第三章〜優の崩壊、再び共犯者に

携帯が鳴った。


優専用の着信音。

画面に表示されたのは、優の名前だった。


最後に会ったのは、あの日。

再会を果たした、優の誕生日——

あれからもう、2年近くが経っていた。


彼からのメールが途絶えたのは、その年の10月。

それ以来、何の音沙汰もなかった。


「もしもし……優?」


「ひかり、ごめん……」


かすかに震えた声。

懐かしいはずなのに、どこか遠く感じられた。


「ごめん……ずっと連絡できんかった」


「……うん。元気やった?」


精一杯、穏やかに返したつもりだった。

けれど、胸の奥に押し込めていた想いが、静かにざわついた。


「元気って……言えるんかな。

何もかも置いてけぼりにしたままで……

ほんまにごめん。

ひかりにだけは、ちゃんと話さなあかんって思ってた。

11月に連絡するって言ってたのに……」


「心配しかなかったよ。

でも、私は信じてた。

このままじゃないって……

何かあっても、優なら必ず連絡くれるって。

優?何があったん?……何があったん?」


しばらく沈黙のあと、彼はぽつりと呟いた。


「……もう、しんどい……」


その言葉に、胸の奥がざわついた。


「待って。しんどいって、え、今……どこにいるの?」


「現場……」


「現場?営業先の?」


「違う……今の仕事の現場……」


「……今の仕事?」


「ごめんな、ひかり……」


優が泣いている。

あの優が、泣いてる。

間違いない。


「優……今どこ?ちゃんと教えて」


「○○市」


「……○○県の、○○市?」


「そう」


その瞬間、私の中で何かが決まった。


「わかった。今から行く」


息子のことが、頭をよぎった。

一緒には連れていけない。でも……どうすれば?


....母にお願いしよう。


そのために私は、

これまで少しずつ母と息子の距離を近づけてきたのではなかったか。


そう。

これは“あの時”のため。そして”この時”のため。


そんなこと、

ずっと前から、

心のどこかでわかっていた。


静かに、でも確かに

悪魔の私が、囁いた。


母に電話をかけた。

「親友が倒れたって知らせがあって……遠方やし、連れて行くわけにもいかなくて……お父さんに頼もうと思ったけど、今日は接待ゴルフで泊まりやって」


息を詰めながら、理由を並べた。

理由ではない、口から出まかせの嘘ばかり。

母は何も聞かずに「いいよ、着替えだけ持ってきて」とだけ言ってくれた。


すぐにタクシーを呼んで、息子を母のもとへ預けに行く。

玄関先で「気をつけてね」と、変わらない声で送り出してくれた母の背中に、小さく頭を下げた。


でもお母さん、ごめんなさい。

また、ひとつ嘘を重ねてしまいました。

いつかすべてを話す日が来るのだろうか。

それとも、これもまた、記憶の奥にしまい込むのか。


息子を預け終え、待たせていたタクシーに飛び乗った。

行き先は、○○駅。


14時30分発の○○行き。

ギリギリだったけど、どうにか間に合った。


席に着くなり、優に電話をかけた。

……出ない。


もう一度かける。

……出ない。


メールを送っても、返信はない。


どうして、出てくれへんの……?

あのときの「しんどい……」って声が、頭の中で何度も反響する。

お願いやから、ゆっくりでいい、出て。

ただそれだけでいいから。


焦りと不安と祈りが混ざった指先で、

私は、何度も、何度も、何度も番号を押した。

たぶん、百回はかけたと思う。


体は確かに○○市に向かっているのに、

心だけが、ずっと同じ場所に置き去りになっている気がした。


電車が一つ前の駅を過ぎたころ、

震える指で、もう一度だけ電話をかけた。


プルルル……

その音のあと、ようやく、つながった。


「優! 何回もかけたのに……今どこ!? ○○市のどこ?もうすぐ着くから、待っててよ!」


「ひかり……ごめん……」


「謝らんでいいから!

