第14話 崩れる仮面、言えない言葉

 朝は、湯気の立たない湯みたいにぬるかった。冷えてもいない、温まってもいない。城の石は夜の湿りを残し、回廊の旗は風の方向を決めかねて小さく痙攣していた。昨日の葬送で、街はひとまず泣く場所を使い果たしたのだろう。涙の出どころを失った目は乾き、乾いた目はよく見えるふりをする。


 セレスは医務室の壺をひとつずつ閉め、薬包紙に包んだまま指の腹で形をなぞった。ラベンダー、タイム、薄荷、そして焦げ色の小さな根——瘴気よけ。どれも、言葉より先に手が覚えている匂いだった。棚の隅、昨日書き継いだ孤児名簿の上に、小さな紙片が一枚、ふわりとのっている。『置き水』。——夜半に決めた合図のことを思い出し、胸の内側で水がたぷんと揺れた気がした。


 扉の向こうに、予告のない足音。部屋に入る前に必ず一呼吸置くはずの人が、その一呼吸を忘れているときの足音。彼の音だ、と身体の骨が先に理解する。


 アレクシスが入ってきた。外套は肩でたたみ、手には何も持たない。持たない手は、持つべきものの形を探す。彼の目は眠っておらず、眠っていないことを隠しもしなかった。


「昨夜は、悪かった」彼は先に言った。「ガルドは眠れたか」


「深く。夢は重い音がしていた」


「夢に音がするのか」


「するよ。——それより」


 言うべきことは、きのうのうちに喉の形に合わせて削っておいた。削るときは感情が邪魔をする。邪魔をする感情をいったん脇へ置いて、言葉の骨格だけを残しておく。骨格は薄くて、折れやすい。だから、折れたら拾えるよう、床を片づけておくのがいい。


 セレスは机の角に両手を置いた。机は王の書斎から回された古いものだ。角に微かな欠けがあり、その欠けに指の腹がぴたりとはまる。そこには何度も、誰かの怒りや迷いが触れたのだろう。触れられた木は、触れ方を覚える。


「あなたに、説教をするつもりできた」


「知っている」


「知ってて来たの?」


「来い、と置き水が告げた」


「まだ紙を滑らせてもいない」


「滑らせる前から、喉が渇く夜はある」


 呼吸が一段噛み合った。噛み合ったときこそ、刃は研げる。セレスは深く息を吸い、顔を上げ、真正面から彼を見た。


「あなたは私を守る。けれど、私を“選んだ理由”を言わない」


 室内の空気が、それまで持っていた無色のふりをやめた。透明のまま重くなり、重さだけが音になって床板を鳴らす。アレクシスは、すこしだけ視線を逸らし、それから戻した。逸らした長さは呼吸ひとつ分。戻るときの角度は刃物のそれではなく、鈍い匙の角度だ。


「言葉にすれば、弱点になる」


「——」


「言えば、狙われる。俺が、狙う理由を与える」


 彼の声は低く、論ではなく習慣の音色を持っていた。王になる前から彼の骨に巻きついた縄。縄は、抜け道を見つけるまでほどけない。


 セレスは椅子を引かなかった。立ったままで、机の端に置いた指を軽く折り、次の言葉を掬い上げた。掬い上げたそれを、そのまま卓に叩きつける。乾いた音が部屋の四隅に散り、積もる前に返ってくる。


「言葉にしないことが、相手の孤独を深める」


 机の木目が、音を吸った。吸った音を木は、のちの誰かに返す。今日の言葉は、のちの誰かの耳に届いたとき、どう聞こえるだろう。セレスは自分の胸に蒸気が溜まっていくのを感じた。冷やさなきゃ爆ぜる蒸気だ。


「あなたは、私に石を受けさせた日、肩を抱いた。あのとき、世界の見え方が、少し変わった。——でも、そこで立ち止まってる。私は花嫁で、あなたの番で、治癒師で、宮廷の一角で、街の誰かで、孤児名簿の書き手だ。どれもあなたは守る。だけど、なぜ“私”であるかの理由を、ひとつも渡さない。理由は盾になる。私が一人で街に降りる夜に、盾になる。あなたが剣を抜いていないときに、剣になる。言葉は、弱点じゃない」


