第13話 近衛隊長ガルドの過去

 霧雨が街の石畳を軽く叩いていた。雫は夜の灯を一度だけ抱いてから砕け、路上に細かな星を散らした。鐘楼は沈黙を保ち、門楼の松明が風の向きを量るように揺れている。葬送の夜だ。城壁の内外、同じ高さの静けさが溜まり、どこにも流れなかった。


 城外の小さな墓地で、近衛の若い兵がひとり埋葬された。名はエリン。二十に満たない年だという。瘴気の残る境で負傷し、帰城した翌々日に容態が崩れた。戦傷が表の原因だが、誰もが知っている。見えない別の刃が、彼の命を短くしたのだと。武勲は刻まれ、死因は口を濁す。それが戦の書き方だ。


 土の匂いが濃い。祈りの言葉は短く、兵の靴音は長い。棺の蓋に置かれた鉄の章は雨で曇り、刻まれた名だけがやけに鮮明で、やがて布で拭われた。近衛隊長ガルドは、最後まで棺の縁から手を離さず、指の骨で木を覚えるように触れていた。彼の指は剣を握るための形をしているが、別の時は扉を押し開くための形にもなる。今日は「離すための手」だった。


 葬列が解散すると、人々は静かに散り、誰もが知っている酒場へ向かった。葬送の夜は、城の規則に反して酒がよく出る。酒は記憶を薄めるためのものではなく、流れを作るためのものだ。涙の行き先を作ってやる。怒りの行き先も作ってやる。行き先のないものは、人を傷つける。


 セレスは医務室で包帯と針を片づけ、白衣の袖口を指先で整えた。さきほどまで亡骸に施した最後の処置——顔の筋をなでて戻すこと、唇を軽く合わせること、手に握られた剣章を胸に置くこと。そこに技術は要らない。ゆっくりと、なだめることだけが必要だ。彼女は小さく息を整え、外套を羽織って夜の気配のほうへ歩き出した。向かう先は、ガルドがいる場所だと、もう身体が決めている。


 酒場斧と帆布は、いつもより静かだった。骨組みの太い梁が天井に並び、柱の節目に灯が置かれ、湿り気を帯びた木の匂いが茶色い会話を吸い込んでいく。兵の笑いは低く、盃は重く、卓上にはパンが残り、肉は早い。誰かの肩が濡れ、誰かの袖が赤い。赤は血ではない。香辛料の色だ。そう言い合うための赤だ。


 カウンターの端、壁に背を預ける影。ガルドは上着を肩から滑らせ、片腕でまとめて持ち、もう片方の手で杯を握っていた。握るというより、支える。彼の耳の下が赤く、目の奥は眠らない夜の色をしている。近づくセレスに気づくと、彼は短く顎を動かした。それが挨拶であり、合図だった。隣の席が空く。空くのは偶然ではなく、近衛の暗黙の気配りだ。そこに彼女が座ることは、皆が良しとする秩序のひとつだった。


「飲むか」


 ガルドが訊く。セレスは首を横に振った。「半分だけ」


「半分は飲んでる」


「半分飲んで、半分残すのがいい」


 店主が黙って木の杯を置く。蜂蜜酒。甘いほうがいい夜だ。甘さは、刃の鈍り方を遅くする。


「エリンは、よく笑う子だった」ガルドが独り言のように言った。「剣を持つときも、笑うんだ。笑えば刃先がみえる、と信じてた」


「見えた?」


「見えてた。俺より——見えてた」


 セレスは杯の縁に指を当て、蜂蜜の粘りを拭い、指についた甘さを舌先で消した。言葉を急がない。急いだ言葉は、骨に入らない。


「王は」ガルドが続ける。「誰の手も借りない。花嫁さえ、例外じゃない」


 店内の音が、そこだけ薄くなった気がした。近衛の誰もが耳を貸している。遠くで笑い、近くで泣くふりをして、耳だけがこちらへ向く。酒場の梁に乗った言葉は、梁の年輪に埋もれ、のちに誰かの思い出で見つかる。