今、どこにおるん?ちゃんと教えて」


「……○○市の、〇〇」


「わかった、行くからね!」


言い切った瞬間、電話はふっと途切れた。

それでも、たったひとつだけ確かなことがあった。


——私は今、あの人の声を聞いた、あの人に会いに行ってる。

そして、心の奥で強く願っていた。

「間に合って、どうか……間に合って」



初めて降り立つ○○駅。

見慣れない風景が広がっていたけれど、

私の心の中には、たったひとつの目的地しかなかった。


タクシー乗り場の案内を見つけて、階段を降りる。

ロータリーに出て、深呼吸をひとつ。

急ぐ気持ちを抑えて、タクシーに乗り込んだ。


行き先を伝えると、運転手さんは言った。

「10分もかかりませんよ」


もう一度、優に電話をかけた。

……出てくれた。


「今、タクシー乗ったからね。もうすぐ着くから……着くまで電話切らんといてよ」


優は、何も言わなかった。

でも、電話を切らずにいてくれた


やがて、運転手の声が静かに届いた。

「はい、着きましたよ」


お金を払って、タクシーを降りる。

鼓動の速さを確かめるように、一歩ずつ足を進めた。


——優が、そこにいる。


「優?聞こえてる?着いたよ。どこ?」


電話の向こうが一瞬だけ静まり返る。

そして、少しかすれた声がようやく届いた。


「ひかり。見えた。ここに、いてる。」


その声に胸が詰まりそうになった。

切なくて、どこか弱々しくて。

それでも、たしかに“優”だった。


ここまで来た。

そう思った瞬間、込み上げる涙を堪えきれなくなりそうだった。




「優!優、優っ!」名前を何度も呼びながら駆け寄った。

抱きしめたその身体は、あまりにも細くなっていて、言葉を失った。

かつての筋肉質な優ではなかったけれど、温もりはちゃんとそこにあった。


「ほんまに、来てくれたんやな」


「何言ってんの。“行く”って言ったやん。

来ないわけないやろ。」


その瞬間、優の全身からふっと力が抜けた。



「優?こんなことって、どんなことなん?

うん、大丈夫。まずは、落ち着こう。どこかで話そ?な?」


「車、取ってくるわ。」


「待って。一緒に行こ?」


優の手を取ると、その手がかすかに震えていた。


車は、砂利の敷かれただけの空き地に停まっていた。あの時のままの車だ。


「優、この車、保険入ってる?」


「証券、そこ、ダッシュボード」


26歳以上補償の証券を確認して、小さく頷く。


「私が運転するから。」


「え、なんで?」


「いいから!乗って」


エンジンをかけて、ゆっくりと走り出す。

目的地は決めていない。ただ、人目につかず話ができる場所を探していた。



まずは何か、お腹に入れないと。

途中のコンビニに立ち寄り、優の好物を思い出しながら選ぶ。


おにぎり、パン、ファンタグレープ、ポカリスエット、お茶。


全部ひとつずつ手に取って、レジを済ませ、車へ戻ると

優は助手席でじっと前を見つめていた。


「優?食べたくないならいいよ。

でも、お茶とポカリ、ファンタグレープもある。好きなの、飲んで」


優は何も言わなかった。何も選ばず、ただ遠くを見ていた。

私もそれ以上何も言わなかった。


無理に顔をのぞき込んだり、話そうともしない。

ただ、そこにいる。その空間を、優と一緒に静かに過ごす。


優はまだ私を見ていない。

でも、来てよかった。


優?もう大丈夫やから。私がいてるからね。


心の中でそう語りかけた。

まだ何も始まっていない。でも、ここからまた始めるために。私は来た。


もう、この際だからいいや


そう思ってたどり着いたのは、一部屋ずつに駐車スペースがついた、少し古びたホテルだった。

建物の佇まいは年季が入っていて、だけどその無骨さが逆に安心感を与えてくれる。

今はもう、何も気にしたくなかった。

ただ、「静かに話せる場所」がほしかった。


車を停めて、助手席に声をかけた。


「優、降りよっか」


「ごめんな」


「いいから、入ろう」


彼の手をそっと取り、部屋へ向かう。


そこは、昭和のドラマに出てきそうな、くたびれた一室だった。

どこかカビ臭くて、けれど懐かしいような、心の奥をくすぐる匂いがした。


「優、座って。しんどかったら、寝転んでもいいよ、寝てもいいから」


そう言うと、優は何も言わず、ふらりとソファに腰を下ろした。

目は虚ろで、ただ床の一点をじっと見つめている。


「たばこ吸う?」


「…..」


「灰皿、ここ置くね」


私はそっとテーブルの端に灰皿を置いた。

そして言葉もなく、彼の隣に静かに腰を下ろす。


ぬるいような沈黙が、今は妙に心地よかった。



何も言わない。

何も話さない。

何も答えない。

それでも、それでもよかった。

そこに、優がいる。それだけで、十分だった。


本当は、聞きたいことなんて山ほどあった。

なにがあったん?

