第三章〜道しるべ、優の再生〜
あの日から、何日かが過ぎた。
何かが変わったようで、何も変わっていない。
ただひとつ、確かに言えるのは.わたしたちはまた、共犯者に戻ったということ。
優からは、毎日メールが届く。
「今、出勤したよ」
「今日の現場はちょっと遠いねん」
そんな他愛もないやり取りが、どれだけ私の心を満たしてくれるのか、きっと優は知らない。
電話は朝と夜。
優の通勤途中、誰にも気づかれないような、小さなすき間時間をすくい取って
私の声を聞いてくれる。
優の声を聞かせてくれる。
会うことは、簡単じゃない。
だけど、「会いたいね」が「我慢しようか」に変わることは一度もなかった。
会えない時間さえ、ふたりにとっては”想いを育てる”ための、大切な日常だった。
日常が、愛おしい。
この平穏な繰り返しが、どれほどかけがえのないものかを、ふたりは知っている。
そしてどこかでちゃんとわかっている。
「また、嵐は来るかもしれない」
けれど今は、嵐のあとの静けさを、そっと抱きしめるように守っていた。
共犯者として選んだ人生。
もう、戻れないし、戻るつもりもない。
この想いが罪だとしても
誰にも壊せない。壊されない。
ふたりだけの「これから」が、ここにある。
金曜日の朝。
いつものように、優の通勤中の電話。
でも今日は、どこか少し違っていた。
「ひかり、今夜、もしゆっくり電話できそうなら連絡して
話したいことがあるから」
「何の話? 今じゃあかんの?」
「うん、ちょっと大事な話。子どもが寝た後の方がええから。
俺、何時でも待ってるから」
「わかった」
その言葉に、私の胸の奥で、何かが小さく波を打った。
不安? それとも、期待?
優の声は穏やかで、深刻な様子ではなかった。
でも心のどこかで、何かがうっすらと引っかかってしまう。
胸騒ぎがする
だけど今は、ただ「待つ」しかなかった。
息子が眠るまで、静かに。何も言わずに。
いつもの夜が来るのを、じっと。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえた。
こんな日に限って、息子はなかなか寝つかない。
何かを感じ取っているのだろうか。
私の奥にある、言葉にならない不安や、いつもより速く鼓動を打つ心を。
「大丈夫。お母さんはここにいるよ」
何度も、何度も、ささやいた。
いつもなら、ベッドに入ればすぐに眠りに落ちる子が、今夜に限ってベッドを嫌がる。
抱っこしても、添い寝しても、身体をよじらせては、ぐずる。
どうして?
まるで、「まだ寝ちゃダメだよ」と言われているみたいで
胸の奥がじんわりと熱くなった。
寝起きも寝つきもいい子なのに。
“今夜だけ”が、まるで何かを知らせるように違っていた。
ようやく深い眠りについたのは、夜の10時を少し過ぎた頃。
やっと静けさが訪れた。
胸の中にずっとあったざわつきが、ほんの少しだけ顔を出す。
私は深く息を吸って、優に短くメールを送った。
「寝たよ」
すぐに電話が鳴った。
「ひかり、ごめんな」
「こっちこそ、ごめんね。お待たせ。なかなか寝つかなくて……」
「そんなこと構へんよ。こっちこそ、ごめん」
優の声は、いつも通りだった。
だけどその奥に、何かを握りしめているような気配がした。
「どうしたん?話って
その前に、ちょっと、心の準備させて。今から聞くのはいい話じゃないよね?」
少し間を置いて、優は息を吐いた。
「うん、よくないっていうか、自分のことなんやけどな。」
「わかった、話して」
「こないだ、ひかりに会ってな。あれからいろいろ考えて整理したんよ。
じいちゃんの勧めで少年野球始めて、名門校にスカウトされて、甲子園も出た。
大学や社会人チームからも声はかかったけど、ドラフト志願も出さず野球は高校で終わりにすると決めてた。
それで大学進学して、商社に就職して、あの頃はな、自分の人生はこのまま順調に進むもんやと思ってた」