「借りないのなら、与えるしかない」セレスは静かに返した。「助けられたくない人に、助けは届かない。だから、助けは——置いていく」


「置いていく?」


「水のように。喉が渇いた時に、その人が自分で飲める場所に」


 ガルドは笑わないで笑った。頬の筋肉が動かず、目の縁だけが温かくなるときの笑い方だった。


「置いていく、か」彼は杯を傾け、空にする勢いで止めた。「俺は、置いていかれた経験がある」


 セレスは彼の横顔に目をやった。深い傷跡が一本、耳たぶの上から顎の下へ走っている。古い瘢痕だ。剣ではない。炎の舌がなめた痕に見える。そこに触れる指は、今夜はない。


「昔話をしても、死者は喜ばねえか」


「死者は、話を好むよ」セレスは言った。「彼らは話の中で、もう一度立ち上がれるから。立ったままで、眠れるから」


「立ったまま眠るのは、近衛の技だ」ガルドが杯を置いた音が、木の腹に沈む。「——王が若かった頃の話だ。俺がまだ副官で、肩幅も今より狭くて、頭が熱かった。瘴気の濃い境で、王はひとりで突っ込んだ。あれは突撃じゃなく、確かめに行ったんだ」


「確かめる?」


「瘴気が、どれだけ人を奪うか。自分の中に、どれだけ入ってくるか」


 酒場の灯が、風で一息揺れた。ガルドの声は、その揺れに合わせるように低くなった。


「俺は止められなかった。止めたつもりで、止めなかった。王は自分の身体に縄をかけ、その縄の端を俺に渡した。『もし俺が戻れなかったら、引け』と。引いたら切れる縄を渡すやつがどこにいる」


「戻ったの?」


「ああ。戻った。だが、戻ったのは身体だけだ。目が空洞になって、喉の奥が獣の音で、手が——俺の喉に来た」


 カウンターの中で、店主の手が止まった。火の上の鍋が、慎ましく鳴った。


「俺は王を殴った。殴りながら、殴ってるのは王じゃねえと、自分に言い訳しながら。血が出た。王の、俺の。俺が倒れて、地面が近かった。そこへ、ほら、影みたいなやつが来てさ」


「影?」


「白衣の影だ。顔は覚えてねえ。瘴気は匂いも光も食う。覚えているのは、手だけだ。薄い傷だらけの指で、王の口元をおさえて、胸骨を押して、俺には『見てろ』と言った」


 セレスの胸の内に、どこか遠い鐘の余韻のようなものが広がった。白衣の影——無名の治癒師。いつだ。どこだ。彼女の記憶にも、似た場所がある。世界の縁。灰色の風。ひとりの男の喉に宿った獣の音。だが、記憶は薄い。あるいは、誰か別の治癒師の手と、自分の手を、後から重ねたのかもしれない。


「治癒師は言葉が短かった」ガルドは続ける。「『戻ってこい』って、ただそれだけ。王の額に手を当てて、胸の上で数を数えて、俺の手を借りなかった。俺は縄の端を握ったまま、地面に縫い付けられてた。縄は切れなかった。王が戻ってきたからだ。目に色が戻った。呼吸が人間になった」


 セレスは蜂蜜酒を少しだけ口に含み、舌の裏で甘さを溶かした。「その治癒師は、名を告げなかったの?」


「名を訊かなかった。訊ける雰囲気じゃねえ。王の手がそいつの手を取った。そいつは首を振って、それで去った」


「王は——覚えてる?」


「覚えているさ。だが、王は言わない。王は、自分の戻り方を、他人に預けたと認めるのが嫌いだ。嫌いって言葉も違うな。……怖いのかもしれねえ」


「怖い?」


「手を借りると、手が必要になる。必要になると、そこが弱点になる。弱点になると、守らなきゃいけなくなる。守れないと、壊れる」


 セレスは黙って頷いた。彼女の胸の奥で、何かが噛み合い始めている。音はまだしない。噛み合えば、音がする。合図のための音だ。王と自分の間にある歯車は、ずっと空回りしていたのか。空回りしていなかったのか。確信は持てない。確信は、いつも最後に来る。