どうして?

なぜ、何も言ってくれんかったん?

あの時、何を思っていたん?

私のことは?


でも、そのとき私の中で、はっきりしていたことが一つだけあった。


やっぱり、優に、何かがあった。


ずっと感じていた。言葉にできない”何”が、彼の中にあると。

そして今、その”何か”にようやく触れたとき、

私の中に湧き上がってきたのは


怒りだった。


混じりけのない、真っ黒な怒り。

どうしようもない無責任さに対する、憤り。

そして、強い嫌悪感。


感情が先にあふれ出し、言葉なんて追いつかなかった。


優が私の名前を呼ぶ声さえ、遠くに霞んでいた。


私は肩を震わせながら、ただ、嗚咽した。

止まらなかった。

苦しくて、悔しくて、哀しくて、胸が張り裂けそうだった。


「優、苦しかったよな

もう、無理しなくていいよ」




「…..」


優と再会したのは、2年前の、彼の誕生日だった。

それから程なくして、優は会社で大きなプロジェクトを任された。若手の中での抜擢。まさか自分が、と彼自身が一番驚くような出来事だった。


そこからの日々は、まさに怒涛だった。

家と会社を往復するだけの生活。

休む間もなく、ひたすら走り続ける毎日。

家に帰れば妻がいて、幼い娘がいて、家族の時間があった。けれどその時間さえも、彼にとっては“癒し”ではなく、“責任”でしかなかったのかもしれない。


私たちの再会から1ヶ月ほど経った、7月のある日。

妻が言い出した。


「○○市に帰りたいの。親の近くに家を建てて暮らしたい、お姉ちゃんも遠方に嫁いだし両親もこれから高齢になってくると心配。面倒見ながら暮らしたい。土地もあるから」

理由は明確だった。

優の収入が上がった今なら、住宅ローンが通る。

親も安心するし、今なら育児も手伝ってもらえる。


でも、そんな計画は非現実的だった。

優は新しいプロジェクトの真っ最中だった。

ここで結果を出せば、ポジションも収入も、今後の人生も安定する。

まだ、何もかもが始まったばかりだった。


そして何より

○○市から大阪への通勤なんて、3時間もかかる。現実的に不可能だった。

会社もその判断を認めるはずがなかった。


だが、問題は通勤の距離だけではなかった。

「ローン審査が通ったら、会社を辞めて」

「○○市で仕事を探して」

「家を建てて、一緒に暮らして」

そう妻は言い切った。


しかも話はすでに進んでいた。

施工会社も決まり、土地も親が提供することになっていた。

間取りは、6LDK。

あまりにも現実味のない話に、優は頭を抱えた。


「非現実的すぎる」

「俺はこの会社に入るために、どれだけ努力してきたか

祖父の後輩として、この会社でやっていくこと、自身の人生、

その大切な道を、今さら辞めるなんて、できるわけがない」


だけど、彼女は一歩も引かなかった。


「じゃあ、娘と二人で死ぬ」

「もう、帰らない、でも一生別れないから」


そう言って、本当に家を出ていった。


その日から、地獄のような日々が始まった。

「死ぬ」仕事中にも、そんな言葉がメールや着信として鳴り続けた。

昼夜問わず、電話が鳴る。

会議中、車の中、プレゼンの最中さえも。


「今から川に入る」

「娘を連れて死ぬから」


そう言われれば、無視なんてできるわけがない。

頭では「脅し」だと分かっていても、「もしかしたら」が拭えなかった。


優の心は、毎日、少しずつ、静かに削られていった。


○○市拠点を移した以上、大阪での仕事を続けるなんて到底無理だった。

もし会社に知られれば、一発でアウト。

バレた時点で、それこそ命取りになる。

もうすでに、辞める以外の選択肢はなかった。


優は、大きなプロジェクトの途中で職場を去った。

「一身上の都合により退職」

それは、彼が積み上げてきたキャリアが音を立てて崩れていった瞬間だった。


優がぽつりと語り始めた言葉が、私の胸を締めつけた。


「俺が一番つらかったのはな、

ひかりと再会して、こんなことになってもうて、

それをずっと、ひかりに言えんままでいたことや」


彼は遠くを見つめながら、静かに言葉を紡いでいく。


出会った頃、私は彼の結婚に怒りをぶつけていた。

まるで自分のことのように、強く。


「そんな結婚、絶対おかしい。

“死ぬ”って脅されて結婚しても、惨めなだけやん。

お情けで結婚してもらって、お互いそれで幸せになれると思ってるの?

