第15話 黒檀の短剣と反逆の芽

 その朝、武具庫の鍵穴は泣いていた。古い真鍮の舌が、何度もこじられた跡を小刻みに震わせ、そこに差し込まれた公式の鍵は、遅れて届いた理解のように素直に回った。扉が開くと、冷たい鉄の匂いが胸を締めつける。棚。木箱。布に包まれた長物。点検簿の墨。並ぶ輝きの中で、ひとつだけ、光がいない。


 黒檀の短剣。


 刃は黒く、柄はさらに黒く。光を飲み、影を返す。古王を葬った“王殺し”の象徴。儀礼上は「封剣」と呼ばれ、即位の夜に王の枕辺に置かれる。刃に血を与えるためではなく、刃の記憶を忘れないために。王は剣を選ばず、剣が王を選ぶ——その古い作法に、ずっと棘のように刺さった名前。黒檀の短剣は、封されたままになっているはずだった。


 今、そこにあるのは空白だった。空の台座は埃の溜まり方で盗難の新しさを語り、台座の縁木に指を置いた近衛は、木が正確に言う「昨夜」という言葉を聞き取った。


「鍵は?」


 報告を受けたガルドが短く問う。副官は首を振る。「外鍵は異常なし。内鍵も。……合鍵は、宰相補佐の保管庫に」


「確認しろ」


 走る足音。入れ替わる兵。点検簿の欄外が粗く埋まり、硝子窓に差す朝の光が、武具庫の奥で白くとぎれる。ガルドは棚の奥、布のほつれを指先で探り、釘一本のズレまで数える。彼の眼は、今朝ほど「守る」以外の仕事をしていない。守る者は、時に探さなければならない。探す者は、時に疑わなければならない。疑いは、守りの裏面だ。


 その頃、セレスは医務室の椅子に紐を通していた。切れかけた座面を縫い直す。朝の手仕事は、心の筋肉をほぐす。針が布をくぐる音は小さく、しかし確かで、傷口を縫う手つきとよく似ている。棚の薬草は前夜のうちに補充した。薄荷、水栖草、痛み止めの根。湯はまだ熱い。名簿の束には新しい仮名が二つ。橙(だいだい)、萩(はぎ)。彼らに手を当てる予定は午後。午前中は兵の抜糸が五件、厨房の火傷が一件。


 扉を叩く音。ルーメンが顔を出した。いつもの銀髪は肩で光り、口元の毒はまだ薄い。


「騒がしい朝だ」


「騒ぎはいつも朝から始まる」


「今朝は騒ぎが騒ぎを呼ぶ。——黒檀の短剣が消えた」


 縫っていた糸が、わずかに強く引かれ、布に小さな波が立つ。セレスは針目を数え、切りのいいところで手を止めた。「内通者?」


「内通者。あるいは、内通者に見せかけたい誰か。いずれにせよ、王は王でいることを強いられる。刃は、王の胸骨を叩くためではなく、王の孤独を叩くために使われる」


「あなたの合鍵は?」


「私の保管庫にあった。昨夜、点検した兵が証言する」


「それでも疑われる」


「当然だ」


 ルーメンは乾いた笑みを顔に貼ることもできたが、今朝は貼らなかった。その代わり、彼はゆっくりと扉の枠に背を預け、言葉を一度、磨いた。


「——私を信じる必要はない。ただ、王を死なせる気がないのは誓える」


 セレスは彼の目を見る。嘘を重ねる職にある者の目は、何も言わないときがいちばん正直だ。そこに真正面の色が、今朝はあった。毒の瓶に貼る札のような正直。


「ガルドに言った?」


「言った。彼は信じない。信じないことを、信じている」


「それでいい」


「よくはない」


 短く言い捨てて、ルーメンは去った。扉の外で近衛の靴音、命令の断片、廊下の空気の密度が変わる気配。城が、戦場ではない戦場になる朝。セレスは白衣の袖を折り上げ、手の甲の小さな傷に油を塗った。手は今日、血以外の色に触れる予感がある。色は痛みの色ではなく、銅と薬と木屑の色かもしれない。