「なあ、花嫁どの」ガルドは珍しく敬語を使った。「王は、誰の手も借りねえ。花嫁も例外じゃない。だが王は、誰かの手を置いていく場所は欲しがってる。俺には、それが見える。なのに、言えねえ」


「言ったら、あなたが傷つくから?」


「言ったら、王が傷つく」


「じゃあ、言うのは私の役目だね」


 ガルドは、杯を持ったまま頭を垂れた。眠気が、彼の背骨に手をかける。葬送の夜は、いつも背骨から眠らせる。背骨が眠れば、肩も、腕も、指も眠る。彼の指はまだ、エリンの棺の縁の硬さを覚えている。


「エリンの母親に会ってくる」ガルドが言った。「でも今夜は行かない。今夜行くと、言葉が刃になる」


「明日の朝、最初に行くといい」セレスは勧めた。「朝は、刃が鈍い」


「鈍い刃で言えることがあるか」


「あるよ。鈍い刃は、刺さらない。押せる」


 店の戸口に影が立った。夜の外套を濡らし、髪に雨の形をいくつも残している。アレクシスだった。目だけが乾いている。王は目を濡らさない。濡らさないことで、見失わない。彼は店内を横切ると、迷わずガルドの背後へ回り、軽く肩に手を置いた。


「隊長」


 ガルドは背筋を伸ばそうとして、半分までで止まった。「陛下……」


「来い。今日は歩いて帰れない」


「歩けます」


「歩くな」


 アレクシスは屈み、躊躇なくガルドの腕を自分の肩に回した。近衛の男たちが、視線を下げる。目を逸らすのは礼ではない。見守るのが礼だ。王が部下の重さを引き受けるのは、王の健やかなふるまいだ。健やかさは、宮廷の礼式より古い。


「部下に説教されるとは」アレクシスは半ば冗談の声音で言った。「歳を取ったらしい」


「陛下が歳を取ったら、俺は木になる」ガルドが呟く。「陛下が風なら、俺は杭になる」


「杭は折れる」アレクシスは穏やかに返す。「折れたら、繕う。誰かが繕う」


 セレスは席を立った。外套の襟を整え、二人の前に回って軽く会釈した。酒場の灯が、彼女の頬の色を柔らかくする。


「送ろうか?」


「頼む」アレクシスは短く言い、ガルドを背負い直した。彼の肩に、近衛の重量が移る。重さは言葉より確かだ。王は、その確かさで夜を歩く。


 店を出ると、雨は糸のように細くなっていた。糸は、ほどける前に結び目を作れる。三人は城門までの短い道を、足並みを合わせて進む。道の脇にある露店の棚は布で覆われ、布は雨音を拾って、夜の鼓動のように微かに震える。


「セレス」アレクシスが呼ぶ。彼が彼女を名で呼ぶ時、それは戦場で旗が振られるのと同じ意味を持つ。合図。方向。集合。「……さっきの酒場での話は、聞かれていると思うか」


「近衛は耳がいい」


「だろうな」


 ガルドが背で笑った。「陛下のご冗談は寒い、って言う人だ。あいつらは耳を閉じない」


「俺が言われたのは、今日のアストラムの坊にだ」アレクシスの声に、微かな熱が混じる。「冗談は寒かった」


「言った本人が言うと、温かい」


 城門の影が近づく。見張りの兵が敬礼し、門番が鎖を緩め、三人は濡れた橋を渡る。内側の空気は外より乾いていて、鉄と灯の匂いが鼻をくすぐる。廊下を進む時、ガルドの頭がアレクシスの肩に一度、二度、静かに当たった。眠気が彼を小さくしていく。


「寝かせる」アレクシスが言う。「セレス、医務室は?」


「開けてある」


「なら、先に」


 医務室の簡易寝台にガルドを横たえると、彼は起き上がろうとして、起き上がれず、しかし手を伸ばし、セレスの手首を掴んだ。手の温度は高く、力は弱い。


「花嫁どの」


「セレスでいい」


「セレス。……王を、置いていってくれ。手を。水のように」


 彼はそれだけ言うと手を離し、深く眠った。胸の上下は穏やかで、口の端がほんの少し上がっている。眠りに落ちる者は、最後に必ず何かに頷く。


 セレスはアレクシスに向き直った。アレクシスの外套から、雨の匂いが消えかけている。彼の目には、酒場の灯ではなく、城の灯が映っている。灯は数が減ると、ひとつひとつの輪郭がはっきりする。今夜は輪郭が欲しい夜だ。


