悪友跋扈、色欲是空①

1


 一限の遅刻は問題なかった。同じ講義を受講している同ゼミの友人が、代返をしてくれていたからだ。髪をツーブロックにして、光沢のあるライダージャケットとダメージジーンズを身につけているその友人、有泉愛ありずみあいは、ボクがこっそり教室の裏から入ってきたのを見つけ、ボクを無言で手招きした。


「よう、拓巳くん。珍しいな、お前が遅刻すんの」

「ありがとな、愛くん」


 ボクは愛くんの隣に座り、年配の教授が手元の教科書から目を離さず、ひたすらにホワイドボードに板書していく様子を見て、ホッと一息ついた。最前席で居眠りしたりスマホを弄っている学生もいるが、特にお咎めもない。いつも通り緩く、平和な教室だ。


「色々あったんだよ、後で話すな。ノート見せて」

「あいよ」


 ボクは愛くんが差し出してくれたノートに目をやる。相変わらず、よく書けているノートだ。講師が板書している内容だけじゃなく、講義中に話していたことまで余白に記しており、講義に出ていなくてもどんな内容か大体わかる。


「二千円な」

「愛くん、ボクからも金取んのかよ」

「当たり前だろよ」


 ボクは溜息をつき、鞄の中から財布を取り出すと、その中から千円札を二枚、愛くんに手渡す。渡しながら、玲奈さんのマッサージ代全部だな、と自分の中で折り合いを付けた。愛くんはこうして、講義ノートを他の学生に売り付けて小金を得ている。その為に、需要さえ見込めるなら自分の受講していない講義にさえ潜り込む勤勉ぷりだ。その努力を他のところに使えないのか、という不良学生に対してはお決まりの文句が、ボクの頭にも浮かばないではないが、ボクも他人から見たら同じ部類だろう。


「まいどー」


 愛くんはニヤニヤと口元を歪めて、ボクの渡した紙幣を雑にジャケットのポケットの中に押し込んだ。ボクは愛くんのノートを急いでスマホで撮る。パシャッというカメラ音がするが、板書に忙しいご老体は特に何も反応を見せない。


「さんきゅ」


 ボクは愛くんにノートを返して、ご老体が新たに書き始めた板書を自分のノートに写し始める。愛くんの方も、ボクの方には見向きもせず、一言一句聞き逃さない、という集中を見せてひたすらノートを取り始めた。なお、愛くんはパソコンの持ち込みが許されている講義では、パソコンを使って爆速でノートを完成させる。講義の時間が被る場合はその講義を受講している後輩を雇って、講義の録画と録音をさせることもあるらしい。特に儲かるのは、理系学部の基礎授業なのだとか。──うん、やはりその努力を他で活かせないものか。


「まず、お前に姉貴がいたってのが初耳だわ」


 午前中の講義が終わり、ボクは愛くんとその後輩の山里と一緒に昼飯を食べていた。大学から徒歩五分の場所にある大衆食堂で、どこもかしこもボクら学生が外食で満腹になるにはどう考えても紙幣を複数枚出さないと厳しいこのご時世、なんとここではランチをワンコインで食べられるという、ありがたい場所である。しかも米はお代わり無料だ。愛くんが頼んだのはチキンカレー、ボクが唐揚げ丼、山里が鯖煮定食だ。愛くんはスプーンでガツガツとカレーを口の中にかっ込んでいく。みるみるうちに皿の上の米がなくなり、早速店の奥でテレビの野球観戦をしていた店主にお代わりを頼んでいた。


「そりゃ言う機会がなかったからね」


 ボクは唐揚げを箸で二つに割って口の中に放り込む。ここの唐揚げ丼はミニトマトがついてくるのもありがたい。


「いくらでもあるだろ。合コンで家族の話してる時とかさ」

「わざわざ言うことでもない」

「……言いたくなかったんならそう言えよ」


 愛くんに図星をつかれ、ボクは答えに窮した。そんなボクの様子を見て、愛くんはその場で咽せた。


「ごはッ……。ちょっ、マジで珍しいな、お前。家族のことは禁句ね。おーけーおーけー。ま、誰だって話したくない地雷の一つや二つあらあな」


 愛くんは納得した調子でうんうんと首肯した。理解してくれるのは嬉しいが、その態度もなんかムカつくな。


「ま、気持ちは分かるわ。俺も一回、親父が抜き打ちで部屋に来たことがあるんだけど、そん時はマジギレして行方をくらましたからな」

「それあれだろ。お前がなんか、家の鍵なくしたとか言ってた時の」


 確か、一年くらい前だ。愛くんが鍵をなくして部屋に入れないから、鍵が見つかるまで誰か泊めてほしい、という風なことを酒の席で話していたことがあったのだ。その時はこいつ、まんまと先輩女子の部屋に転がりこんでいた記憶がある。


「それはまた別。あん時はホントになくした」

「あっそ。あの先輩とは今も仲良くしてんの?」

「いーや、手ひどくフラれた。俺が、二人で一緒に行こうって約束してた映画勝手に一人で見たっつって」

「それ、爆発したのがその時ってだけで、それ自体が理由じゃないやつだろ」


 ボクの言葉に愛くんも、そうなんだよなあと頷いた。


「わかっちゃいるんだよ。色々と、人にウザがられやすいってのは。だから気をつけちゃいんだ。それでも結局、何がいけなかったのか分かんないまんま、人を怒らせちまうだけで」