 武具庫から最初の報が広間に届き、鐘は鳴らず、旗だけが小さく反応した。ルーメンは宰相の部屋で冷たい書類を捌き、ガルドは通路に封鎖命令を出した。


「西の回廊、第三階段を閉鎖。塔の渡り廊下は番を増やす。物見台から下層諸口へ降りる螺旋は封鎖。厨房からの通気孔は網を張れ。——医務室は?」


「安全区画へ退避を」


 副官の報告に、ガルドの眉がひとつ寄る。「治癒師を動かすのは最後だ。だが命令は命令だ。……セレスへ届け」


 命の出入り口——医務室。そこを動かすのは王城の心臓を動かすのに等しい。だが黒檀の短剣は、心臓に向かう刃だ。封鎖される廊下、閉ざされる扉、重くなる空気。その密度は、誰かの喉を堅くする。誰の喉か。ルーメンではない、と彼は自分に言い聞かせる。言い聞かせながら、言い聞かせる必要のある自分を、同時に疑う。


 人は、守りたいものの近くほど、疑いに手を伸ばす。


     *


 医務室に近衛が走り込み、セレスに安全区画への退避命令が伝えられた。セレスは首を振る。「ここが安全区画よ」


「しかし——」


「患者は、逃げない。治癒師も」


 近衛は詰まる。詰まった言葉の裏にある正しさを崩すべきかどうか、彼の訓練はそこまで扱わない。結局、彼は目だけで「ここで守る」と言った。セレスは頷く。その目は臨戦の目だが、臨戦は人を愚かにも賢くにもする。


「扉は?」


「開けたまま。鍵は掛けない」


「どうして」


「鍵を掛けると、叩き割られる。開けておけば、歩いて来る」


 理屈は安全の理ではない。だが、店の戸口と同じだ。開けたままの店は、泥棒が一拍遅れる。彼らは、開いている理由を一瞬だけ考える。その一瞬が、針一本分の隙になる。針一本分あれば、治療は始まる。


 午前の診療は普段より静かだった。近衛の抜糸。厨房の火傷。議事録係の腱鞘炎。セレスは手を止めず、患者たちも余計な話をしなかった。空気の端に、武具庫のほうから流れてくる鉄の匂いが混じる。噂は、まだ言葉にならない。言葉にならない噂は、匂いだ。匂いは患者と治癒師の間にあって、双方が吸っている。


 昼前、扉の影がやわらかく揺れた。背丈の平均的な男、短く切り揃えた髪、灰色の外衣。靴は兵のものではなく、書記のものに似ている。腕に包帯。白い。白いけれど、端が汚れていない。汚れていないのに、血の匂いがする。匂いは瓶からではなく、布から漂っている。新しい血の匂いに、古い鉄の匂いを混ぜた匂い。


「入って」


 セレスは椅子を指した。男は無言のまま座り、腕を差し出す。包帯の下、皮膚には小さな切り傷。切り傷は、噛み傷に似せてある。噛み傷は丸い。これは僅かに角張っている。刃の端が踊った跡。


「何で切った?」


「紙」


「紙でここまで深くは切れない」


 男の目が、短く眇(すが)められた。眇めるという動作は、隠すより数えるときに多い。距離。隙。器具の位置。窓までの歩幅。セレスはその眇める目に、患者特有の濁りがないことを確認した。


 刺客は、患者のふりをするが、患者にはならない。


「痛む?」


「少し」


「少しは、嘘」


 セレスは棚から消毒液を取るふりをして、背中で薬棚の重心を確かめた。棚は壁に固定していない。固定すると、掃除がしにくいから。掃除がしにくい場所は、血が染み込む。血が染みる場所は、噂が染みる。


「腕を伸ばして」


 男がわずかに戸惑う。右腕を差し出した。利き手ではない。利き手は背に回った体の右側、外衣の下に潜む。セレスは消毒液の栓を開け、さりげなく手首を返す。瓶を棚に「置く」のではなく、「落とす」体勢。床板の節の位置。足裏の重さ。頭の位置。棒を振る前に、手の中に「棒の意志」を宿す。


「しみるよ」


 その言葉が合図だった。男の左袖が弾け、刃が光を飲み、空気が狭くなる。机の端が削れ、椅子が飛び、簡易寝台の脚が悲鳴を上げる。セレスは棚を両手で抱え上げ、斜めへ投げた。棚が空間を占拠し、瓶が割れ、薬草が雨になった。薄荷の香り、焦げた根の匂い、酒精の刺す痛み。刺客は身をひねり、棚の角を肩で受け、しかし完全には避けきれなかった。短剣の軌道が一瞬ぶれる。