「私も、あなたに説教したい」セレスは言った。言葉は、吐き出す前に喉の中で形を確かめられ、骨の形に合うように削られる。「準備は、できてる」


「説教は、嫌いじゃない」


「嫌いじゃない、と言うときのあなたは、嫌いだよ」


 アレクシスは笑った。笑いは短く、だが壊れ物に布をかけるときのように丁寧だった。「では、聞く姿勢だけは整えておく」


「姿勢だけじゃ、足りない」


「知ってる」


 二人は医務室を出て、隣の小部屋に入った。そこは書類と地図と、使いかけの薬草束が混じっている。セレスの字が散らばり、ルーメンの赤い修正が混ざり、王の短い署名が点のように残る。机の端に、戦災孤児の名簿が置かれている。そこには今日、新しい名が加わっている。エリンではない。エリンは孤児ではない。だが、名簿は彼の死にも触れている。彼の分の空白が、紙のどこかに広がる。


「王」セレスは呼びかける。当然だが、彼女は公の呼称を選ばなかった。「手を借りないことは強さじゃない。手が必要になることが怖いのは、弱さじゃない。誰だって怖い。怖いから、置いていく。あなたの傍に、手を置いていく。水を置いていく。あなたが飲む気になったとき、飲めばいい」


「俺は喉が渇いていないと言ったら?」


「嘘だね」


 アレクシスは天井の梁を見上げた。梁は『斧と帆布』のそれより細く、しかし木目は同じ向きに走っている。「俺はあのとき、戻してもらった」彼は唐突に言った。ガルドの語りの続きを、別の角度から持ってきた。「瘴気の中で境いが崩れ、俺は俺でないものになりかけ、誰かが俺の胸骨を押し、喉の獣に首輪をかけて、引き戻した。名は言わなかった。名を訊かなかった。俺は、名を持たないままに借りを作った」


 セレスの鼓動が一段、強まった。噛み合いかけていた歯車が、いま、薄い音を立てた。きしむのでなく、咬み合うときの小さな「はい」という音。


「借りは、返すもの」


「返し方がわからない」


「返すより、回せばいい」


「回す?」


「あなたが誰かを戻す。あなたが誰かの胸骨を押す。あなたが誰かの喉の獣に首輪をかける。——王だからじゃなく、あなたが戻されたから」


 アレクシスは黙って頷いた。彼の頷きは重くない。重くしてはいけないと、彼は知っている。重い頷きは人を押し潰す。軽い頷きは、人の背を押す。


「それでも」彼は言った。「俺は、ときどき、怖い」


「怖いことを、私に言って」


「言うと、弱くなる」


「言うと、弱さが外に出る。外に出た弱さは、風に当たって乾く」


 セレスは机から小さな羊皮紙を一枚取り、墨壺の蓋を開けた。そこに短い字を書いた。


——『置き水』


 紙片を折り、アレクシスの掌に置く。「これは合図。あなたが誰にも言えない夜に、医務室の扉の下にこの紙を滑らせて。私は起きる。起きて、黙って座る。あなたが喋るなら聞く。喋らないなら湯を沸かす」


「湯を沸かす?」


「湯を見てると、言葉が浮かぶ」


 アレクシスは小さく笑い、紙片を革の内ポケットにしまった。「置き水、か。……いいな」


「いいよ」


 廊下から、寝息が洩れてきた。ガルドのものだ。深い湖底に届くような、重い寝息。彼は夢の中で、エリンの笑い声を見つけられるだろうか。笑い声は見るものじゃない。聴くものでもない。触るものだ。夢の中でなら、触れる。