「言葉は、的になる」


「沈黙も、的になる」


 短い応酬は、子どもの喧嘩に似ていた。似ているが、深さが違う。子どもの喧嘩は声が先に走る。大人の喧嘩は、声が遅れてくる。沈黙と呼吸の隙間に、言えなかったもの、言い損ねたもの、言ってはいけないと自分で決めてしまったものが堆積して、重力が変わる。


 アレクシスは、机の上に置かれた名簿の隅に視線を落とした。彼の視線は、そこに書かれた小さな丸印と線に一度触れ、触れたことを隠すように薄くまばたいた。


「俺は」彼は言った。「王だ」


「知ってる」


「王は、弱点を少なくするよう教育される。剣、地図、言葉、人。弱点が多い王は、短命だ」


「弱点がない王は、人じゃない」


「人じゃない王は——」


「支えられない」


 空気がほんの一瞬、軽くなった。言葉の歯車がひとつ噛み合って、舌先に油の味がした。セレスは続けた。


「私は、あなたの弱点になりたいわけじゃない。弱点だと呼ばれる場所に、座るしかないときがあるのは、わかってる。でも、弱点にしか名前がないのなら、その場所は孤独だ。私は“理由”という名前が欲しい。理由って、呼べる名前が」


「理由は、標的にされる」


「名前がない場所は、すでに誰かに狙われてる」


 沈黙。沈黙の間に、机の上の『置き水』の紙片が風もないのにわずかに浮いた。浮いた紙は落ちてこず、そこに、在るというだけで意味を持った。


「……おまえが選ぶのか」アレクシスが低く言った。「おまえのほうが」


「選ぶ、というより受け取る。渡して。私が受け取る。あなたが怖いなら、紙に書けばいい。口に出したくないなら、指で机に刻めばいい。——私の名前の横に、理由を」


 アレクシスは口を閉じ、視線を窓の向こうへ滑らせた。薄雲、沈まない朝、まだ熱を持たない城の息。それは、言葉から離れるための視線ではなく、言葉に戻ってくるための遠回りに見えた。戻ってくる途中で、彼はふと、笑いそうになったがやめる、という顔をした。


「子どもみたいだな、俺たち」


「うん。子どもじみてる。でも、子どもは正直だよ」


「正直は、国務に向かない」


「国務に向けるのが、王の仕事だよ」


 机の縁に置いた自分の指が白くなるほど、セレスは力を込めた。怒っているというより、落ちないように身体を支えるための力だ。怒りは落下に似る。掴むものがなければ、落ちていく。掴むものがあるとき、指は痛む。


「私は、ずっと待っていた。『花嫁である前にセレスだ』と、あなたが言う瞬間を。『治癒師だからではなく、セレスだから置く』と。名簿に書く名前に、意味があるように。——あなたのそばにいる名前にも、理由があると、知りたかった」


 アレクシスの喉が、目に見えない硬いものを一度、ごくりと飲み込んだ。飲み込み方がぎこちない。王は普段、飲み込むものを選べる。今日は、選べていない。


「言えば、弱くなる」彼は繰り返した。「言えば、俺が俺でいられなくなる気がする」


「なら、崩れて」


「崩れたら、どうする」


「縫う」


「誰が」


「私が」


 短い言葉は刃ではなかった。針だ。針は小さくて、見失いやすい。見失わないように、アレクシスは目を細め、針の穴を探すような顔をした。


「……どこまで言えば、いい」


「一歩」


「一歩」


「子どもの歩幅でいい」


 そのとき、扉の影が微かに揺れた。気配に気づいたのはセレスではなく、アレクシスだった。彼は視線を扉へ向け、しかし呼び止めなかった。扉の向こうにいるのは、足音でわかる。ルーメン。宰相補佐。毒を薄める術を持つ男。