 ぶれで、命は助かることがある。


 セレスは棒状の器具——火掻き(ひかき)に似た鉄を掴み、短剣の手首を狙って叩いた。骨に当たる音。刺客の指が短剣を離しかける。しかし離さない。訓練された手。彼は逆手に持ち直し、突きに変える。突きは、斬りよりも考える隙を奪う。セレスは後ろへ倒れ込むように避け、寝台に背中を打ち、肺から空気が出た。視界が白くなる。


「……っ」


 白い視界の端で、刺客の足が床の薬瓶を踏み滑らせ、体勢が崩れた。セレスは寝台の下から手探りで硬いものを掴む。木箱。中身は針と糸。箱ごと投げる。箱は当たらない。だが、投げるという動作が、彼女の身体に戻り方を思い出させる。


 戻れ。


 寝台を蹴り起こし、刺客の膝にぶつける。膝が曲がり、短剣の軌道がふたたびぶれる。セレスはその隙に腰を捻り、刃の手首を両手で抱え込んだ。刃が頬を掠め、熱い線が走る。血が流れる。顔の血は、怖がられる。だが彼女は怖がらない。血は彼女の職場で水と同じだ。彼女は「痛み」より「位置」を見ている。


 刺客の息が近い。息は鉄の錆のような匂い。訓練時の乾いた砂の匂い。彼は言葉を発しない。職の規律。セレスは自分の膝を彼の肘に当て、肘を逆に折る方向へ力をかけた。筋肉の繊維が抗い、骨が予兆の音を出す。短剣が落ちた。床に刺さらず、転がる。転がりかたで刃の重心がわかる。軽い。黒檀ではない。——当然だ。黒檀の短剣は別の場所で誰かの喉元へ向けられている。


 刺客は素手で彼女の喉を狙う。セレスは机の角に背を押し付け、喉を半歩引いた。その一瞬に、手近の重みを掴む。陶の瓶。睡眠薬。瓶底でこめかみを打つ。割れない。二度目。瓶が割れ、液が飛び、匂いが刺客の目に入る。まぶたの反射。彼の手が僅かに離れる。セレスは指の関節にかみついた。噛む、というのは職業ではない。動物のほうのやり方だ。人間が動物に戻るのを恥じる間は生きにくい。恥じないほうが、生き延びる。


 噛み跡。血。刺客が短く唸り、体を引く。セレスは彼の裾を掴んで倒し、背中から重ねて押さえ、彼の手首を床に打ちつけた。床板が悲鳴を上げる。関節が答える。答えが出るまで待つ。焦らない。彼女は治癒師だ。待つことを、骨が知っている。


 近衛の叫びが廊下から近づく。扉に影。次の瞬間、影が飛び込み、刺客の体に重さが乗った。ガルドだ。彼は言葉を置かず、手だけで全てを終わらせる。刃を離した男の肘に縄を掛け、膝で肩を押さえ、短剣を奪った近衛が一歩退く。縄が締まる音。息が戻る音。割れた瓶の残り香。


 セレスは床に座り込んだ。耳の奥で、白い音が低く鳴っている。頬の傷は浅いが、血はよく流れる。腕には青い痣が芽吹き始め、膝が痛む。痛みは“今いる”を教える。痛みがあるうちは、今ここにいる。


「無事か」


 ガルドの声は平坦だ。平坦は彼のやさしさの色だ。感情を乗せると、戦場に風を呼ぶ。風があると、刃は逸れる。彼は逸れさせたくないとき、声を平らにする。


「軽傷」


「軽傷が一番危ない」


「わかってる」


 刺客は沈黙を守る。守る沈黙から、彼の所属は絞れない。沈黙はどの組織にもある規律だから。だが、沈黙の中にある「期待」の匂いで、彼がこのあと何を待つかはわかる。助け。毒。自死。救い。どれ。ガルドの目が彼の口元の色を読む。色が僅かに紫に寄る。呼吸の乱れ。瓶の液の影響。睡眠薬が目に入り、粘膜から吸収された。時間は短い。