「明日の朝」セレスが言う。「最初にエリンの母に会いに行くのは、ガルドと私」


「俺は?」


「あなたは来ない」


「命令か?」


「お願い」


「なら、従う」


 セレスはふっと息を吐いた。「そして、夕刻に時間を。——説教の続きがある」


「俺は、説教を嫌いじゃない」


「だから、その言い回しが嫌いだってば」


 二人は同時に笑った。笑いの後、夜の静けさが戻る。静けさは、誰にも所有されない。だから公平だ。公平であることは、時に残酷だが、今夜は優しかった。


 セレスが戸口に向かうと、アレクシスが彼女を呼んだ。「セレス」


「なに」


「ありがとう、と言っていいか」


「言って」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 短い言葉が、部屋の四隅に杭のように刺さる。杭は布を張るためにある。布が張られれば、その下に休める。嵐の夜も、布は役に立つ。


 セレスは医務室の灯を少し落とし、ガルドの寝顔に薄い毛布を掛けた。大きな男の眠る顔は、不思議と、少年のようだ。彼の睫毛の影が頬に落ち、小さな皺が口角に集まる。夢の中で、彼は誰かに説教されているかもしれない。王か。エリンか。無名の治癒師か。あるいは、彼自身。


 夜半過ぎ、雨はやんだ。屋根の樋から最後の雫が落ち、石に吸われる。鳩は眠り、犬は眠り、街の灯が一つずつ目を閉じる。鐘楼は沈黙を守る。沈黙は誓いと同じで、鳴らさないことに力がある。


 机に戻ったセレスは、名簿の余白に小さな記しを加えた。エリンの名ではない。彼の小隊の仲間の名前の横に、点をひとつ。点は、言葉にできない種類の痛みの印だ。点が並べば、やがて線になる。線は道になる。誰かがそこを帰る。


 彼女は羊皮紙の別の束——共同療養所「橋の庭」設立案の二枚目に、今日の夜のことを短く記す。


——近衛隊長ガルド、部下エリン葬送。隊長、王の「戻り」の話を断片的に語る。無名治癒師の手の記憶。王、部下を背負う。置き水の合図を決める。


 最後に、彼女は自分の胸に触れた。そこに噛み合い始めた歯車が、小さく回っている。回る音はしない。だが、回っているものは、熱を生む。熱は、夜の冷えをわずかに退ける。


 明け方、最初の鳥が短く鳴いた。鳴き声は細く、しかし真っ直ぐで、曇った空に線を引く。線はすぐに消えるが、引かれた事実は残る。セレスは立ち上がり、湯を沸かした。湯気が上がる。湯気を見ていると、言葉が浮かぶ。浮かんだ言葉を、彼女は一つだけ拾った。


——「戻る」


 戻るためには、誰かが呼ぶ。呼ぶためには、名前がいる。名簿の文字は黒く、朝の光は白く、二つは混ざらない。混ざらないから、読める。


 彼女は外套を羽織り、扉を開けた。廊下の向こうで、アレクシスが壁にもたれ、目を閉じていた。眠っていない。眠らない夜の目だ。彼は目を開け、ほんの少し顎を上げた。その合図で、二人は歩き出した。向かう先は、エリンの母の家。扉を叩く手は、刃ではなく、糸のほうだ。糸は、切れる。切れるなら、結べばいい。結び目は、目に見える。見えるものは、信じられる。


 城の外では、新しい雲が低く流れている。憎悪の鐘は鳴らず、席順の絨毯は巻かれ、王の外套は乾く。近衛隊長は眠り、目覚め、明日の夜にはまた酒場に現れるだろう。彼は言う。「王は誰の手も借りない」。そして、彼自身が王の手を借りる。借りることは恥ではない。返すことだけが礼ではない。回すこと——それが、彼らのやり方になる。


 セレスは胸の奥に置かれた小さな歯車の回転を確かめながら、歩幅を王に合わせた。説教の準備は整っている。言葉は刃の代位ではなく、縫い針の代位として。皮膚を裂くためではなく、傷を閉じるために。彼女は今夜、ひとつの決心を縫うだろう。王に、ガルドに、エリンの母に、そして、過去の自分にも。


 戻るための糸は、もう手の中にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る