 彼は、意図して耳を立てたのではない。扉に手をかけ、ノックの間合いを測っていたのだろう。測る間に、言葉が流れ出しただけだ。流れ出した言葉は、彼にとって毒ではなく、冷水だった。


 アレクシスは、扉の影をそのままにして、視線をセレスへ戻した。戻すときの目に、刃の光ではないものが灯る。布の光。柔らかく、そして長持ちする光。


「おまえがいれば、王でいられる」


 声が掠れた。掠れは風のせいではない。胸の奥を風が通り抜けた後に残る、細い砂のせいだ。砂がこすれて音が出る。彼の声は、その音と混ざった。


「……それでは理由にならないか」


 セレスは言葉を失った。失う、というより、言葉に水が入り、重くなって沈んだ。沈んだ言葉は消えない。底に溜まり、底で形を変える。変わった形は、別の名を持って浮かび上がる。


 彼女は机の角から指を離し、深く息を吸った。肺が膨らみ、胸骨がほんのわずか音を立てる。音が合図になって、脳のどこかで火が灯った。泣きたい、という合図ではない。泣くより、握るべき手があるとわかる合図だった。


「……理由だよ」


 やっと拾えた言葉は、小さかった。それでも、拾えた。拾ったものは、落としにくい。セレスはゆっくりと近づき、机を迂回して、彼の正面に立った。距離が近いと、嘘がつけない。距離が近いと、沈黙も嘘をつけない。


「王でいられる、というのは、あなたのための理由だ。私が欲しかったのは、私のための理由でもある。——けれど、いまは、それでいい。いまのあなたは、王であることに傷ついている。王であることが弱さで、王であることが孤独で、王であることが喉を渇かせている。だから、そこに置く」


 彼の目が、ふっと降りた。降りた視線は、床の節目を数え、足の位置を確かめ、もう一度上がる。上がってきた目は、涙ではなく、しみを持っていた。しみは、夜にしか見えない種類の光を溜める。


「置き水は、役に立ったか」


「紙を滑らせる前に、来てしまった」


「次は、滑らせて」


「ああ」


 アレクシスの返事は、短く、そして幼かった。幼さは、弱さの別名ではない。幼さは、未来の別名だ。未来は、手を貸してやらないと立ち上がれない。立ち上がったら、手を離す。


 扉の影で、ルーメンがかすかに息を呑んだ。彼は自分の胸を、見えない掌で押さえる。心臓が、仕事の邪魔をする。毒を扱う男にとって、心臓はいつも余計だ。だが今は、余計なものが役に立つ。——王の弱さ、という言葉が、彼の内側で音を持った。音は震えだ。震えは、慎重さに変わる。


 彼はノックをやめ、足音を消して去る、という選択をした。宰相補佐としては異例だ。だが男としては、当然だった。弱さを見た者は、同時に自分の強さを使わない、という強さを使える。


「ルーメンがいた」アレクシスがぽつりと言った。


「知ってたの?」


「扉に落ちた影が、いつもより細かった」


「細い影のときは、聞き手にする」


「今日は、留守番にする」


 二人は同時に、少し笑った。笑いは弛緩ではない。弛緩の直前、筋肉が震える瞬間の、短い熱だ。熱は、言葉に張りを戻す。


「話を戻そう」セレスが言った。「あなたが私を選んだ理由を、私のための言葉で、ひとつ欲しい」


 アレクシスは考えるふりをしたが、実際には思い出していた。思い出すとき、人は前を見て、過去の景色を見ているふりをする。彼はゆっくりと座り、椅子を少し引き、膝に肘を置いて、指を組んだ。


「初めて、おまえを見た日の匂いを覚えている」


「匂い?」


「血と、薬草と、雨の匂い。瘴気が食べ損ねた匂いだ。——境いで俺は戻された。戻された俺は、戻ったという事実だけを抱えて城に戻った。誰に、どうやって戻されたのか、言わなかった。言えなかった。言うと、そこに手が欲しくなるから。手が欲しくなると、戦い方が変わるから。戦い方が変わると、兵が死ぬから」