「嫁さんとはな、高校のとき、名鑑見てファンレターくれた子で、それがきっかけで付き合うようになって。こんな事言うたらあかんけど、可愛くないしな、好みのタイプではなかったし好きって思いはなかったけど、ぐいぐい言い寄られて。あの頃は天狗やった自分もおって、まぁモテた。若気の至りとはいえクズな事したわ。本命で好きやった子には振られて、最後まで残ったのが嫁や。寮生活やからそんな会ってたわけでもないけど。
でも俺、ドラフトには届け出してへん。プロには行かんて、自分で決めた。
大学も社会人もスカウトは来てたけど、野球はもうええって思ったんよ。強豪校でいくら甲子園でても、上には上がおる
。
それで揉めたんよな。
彼女、プロ野球選手の奥さんになるって夢を見てたみたいや
でもそれって、俺の人生ちゃうやん。そう思ってた。」
「でも、別れようとは言えんかった。」
「そのままずるずる続いて、大学は別々、遠距離になって、浮気とかもあった、可愛い子いっぱいおるからな」
「けど、何度目かの浮気がバレたとき、“死ぬ”って言われてん。本気でな。首吊る準備もしてるって……そう言われた」
優は、言葉を探すようにゆっくりと語っていた。
まるで、自分の人生をいま初めて客観的に振り返っているかのように。
「ほんまは、もっと早く終わらせられたはずなんや、でも俺が、弱かった。止めてしまった、あの時に」
その言葉に、胸の奥がじんと重くなる。
彼の人生のはじまりにあった、大きな“間違い”
それは、誰かの命を背負わされたまま続いてきた、逃げ場のない、縛りだったのだ。
彼女は、まだ若くて未熟だったのかもしれない。
優のことを本当に愛していたというより、「優が描く未来に乗っかっている自分」が好きだったのかも。
そう考えると
あのとき優が彼女を手放せなかったのは、ただの優しさや責任感だけじゃなくて、
「自分が壊してしまったらいけない」っていう、恐れのようなものだったのかもしれない。
でも今の優は、ちゃんと過去と向き合おうとしてる。
自分自身とも。
だから、今ここに私がいる意味があるんだと思う。
「俺も、あのとき未熟やったからな」
そう言って話し出した優の声は、少しだけ震えていた。
「やっぱ、“死ぬ”って言われたらさ、勝手にしろ、とは言えんやろ」
その言葉の中には、当時の後悔と、変わらない優しさがにじんでいた。
「ひかりはさ、プロポーズされた?」
唐突な質問に、一瞬、言葉が詰まる。
「俺、一切してないねん。プロポーズなんて。その気、なかったからさ」
優の話は、驚くほど淡々と、でも静かに続いた。
「ブライダルフェアの試食会、予約したから行こうっ言われてな、
え、何しに?と戸惑って返すと、
結婚するんやから当然やろって。
え? 誰が?って、言うたら
私たちに決まってるやん
いや、そんな話してへんし俺、プロポーズしてないし。そしたら彼女がな
“私、純潔を捧げたのに”って」
私は思わず口をはさんだ。
「純潔を捧げたから結婚しなきゃいけないなんて、それってもう、完全にトラップやと思う。
彼女自身がその覚悟で、自分の責任で身を委ねたはずやん。
だったら、あとになって“純潔を捧げたのに”なんて言うのは違うと思う。
本気でそう考えてたなら、「結婚が決まるまでは、そういう関係にはなりたくない」って、
自分で線を引くべきやったんやと思う
それをしなかったのに、あとで“捧げたのに”って言うのは、
もう相手の愛情を縛るための言葉でしかなくなってしまう。
結婚って、誰かを追い込んで犠牲にして成立するもんじゃない。
義務で決めるもんでもないし。
優が、あのときプロポーズしなかったのは、間違ってなかったと思うよ。
気持ちが追いついてないまま、形だけ進めてしまったことの方が、きっとずっと残酷やわ。奥さんもそれもわかってるやろね。愛されて結婚したんじゃないって。ずっと惨めなまま、ただ優を縛り付けて自分のものにして、それで満足なんかな。
優はその時も今も、ずっと優しすぎるんやと思う」
ふっと小さく息を吐いて、優はぽつりぽつりと話し始めた。
「その通りや。ひかりは、そう言うと思ったよ。あの時も言ってたやん
『そんな結婚は間違ってる。死ぬって脅して結婚してもらっても、彼女が惨めなだけやん』って。でも、そんな惨めな思いしてでも結婚したかったんやろな、嫁は。