幸せにしたい、なりたいって、本気で思えてる?2人とも、どうかしてる!!」


あの時の私は、烈火のごとく怒っていた。


優は、静かに続けた。


「今回も、あの時と全く同じやった。

だから、ひかりには言えんかった。

今度は、距離までできてもた。

ほんま、最悪やろ」


本当は大事にしたいと願っていたのに

結果として私はまた、彼に背を向けられるようなかたちになっていた。


「ようやく気持ちに正直になれた時には

もう、連絡できる状態じゃなかった。

ほんまはな、ずっと話したかった。

でも、話せへんかった。

こんな情けない俺のこと、ひかりには知られたくなかったんや。一番大事に想うひかりに嘘ついてる自分が許せんかった」


どれだけ想っていても、どれだけ会いたくても、

優は言葉を飲み込んでしまっていた。


自分を守るためじゃない。

きっと、私をこれ以上、傷つけないために。


でも、その“優しさ”こそが、

私を一番苦しめていたのだった。


「またやって言われたら、まぁ、それまでや

会社も後ろ足で砂かけて辞めて、

“死ぬ”ってまた脅されて、

何もかも、流されるように決まっていって。でもな、ひかりにだけは、ほんまは誰よりも正直でいたかったんや」


声がかすれていた。

悔しさ、諦め、怒りそのすべてがにじむような声だった。


私は黙って、彼を見つめた。

言葉を差し挟むことなく、ただその想いを全部、受け止めた。


「でも、ごめんな。俺、できんかった」


少し間をあけて、ぽつりと続けた。


「仕事もな、○○市みたいな田舎やと、そう簡単に見つからん。

そしたら、嫁と嫁の親が職場を見つけてきたんや

それがな、産廃と汲み取りの仕事やってん」


予想もしていなかった業種。

だけど、選ぶ余地なんてどこにもなかった。


「でも、給料はな。意外とええねん。

大阪時代と、ほとんど変わらへん。それ以上に貰えてる」


そう言って、優は少し笑った。

その笑みは、どこか遠くて、痛々しかった。


言い訳なんかじゃなかった。

事実を、ただ淡々と語る優の目は、どこか遠くを見つめていた。

きっと、私の言葉を思い出しながら、自分自身の心を置き去りにして、日々をやり過ごしていたんだろう。


「でもな、この仕事に向き合うことできんかったんや」

言葉を選びながらも、もう隠すことも、美化することもせず、彼はただまっすぐ現実を語った。

「理不尽なことばっかりで活路なんか、見出せへん。成し遂げることも、ない」

毎日ゴミ処理して、糞尿処理して世の中の誰かの役に立ってるかもしれん。でもな」


誇れる何かがあれば、少しは救われたのかもしれない。

でも優の目に映っていたのは、空っぽの毎日と、すり減っていく自分だった。


「年収1000万近くあっても、小遣い2万円や」

「タバコ買うたら1万円残るか残らんか、情け無い都落ちや」


自嘲とも、叫びともつかないその言葉に、胸が締めつけられる。

声には出さなかったけど、「そんなふうに言わないで」って、私の目が語っていた。


「2人目欲しいってせがまれて。子作りマシーンや」

そのとき、優の目にほんの一瞬、諦めじゃない怒りがにじんだ気がした。

「妊娠したらもうセックスしたくないから、寝室分けて、言われたわ」


それは、男としての尊厳を打ち砕くような言葉だった。

それでも彼は、黙って受け入れた。

家族のために、“ちゃんとした父親”を、どこかで演じ続けていた。

でももう、その役を続ける気力も、余裕も、残っていなかった。



「優、話してくれてありがとう。

そして今、こうして目の前にいてくれてありがとう。

辛かったよね。情けなかったよね。誰にも言えんと苦しかったよね。

でもさ、ここに私、いてるやん。

電車乗ったらすぐ来れる距離やん。

それに心の中にも私、いてるやろ? おらんの? いてるよね?」


私の問いに、優は答えなかった。

でもその沈黙は、「いてる」に満ちていた。言葉にできないほどの、「いてる」だった。


「だから、これからのこと考えよ。今すぐやなくてもいい。まずは、楽になること。それだけや」


その“楽になる”の意味が、「逃げる」ことじゃなく、「支えられる」ことだって、やっと優にも伝わった。


私がここにいる

それが、彼にとって唯一の救いであってほしい。