「うん」


「おまえに初めて会ったとき、その匂いがした。道具の並べ方、包帯の巻き方、湯の温度の測り方——全部、俺を戻した手と似ていた。似ているというだけで、同じだとは思っていなかった。だが、似ているものは、戻り方を知っている。俺は、いつでも境いに足をかける。足をかけるとき、戻り方を忘れる。忘れたとき、おまえの手がそこにある。——だから、選んだ」


 セレスは自分の胸の内側で、密やかな音を聞いた。歯車がもうひとつ、噛み合う音。今度の音は、前よりも深く、金属ではなく木の音だった。木は、噛み合った部分が擦り減るまで音を出さない。擦り減るという未来を引き受けた音。


「十分だよ」セレスは言った。「それで、十分」


「足りないと思っていた」


「人は欲張りだからね」


「おまえも」


「うん。だから、もうひとつあとで欲しがるかも」


「用意しておく」


「用意しないで。出たとこ勝負で」


「それがいちばん難しい」


「難しいことをするのが、王と治癒師の仕事だよ」


 言い合っているのに、互いの声が柔らかくなっていくのがわかった。柔らかさは油断ではない。柔らかくなった場所は、縫いやすい。縫いやすい場所に針を通すと、傷は思ったより早く閉じる。


「一つだけ、俺にも言わせてくれ」アレクシスが言った。「おまえは“理由”を求める。それはわかる。だが、理由を持たないことが、おまえの強さだった夜がある」


「どの夜」


「鐘楼の夜。おまえは治癒師として壇に立ち、花嫁として石を受けた。どちらでもない“セレス”の理由は、あのとき言葉になっていなかった。だが、そこに、在った。——在るという理由は、弱点にならない」


 セレスは、ふっと笑った。「あなたの言う子どもじみた哲学、嫌いじゃない」


「俺は、説教を嫌いじゃない」


「繰り返すね、それ」


「言葉にしておく。弱点にしておく」


 彼の言い回しに、セレスは肩の力をやっと抜いた。抜いた肩は、自分の高さを思い出す。自分の高さを思い出すと、相手の高さも見える。彼は高い。たぶん、これからも。高いまま、時々降りてくる。降りてきたとき、こちらが立っていられるように、床を平らにしておくのが自分の役目だ。


 廊下の向こうから、ルーメンの咳払いが一度。さっきの揺れより、ずっと遠い。戻ってきたのではない。距離を置いたまま、仕事に戻った合図だろう。彼は、今日新しく手に入れてしまった秘密を、どこに置けばいいのか、まだ決めかねている。決めてしまえば、彼はよく働く。


「ルーメンには」アレクシスが言った。「言わないでいい。だが、彼の耳に入った分は、彼の仕事に使われる。俺はそれを止めない」


「彼は、毒を薄める。弱さは、毒に似てるけど、違う」


「違う。毒は外から来る。弱さは内側にある。薄めるのではなく、晒す」


「晒す?」


「風に当てる」


「乾く?」


「乾く」


 ふたりの会話の間に、医務室の湯が小さく沸いた。セレスは薬缶を火から下ろし、湯飲みに分けた。湯気は薄い。薄い湯気にも、匂いを含ませることはできる。彼女は薄荷の葉をひと欠片落とし、湯の上に浮かぶ影を見た。影は揺れ、そして輪郭を持つ。


「今日は、私が置き水を出すね」


「いただく」


 湯を口に運ぶと、舌の苛立ちがほどけ、喉に薄い甘さが残る。言葉は、喉に甘さが残っているときのほうが、よく流れる。セレスはもう一度、机の角に触れた。さっきの叩いた場所とは別の角。別の角は、まだ痛んでいない。今日の痛みは、ひとつで足りる。


