっちはこっちでよく舌が回る。下着姿のまま、コロコロとした笑顔で。


「……そっか。勝手にして」

「拓巳、昨日はどこいたの?」

「友達の家だよ」

「友達って男? 女?」

「女だよ」

「へー、マジマジ?」


 静香は目を輝かせて、ボクに物理的に詰め寄った。なんだかんだ、静香とは正月や盆の親戚の集まりでも顔を合わせるから、本当に会うのが久しぶりというわけでもない。けれど、ボクが大学生になって女の子の家から家を渡ってるようなことは静香には話していないし、話す義理もない。


「その子、可愛い?」

「可愛いよ。大人しくて、ウサギみたいな子だよ」


 ウサギみたい、というのは紫音が寂しがりそうなところからの連想だったけど、そういやウサギは寂しいと死ぬってのは俗説だったんだっけか。


「そうなんだー。大学の子?」

「いや、たまたま外で会っただけの子」

「それで朝帰り? やるじゃん」


 ボクは溜息をつく。静香と別れてから、高校生の時もボクは別の女の子と付き合っていた時期もあるし、静香もそれを知っているから、ボクが静香の付き合い始めた頃とは違うというのを、彼女も分かっているはずだが。それでも静香にとって、ボクはいつまでも自分の後ろをくっついている、小さな男の子のままなんだろうな、とムカついてくる。


「別に。昨日は他の女の子とも会って、どっちとも遊んだし」


 ……いや、この言い方は格好悪いな。ボクは言わなくても良いことをわざわざ口にしてしまった自分に対して舌打ちをした。


「静香は朝、何してたの」

「んー、友達と会う約束したのは今日の昼でさ。その後、夜までは帰ってこないんだけど」


 ボクは朝何してたかを聞いたんだがな。そう詰め寄りたくなる気持ちを抑えて、ボクは静香の話を黙って聞いた。というかまず、服を着ろ。


「まあ、そんなわけだから? とりあえず拓巳帰ってくるまで酒でも飲んでるかーって思ってビール飲んで、さっきまで寝てたよ」

「ふうん」


 ボクは静香の横を通り過ぎ、リビングに向かった。確かに、テーブルの上に空き缶が何本か置かれている。飲んだら捨てろ。人んちだぞ。ボクは無言で空き缶を手に取って、水でさっとすすいで一本ずつゴミ箱に入れた。


「拓巳の今日の予定は?」

「俺は今日、大学」

「あ、そっか」

「教科書とか取りにこなくちゃだから、それで一回帰ってきたんだよ。一限にはもう間に合わないけど、俺もう出るから。静香も出る時は鍵かけろよ」

「はーい」


 プシュっと音がして、ボクは静香の方を振り向く。ビール缶ではなく、コーラだった。流石の静香も、この朝っぱらから、しかもボクが帰ったきたタイミングでビールを更に開けようって程ではないか、と安堵する。


「昨日も言ったけど、家のもんは好きに使ってもらって構わないから、遠慮しなくて良い」

「もちろんー」


 だからそのもちろんって何だよ。他人の家の物を勝手に使うのはもちろんでも当然でもないんだよ、ふざけやがって。腹立つな。


「静香、朝ごはんは?」

「んー、食べてない」


 コーラは飲むのにか。


「……待ってて」


 ボクは台所に立つと、冷蔵庫から卵と作り置きしてある茄子の味噌漬け、それにキムチパック、冷凍した白米を取り出した。フライパンを用意し、火を付けて卵を落として蓋をする。卵が温められるまでの間に丸皿を一枚取り出し、白米をレンジで解凍して、皿の上に盛り付けていく。フライパンの蓋を開けると、良い感じに目玉焼きができていた。よし。ボクは目玉焼きも皿の上に置く。ワンプレートご飯だ。二日酔い気味の女の子一人分の為によく作る。ほんとは味噌汁も欲しいところだが、パックは切らしているし、もう家を出るんだから作る暇はない。


「ほら」


 ボクはテーブルの上にワンプレートご飯と箸を置く。


「うわ、マジか。超嬉しい。こんなのサッと作れるとか最高じゃん。え、あたしここに住もっかな」

「やめてくれ」


 心からの声が漏れた。今もお腹がキリキリと痛むくらいだ。静香にずっと居座られてしまうと、こっちがもたない。


「いただきまーす」

「はいよ」


 静香が朝食を食べる間に、鞄の中を整理した。レポートを紙でしか受け付けていない教授の課題を、まだ印刷していなかったことに気付いたが、そちらはノートパソコンを持っていって大学に行ってから印刷すれば良いか。


「じゃ、俺はもう行くから」

「んーんー」


 口いっぱいにご飯を頬張っていた静香がボクを手で制し、水を口の中に流し込んだ。


「はーい、いってらっしゃーい」


 言われてボクは踵を返し、さっさと玄関に向かった。行ってきますの言葉は、言ってない。玄関を出て、そういや結局飯食う時まであの女、下着姿のままだったと舌打ちをする。他の女の子だったら、何でもないことだ。実際、さっき紫音の朝食を作る時はボクも下着姿だったし、セックスの後にわざわざ服を毎回着るのが億劫というタイプは珍しくない。それなのに、静香のあの態度には終始、イライラする。


「ふざけてる」


 ボクは車のエンジンをかけ、イライラしながらそう言う。その言葉をかけたい対象は、ボク自身なのか静香なのか、自分でも判然としない。車を走らせ始め軌道が乗った頃、周りに他の車がいないことを確認して、アクセルを限界まで踏み込んだ。ぶるるるるとエンジン音が鳴る。ボクはその音を聞いて少しだけ気持ちが落ち着いた。次の信号が赤になっていることを確認して、ブレーキを踏む。改めて時計を見る。とりあえず、一時限目は後半だけでも参加はできそうだ。ボクは遅刻したことはないが、あの講義はかなり歳を召されているお爺さん教授の受け持ちだが、彼はあまり学生の出席率には重きをおいていない。一度の遅刻くらい、何でもないだろう。


「……下着、可愛かったな」


 さっきまではイラつきが勝っていたが、冷静になり始めて、ボクは静香の下着姿を思い出した。サテン生地で、胸元にクロスした紐が通っている淡い水色のランジェリーだった。ボクの好きなタイプの下着だ。真琴にも以前、似たような下着をプレゼントしている。


「……くっそ」


 紫音とかなり長くヤったってのに、頭の中が静香のことでいっぱいになる。これは違う。こんなのは、俺──ボクらしくない。赤信号で止まっている間、ボクは胸に手を当てて深呼吸をする。寝不足だし、変にモヤモヤするし、大学に向かうまでに事故にだけは気をつけようと改めて考えて、今度はちゃんとゆっくりとアクセルを踏んだ。

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