思い上がりでもいい。



静かな時間が流れた。

二人とも、何も言わず、ただそこにいた。

でもその沈黙はもう、“絶望の黙り”じゃない。

“寄り添いの静けさ”だった。


しばらくして、優はふと顔を上げた。

私がお茶を淹れると、「ありがとう」とだけ言った。


その声は小さくても、ちゃんと届いていた。


私はそっと優の胸元に手を添え、囁いた。

「ここには、いつでも私がいてるよ」


そして、自分の胸元に優の手を導いて、そっと言った。

「ここには、いつも優がいてる」


その瞬間、優の肩からふっと力が抜けた。

泣くでもなく、言葉を吐くでもなく、ただ、少し震える息を吐いた。


「ありがとう」


かすれたその声に、彼のすべてが詰まっていた



「優? もう19時過ぎてるけど、大丈夫なん?」


「うん。どうせ、パチンコでも行ってるやろって思われてると思うし。大丈夫やで」


「小遣い1万円でパチンコなんて行けんやろ?」


「何も知らん、パチンコのことなんか、それに俺がおらん方がええねん

何してるか興味もないやろ。3人でいるのが幸せなんや。

ひかりは、今夜どうするん?」


「終電が22時やねん。まだ時間あるし、一応“遠方やから帰れんかも”って伝えてる。

それに、もう息子は連れて帰れんし、母のところに泊まることになりそうやねん」


優はしばらく黙ってから、ぽつりとつぶやいた。


「そっか、ごめんな、ありがとう」


その声には、安心と少しの寂しさ、それだけじゃない、言葉にしきれない何かが滲んでいた。


私は静かに笑って、優を見つめた。


「“ありがとう”ってなに?私が来たかったんやもん。

優の声、ちゃんと聞きたかったし。顔も見たかった」


優は目を伏せ、そしてゆっくり顔を上げた。


「ほんまに来てくれてありがとう。

俺、今日ひかりに会えてなかったらちょっと、ヤバかったかもしれん」


その言葉に、何と返せばいいのか一瞬わからなかった。

けれどすぐ、小さく、でもはっきり言った。


「じゃあ、来てよかった、間に合ってよかった」


そう言いながら、私はそっと優の手を握った。

この瞬間が、永遠に続けばいいとさえ思えた。


部屋に流れる空気は、切なくて、でもどこかあたたかかった。


優の表情が、少し落ち着きを取り戻しているのがわかる。


来てよかった。

もう離したくない。絶対に離したくないそう思った。


そっと優にもたれる。

痩せたなと思ったけれど、それは言葉にしなかった。


「優の匂いがする。あの頃と変わらんね」


「ひかり、香水変えてないな。

あ……ひかりや、って思ったもん」


「ほんまかなぁ〜?笑」


そうおどけてみせると、優は真っ直ぐな目で言った。


「そんなん、忘れるわけないやん」


私は、そっとキスをした。


優は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、

すぐに私の髪を撫でながら、静かに目を閉じた。


ふたりの呼吸が重なる。

それだけで、時間が止まったような気がした。


沈黙のなかで、優がぽつりとつぶやく。


「俺さ、ひかりに会えてよかったって、何度も思ってる。

でも、こうして触れられると、まだ、夢みたいや」


私は微笑んで、優の胸にそっと顔を埋めた。


「夢でもええやん。叶ったんやから」


その瞬間だけは、現実も未来も、全部置き去りにできた。

ただ“今ここにいる”ということだけが、すべてだった。


「ひかり……ええ? 触れても?」


優の声は、いつになく静かで、震えていた。

確かめるような、迷いと祈りが混ざった声だった。


私は黙ってうなずいた。

その仕草だけで、全部が伝わった。


優の手がそっと頬に添えられる。

あたたかくて、優しくて、懐かしかった。


「触れてもいい?」そこにあったのは欲望じゃない。


「今のこの瞬間を大切にしたい」

そんな、ひたむきな想いだった。


激しい感情ではなく、ただ深く、

今までで一番、強く感じた。


そして私たちは、再び“共犯者”となった。


これから長く続く、幾重の十字架を背負いながら、

終わりのない旅に出る共犯者として。

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