「拘束して連れていけ。目と口を覆え。遅効性の毒を持っていたら、喉が先に反応する」


 近衛が頷き、刺客を担ぎ上げる。扉の外は騒然としているわけではない。騒ぎは封じられている。封じるのは、王城の最初の規則。外に見せないためではなく、中に増やさないために。騒ぎは、内部で増える。


 ガルドが引き際、針と糸が散った床に目を落とした。糸玉。針箱。血の滴。割れた瓶。寝台の脚は一本、曲がっている。彼は低く、ほとんど唇の形だけで言った。


「——よくやった」


「よくやってないよ。棚を投げた」


「棚はまた立てればいい」


「棚を立てるのは、いつも私」


 ふたりは短く笑った。その短さは、痛みの隙間に入るための寸法だ。笑いは痛みの隙間を測る道具でもある。


「安全区画に」


「行かない」


「命令だ」


「命令が正しいなら、従う。——今日は、正しくない」


 ガルドは眼を細めた。反論はしない。反論しないという技術は、戦場でも医務室でも価値がある。彼は代わりに、扉のほうへ顎を向ける。「王が来る」


 ほんの少しの時間差で、その言葉は事実になった。アレクシスが風のような速度で現れ、止まるときだけ、風ではなくなった。彼は一歩でセレスの前に来て、頬の血、棚の角、曲がった寝台、割れた瓶、ガルドの指の血まで、一瞬で見た。見たものを、怒りが塗りつぶす前に整頓する。王は怒る。怒るが、怒りを先に使わない。


 だが、今は、先に色が出た。瞳の紅。紅は血ではない。炎の色でもない。獣の色に近いが、獣を飼い馴らす者の色だ。彼は言葉より先に手を伸ばし、セレスの肩を掴み、抱き上げた。抱き上げる、という動作は、彼の身体に深く刻まれている。いつだ。どこだ。誰を。彼自身が、知っている。


「……二度目だ、抱き止めるのは」


 彼の声は低く、掠れ、しかし刃ではない。布だ。包むほうの声。


 セレスは呼吸を整えながら、彼の外套の匂いを嗅いだ。外套は冷たい風の匂いではなく、部屋の熱の匂いを持っている。王の外套は、時々、城の温度を持つ。城は今日、熱を持っている。


「抱き止められても、私は歩く」


 言葉は、気絶の手前で拾った石のように、重く、しかし投げると正しく届く。アレクシスは目を細め、抱き上げた腕の角度をほんの少しだけ変えた。歩けるための抱き方。抱かれながら歩けるという矛盾の技術は、王と治癒師の間だけで成立する。


「歩かせる。だが、血は止める」


「止めて」


 ガルドが黙って布を差し出す。ルーメンがいつの間にか扉にいて、いつもの軽口を失くした顔で、床の破片を踏まないように身を捌いた。彼はセレスの頬から顎へ流れる血を見て、その落ちる先——彼女の白衣の裾——が汚れないよう、素早く手を添えた。手の添え方が器用で、傲慢で、優しい。


「犯人は?」


 アレクシスの問いに、ガルドは短く答える。「捕縛。口を開かず。黒檀は別」


「黒檀」


 ルーメンがうすく笑う。「黒檀の短剣は、儀礼の刃。古王を葬った象徴。王殺しの合図。——誰かが、王を殺せるという“思い込み”の刃を城に持ち込んだ。刃そのものより、思い込みが危ない」