「夕刻に、エリンの母へ行く。ガルドは起こす」


「俺は、王の顔で門に立つ」


「顔だけ?」


「顔だけの日もある」


「じゃあ、夜は——」


「置き水に来る」


「うん」


 短い取り決めが、部屋の四隅に杭のように刺さった。杭は布を張るためにある。布は、影を作るためにある。影は、休むためにある。休めば、歩ける。


 アレクシスは席を立ち、扉に手をかけた。手が止まり、振り返る。振り返り方に、王の癖はない。人の癖だけが残っている。


「もう一歩、言おう」


「え?」


「“おまえがいれば、王でいられる”は俺のための理由だった。——おまえのための理由は、まだ言っていない」


 セレスの心臓が、胸の中で姿勢を正した。正す、というのは大仰かもしれない。けれど、ほんの少し、整列した。


「聞くよ」


「おまえがいると、俺は、王でいなくても、いられる」


 言葉は掠れもせず、ただ短かった。短いものは、長く残る。残るものは、弱点ではない。印だ。印は消えない。消えないから、道標になる。


 セレスは頷いた。頷くとき、人は首ではなく、胸を小さく上下させる。胸が動くと、空気が入る。空気が入ると、声が生まれる。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 扉が静かに閉じた。閉じた音が、机に染みていく。木は、叩かれた音より、閉じられた音のほうを長く覚えるのだと、セレスは思った。


 ひとりになった部屋で、彼女は名簿の続きを書いた。橙(仮)の横に、小さく印をつける。今日の昼までに、あの子の本当の名が戻るかもしれない。戻らないかもしれない。戻らなくても、呼べる名はある。呼べる名がある限り、帰る道は途切れない。


 ふと、扉の外で誰かの足音が止まった。ノックはない。代わりに、紙片がするりと床を滑る音。拾い上げると、そこには細い字でこう記されていた。


——『晒す』『乾く』『在る』


 ルーメンの手。毒のない紙。他の誰にも見せない、という固い字。彼は、王の弱さを密かに知ってしまった自分自身に震えながら、その震えを仕事の慎重さに置き換える術を、もう手にしていた。紙を胸に当てて目を閉じる姿が、扉の向こうに立ったまま想像できた。


 セレスは紙を『橋の庭』設立案の束に挟み、背筋を伸ばした。仮面は崩れる。崩れた破片が床に散らばる。その破片で、鏡を作ればいい。鏡は、誰かを映す。映された誰かが、やっと自分の顔を見る。


 夕刻、セレスは外套を羽織り、眠っていたガルドを起こした。彼は目を擦り、すぐに立ち上がり、いつもの背丈に戻った。背丈の戻り方が、少し柔らかい。柔らかい背丈は、折れにくい。彼は「行こう」とだけ言い、扉へ向かった。


「待って」セレスが呼び止める。「今夜、王は来る。置き水に」


「……そうか」


 ガルドは短く目をつむった。エリンの名を心の奥で呼んだのかもしれない。呼ぶ声は、誰かを帰らせるだけじゃない。自分自身を、戻す。戻ってきた彼は、振り返らずに言った。


「王に説教するときの声は、小さくていい」


「どうして」


「大きい声は、戦場で使う。小さい声は、寝室で使う。——王は、戦場より寝室で崩れる」


 彼の言葉に、セレスは笑うしかなかった。笑いながら思った。崩れることは、敗北ではない。崩れた場所から見える地面は、まっすぐではないが、柔らかい。柔らかさは、縫い糸のためにある。


 暮れなずむ廊下を歩きながら、セレスは胸の中で確かめた。子どもじみた口論も、掠れた告白も、扉の影の震えも、ぜんぶを糸にする。糸は細いが、一本じゃない。彼女の掌の上で、幾筋もの糸が温度を帯び始める。温度のある糸は、手を、そして心を、縫い合わせる。


 崩れる仮面の下で、やっと息が合う。息が合えば、言えない言葉も、いつか言える——その日まで、湯を沸かし、名を呼び、置き水を置く。彼女の仕事は、今日も明日も、それだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る