「そういうとこだろ」

「有泉先輩、他人の歩調に合わせるみたいなこと、絶対やらないですもんね」


 それまでボクと愛くんの会話を黙って聞いていた山里がそんなことを言う。


「うるせえ、このやろ」


 愛くんは山里の頭を軽く小突く。


「痛いっすよ」


 山里はヘラヘラしながら愛くんに小突かれた部分を抑えた。確か、この二人はヨットサークルの先輩後輩だったか。金にはうるさい愛くんが、食堂に入るなり山里には「今日は奢るから」と言っていたし、かなり可愛がっているものと見える。


「で、その姉貴ってどんな人? 写真は?」

「ねえよ」

「ウッソつけよ」


 愛くんはバン、と平手で軽くテーブルを叩いた。


「お前が知り合いの女の写真を持ってないわけねえだろ!」

「そんなことねえよ」


 ──いや、どうだろうな。愛くんとの間で話題にするような女の子であれば、その時には既に、何かしら一緒に写真に映る機会ができている。愛くんの認識はそういう意味では間違ってはいない。


「はあ」


 ボクはスマホのカメラロールをスライドする。確か、結婚式の時の写真があった筈だ。


「ほら」


 ボクはカメラロールの中から、ウエディングドレス姿の静香を見つける。最初、ボクは静香の結婚式に顔を出すことをためらったことを思い出す。大学やバイトが忙しかったという理由もある。けれど、他の家族にとってボクと静香は今でも仲の良い家族だ。暇を作らないのも不自然だし、ここで静香を祝福できないのも何かに負けたような気持ちを覚え、ボクは全てを諦めてにこやかに、ヴァージンロードを歩く静香を拍手で讃えたのだった。その結婚式の時に撮った、夫の裕貴斗さんと仲睦まじく映っている静香の写真を、愛くんと山里に見えるように拡大する。


「おー、綺麗な人じゃん」


 愛くんが感嘆の声を上げる。


「人妻だぞ」

「お前、そういうの気にするタイプだっけ?」

「……まあ、比較的最近は」


 静香が結婚してすぐの頃くらいは寧ろ、彼氏持ちや人妻を好んでアプローチをかけていた事実はある。決してこれは静香のことは関係ないが。けれど、他に好きな人がいるという女の子に粉をかけてデートに数回こぎつけても「やっぱり、会うのは無理」と関係を切られたり、医者の妻と不倫関係になって夫にバレて、あわや裁判沙汰になりそうになったり。──例の文芸サークルの副部長までがボクのことなど見向きもせず結婚してしまったことや、同じサークル内の別の女の子に対し、その子のことを好きな同級生がいるのを知りながら手を出して、サークル合宿の時に結局その同級生と殴り合いになったことなんかを経て、今は少し落ち着いた。


「お前のタイプっぽいな」

「そうか?」


 ずっとぼける声を出して、ボクは軽く後悔する。わざとらし過ぎる。普段のボクであればここは軽く肯定するところだ。愛くんにも、そんなボクの異常さに気付かれてしまったようで、彼はボクの額に寄った皺の辺りをニヤニヤと眺めた。何も言われないのも、それはそれで腹が立つんだよ、このクソが。


「今度、紹介してくれや。あ、なんなら今からでもお前んち行くか。今日泊まれる?」

「ふざけんな。絶対に連れていかねえ」


 愛くんと話しながらも唐揚げ丼を食べ終わり、ボクは両手を合わせた。


「ごちそうさま。愛くんが奢ってくれるんだっけ?」

「馬鹿言え。山里の分だけだよ。今月も俺、まあまあカツカツなんだ。ヒモで稼いでるお前とは違って、日本の大学生の貧困問題は深刻なの」

「あっそ」


 お前も悪どいことして儲けてる側だろうが。後、ボクは別にヒモではない。


「お姉さん紹介してくれるなら、考えよう」

「嫌だ」


 ボクは自分の分の注文票だけを手にして、会計に向かった。ボクらの様子を横目で見ていた店主が、よっこいしょと口にして腰を上げる。


「はい、五百円ね」

「いつもありがとうございます」


 ボクは席を立った時に既に財布から取り出していた五百円玉を店主に渡した。


「あのよう」


 そのまま店を出ようと踵を返すと、店主が口を開いた。ボクに話しかけていることに気づき、ボクは首だけ振り向く。


「はい」

「話、ちょっと聞こえててよう。若い常連客に対する年寄りのお節介なんだが」


 店主は歯切れが悪そうに、首筋をポリポリと手でかきながらも、続く言葉を口にした。


「家族は、会える時にゃ大事にした方が良いぞ」


 店主の言葉に、ボクは思わず目を丸くした。確かに、この店主とは帰り際、こうやって軽く世間話をすることもないではないが、まさかこんなところで、正論を言われるとは。ただ、何故だかそれでボクは少しだけいつもの調子を取り戻し、にっこりとわざとらしいであろう笑顔を浮かべて、店主に向けて頭を下げた。


「ご忠告いたみいります。そうですね。ごちそうさまでした。また来ます」


 顔を上げて、愛くんにも先に外で待ってると告げる。愛くんは残っているカレーを一杯目を食べ終わった時と同じようにガツガツと口の中に流し込みながら、ボクに向かってサムズアップをした。

 店の外に出て、空を見る。どんよりとした曇り空だった。スマホで天気予報を確認する。三十分後に雨の予報だった。さっさと大学に戻って午後のゼミに備えるか、とボクは適当に暇つぶしになりそうなスマホアプリを開き、店の中にいる二人を静かに待った。

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