「思い込みは、波及する」


 アレクシスの紅が薄れ始める。紅が薄れると、彼の目は人の色に戻る。人の色は、弱く見えるが、長持ちする。


「ルーメン」


「はい」


「疑いは、おまえに向いている」


「向ければいい。私の肩は広い。刺すなら、刃は前から」


「後ろから刺す者には?」


「背中は、陛下に預けている」


 そのやりとりを聞いて、セレスはほんの少し笑った。笑いは痛みを攫う。攫われた痛みは戻るが、戻るまでの間に、手当てができる。


「——王」セレスが呼ぶ。「黒檀の短剣は、刃ではなく鍵。誰かが扉を開けようとしてる。どの扉?」


 アレクシスは目を閉じた。城の見取り図が脳裏で開く。武具庫。謁見の間。渡り廊下。塔の梯子。中庭の井戸。王の寝所。——寝所。扉。鍵。黒檀。古王。葬送。象徴。


「王の寝所に、“王殺しの象徴”を置けば、王が象徴に屈したという物語ができる。物語は兵を動かす。兵は物語に弱い」


「物語を殺すのは、事実」


 ルーメンが割って入る。「実行犯の吐く前に、物語を潰す。——陛下、命を」


「ガルド」


「陛下」


「寝所の見張りを倍増。誰も入れるな。黒檀は、見つける前から無効にする。——ルーメン」


「はい」


「疑いは、おまえに向けたままでいい。おまえが矢面にいれば、他所の影が動きやすい。動けば、捕まる」


「矢面は慣れている。刺されないと退屈する」


「刺させない。退屈に耐えろ」


「御意」


 命令が走り、城がまた固くなる。その固さは、折れる固さではない。布のような固さ。引けば伸び、戻れば縮む。セレスは椅子に座り直し、頬に当てた布を押さえ、息を整えた。アレクシスが片膝をつき、彼女の髪の生え際に触れる。触れ方に、手袋のない素手の不器用さが混ざる。


「……二度目だ」


「うん」


「三度目は、ない」


「あるよ」


 彼は目を上げる。否定と肯定の間に、静かな森がある。そこに風が通り、枝が音をたてる。


「抱き止められても、私は歩く」と彼女は先ほどの言葉を繰り返した。「歩くために抱かれるなら、抱かれていい」


「抱いて、歩かせる」


「うん」


 短い合意が、部屋の隅に杭を打つ。杭は布を張るためにある。布は影を作り、影は休みを作る。休めば、歩ける。


     *


 午後、城の通路は封鎖と開放を繰り返し、門は閉じず、窓だけが内側から固められた。黒檀の短剣の手がかりは薄い。武具庫の床にあった泥の粒。粒は城下の東区の土で、香草屋の裏庭に似た匂い。——偽装。誰かが「東」を偽装するなら、狙いは「西」。西の塔の螺旋階段。封鎖済み。だが封鎖は鍵だけではない。鍵を閉めると、鍵を開ける物語が生まれる。封鎖は物語を生む。物語は穴を見つける。


 ルーメンは机に書簡を並べ、人界から来た密偵の報告と、城下の市場の帳簿を重ね、数字の皺に指を入れた。数字は嘘をつかないが、数字を書いた者は嘘をつく。昨日、金庫から銀貨が十枚減り、今日、理由なく十枚増えた。増減は同じ店。帳簿の隅に描かれた小さな点。点は合図。——黒檀の短剣は、市で「売られる」符丁付きだ。


 彼は立ち上がり、扉に影を落として、また戻った。戻って紙に二行を書いた。


 『黒檀は象徴。象徴は物語。物語を買う者がいる』


 紙を折り、胸に入れる。宰相補佐の胸には、政治だけでなく、秘密の居場所がある。秘密は、胸で温めると孵る。孵った秘密は、時に味方だ。


     *


 夕刻、医務室に静けさが戻ってきた。セレスは片付けに取り掛かる。割れた瓶の破片を拾い、棚を仮に立て、寝台の脚に楔を噛ませる。頬の傷は縫合済み。鏡に映る自分の顔が、少しだけ強い人の顔に見える。強さは見えないほうが長持ちするのに、今日は見える。見える強さは、物語に使われやすい。気をつけて、と彼女は鏡に言った。


 扉が軽く鳴った。入ってきたのは少年。橙(仮)。熱は下がり、声は少し太く、目の乾きはまだ残る。


「先生、落としたの、これ」


 彼が差し出したのは、小さな木片。棚の角から欠けたもの。角は戻らない。欠けは残る。残る欠けは、触れると痛い。しかし、欠けは「ここが戦いだった」印にもなる。


「ありがとう。橙は、もう帰れる?」


「うん。名前、思い出した」


 彼は小声で本名を告げる。セレスは名簿に線を引き、仮名の上に本名を書き添え、横に小さな丸印をつけた。丸は帰還の印。線は終わりの印。丸は戻る場所の印。線と丸が並ぶと、地図になる。


「明日も来て」


「うん」


 橙——いや、本名で呼べる少年は笑って手を上げ、走り去った。扉が閉まる前に、廊下の向こうの足音。アレクシスの足。今度は一呼吸置いてから、扉が開く。彼は朝より少し疲れ、しかし目は澄んでいる。澄んだ目は、疲れを見通す。


「黒檀は?」


「まだ見つからない。だが、見つける前に意味を剝がす。王殺しの象徴を持って城にいる者は、王殺しではなく、物語好きだ。物語好きは、数字に弱い。——ルーメンが追っている」


「ルーメンは?」


「毒を薄めている。自分の毒も薄めるのに骨が折れている」


「ガルドは?」


「塔の上で風と喧嘩している」


 言葉の端に、小さな安堵が紛れる。安堵は、終わったことには使わない。続いていることに使う。続いている間に、歩く。


「セレス」


「なに」


「二度目だ、抱き止めるのは」


「三度目は?」


「三度目も抱く。だが、抱いたまま歩く」


「うん」


 ふたりの短い返事のあと、沈黙が優しく降りた。沈黙は今日、刃ではない。布だ。布の上に、夜の最初の灯が落ちる。灯は揺れ、影を作り、影は休みを作る。


 ——その静けさの底に、芽がある。


 黒檀の短剣はまだ見つからない。だが、刃より先に芽が出る。反逆の芽。芽は誰かの心の土で発芽し、やがて誰かの手の中で育つ。育つ芽を摘むのは、刃ではない。器だ。水だ。陽だ。影だ。名だ。——セレスは名簿の端に小さく「芽」と書き、丸で囲んだ。囲んだところで芽は止まらない。止まらないものを、どう扱うか。治癒師は、芽の扱いを知っている。刈り取らない。矯めない。絡まないように、支柱を置く。


 城の上を、夜の風が渡った。封鎖は解かれ、封鎖は残り、寝所の扉は守られ、王の外套は椅子の背で冷えた。近衛は交代で立ち続け、ルーメンは数字と符丁の海を泳ぎ、ガルドは塔で風に吼え、セレスは医務室で湯を沸かす。湯気は薄く、だが長い。薄いものは、長く残る。


 遠く、鐘楼ではない小さな鈴が鳴った。交代の合図。鈴は“王殺し”の物語にはならない。物語にならない音は、生活の音だ。生活の音が続く限り、刃は刃でしかない。刃に物語を与えないこと——それが、今夜、彼らの勝ちだ。


 セレスは灯をひとつ落とし、名簿の最後の行に小さく書き足す。


——黒檀、未発見。象徴無効化、進行中。刺客、鎮圧。負傷軽微。置き水、準備。


 最後に、彼女は自分の胸に手を当て、午前の戦いで強くなった鼓動が、夜に向けて静かな歌に変わるのを確かめた。歌は、声にならない。声にすると、弱点になる。声にしない歌は、歩くための鼓動だ。


 抱き止められても、歩く。

 抱き止める者も、歩く。

 刃は象徴、象徴は物語、物語は人——その順を、今夜は逆にしない。まず人だ。人が歩く。歩けば、刃は追いきれない。


 反逆の芽は、たしかに城のどこかにある。だが芽は、光のほうへ伸びる。光は、彼らの側にある。少なくとも今夜は。少なくとも、今は。翌朝、誰かの掌に新しい土の感触が残っているだろう。そこに水を置く仕事が、セレスにはある。そこに杭を打つ仕事が、ガルドにはある。そこに風を読ませる仕事が、ルーメンにはある。そして、そこに影を与える仕事が、王にはある。


 夜が深くなる。城の息が長くなる。短剣が暗闇で光を飲むなら、彼らは暗闇に目をならす。目が慣れれば、芽が見える。芽が見えれば、選べる。——刈るか、支えるか。


 セレスは最後の灯を落とした。落とす前に、湯を小さく沸かし直し、窓辺に茶碗をひとつ置く。置き水。夜の合図。扉の下に紙が滑るかどうかを待つのではなく、紙がなくても、湯は用意される。用意された湯は、言葉の出入口を温める。温まった出入口から、明日の朝、誰かの「歩く」がまた出てくる。


 黒檀の短剣は、まだ見つからない。

 だが、象徴は、今夜だけは、刃になり損ねた。

 そして、反逆の芽は、見つけるべきものとして、やっと彼らの視界に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る