ひかりはいつも、まっすぐ正しいことを言うから」
言葉を選びながら、優は続けた。
「でもな、してもうたんや。
結婚してしまった以上、俺には責任がある。
これまでの人生は、その責任だけで歩いてきた
これからも、たぶんその責任からは逃げられへん
逃げたくないって、思ってる。それが、自分で選んだことやから」
そう口にした優は、静かに続けた。
「でもな、この間ひかりが来てくれて、やっといろんなことが整理できたんよ。あのときのことも、今のことも、ぜんぶ。ちゃんと、自分の頭で考えられた」
「商社を辞めて、○○市に来て、家を建てて今の仕事についた。でもな、正直、それ全部、嫁が決めたことなんよ。俺は、ただ流されとっただけやったんやと思う」
少し間をおいて、優は言った。
「でも、決めた。今の仕事、辞めるわ」
「どうせまた言われると思う。『私が探した仕事やのに』とか、『あなたのためにやったのに』とか、最悪、『死ぬ』とか、また口にするかもしれへん」
「でもな、もう無理やねん。この仕事に、何の誇りも持たれへんし、やりがいも感じられへん。毎日ただこなしてるだけで、心がどんどんすり減っていくのが、自分でもわかる」
「社会にとって必要な仕事やってことは、もちろんわかってる。誰かがやらなあかんし、誰かの役に立ってるかもしれへん。でも、俺には活路を見出せんかったんや」
私は、ふっと息をついて言った。
「優、辞めたらええやん。それで何か言われたら、こう言えばいい。
『じゃあ俺が家のこと、全部やるから。だからお前がこの仕事して働いて。立場、入れ替えよう』って。
ほんまにそう言えばええねん。
そしたら、誰にも優の人生を決められへんよ」
「ひかりは、強いなぁ」
そう言って笑った優やったけれど、その強さに甘えたくない、とも続けた。
「何を言われても、どう責められても、もう、辞める。このまま続けたら、きっと俺が壊れてしまう。
またきっと、揉めるやろうな。何を言い出すか、何をし出すかわからん嫁やから。
だからな、今まで毎日できてた、ひかりとのメールや電話も、前みたいにはできんくなるかもしれへん。
それでも、心配はせんといてほしい。
『嫌になった』とか『冷めた』とか、そういうことやないってことだけ……ちゃんと、ひかりに伝えておきたかってん」
優の言葉を、私は黙ってうなずきながら、一つ残らず心にしまった。
「優、ちゃんと話してくれてありがとう。
毎日メールや電話できなくても、たまに近況を知らせてほしい。
ただ、気になるのは一一次の仕事、もう決まってるん?」
「次の仕事は、もうエントリーしてる。来週、面接がある」
「どんな仕事?」
「大まかに言うと、自動車関連」
「下請けやけどな」
少し照れたように笑いながら、優が続ける。
「就活の時にT社から内定もらったん話し覚えてる?でも結局、じいちゃんが勤め上げた商社に憧れがあって、そっちに進んだ。でもな、自動車関連にも興味あったのはほんまやねん」
「そっか。優が誇り持って就ける仕事なら、それがええね」
転職は、今の時代どこも簡単じゃない。
でも、優が「自分の意思」で仕事を選んで、
自分の人生にちゃんと"携わって生きていけるなら、
私はそれが何より嬉しい。
「優...選択できる人生って、素敵なことやから。
誰かに決められた道じゃなくて、自分で選んだ人生を、胸を張って歩んでほしい」
この言葉、きっと優の中に深く届いてると思う。
彼が今ようやく、自分の足で立とうとしてるから。
それから1週間ほど連絡はなかった
気にならないわけではないけど
こちらからは連絡しない。優は、必ずくれるから。
10日ぶりに届いた優からのメールは、短くても確かな気配を帯びていた。
「ひかり、久しぶり。電話できそうな時知らせて」
まるで嵐が過ぎたあとの、静かな空のようだった。
ちょうど息子が昼寝したところだった。すぐに返信を送り、電話がつながった。
優の声は、少し疲れていた。でも、その中に強さがあった。
「心配かけてごめん。やっぱり大変やった。
義父母も巻き込んで、嫁は怒り
狂って...それでも、意思を通した。
今も家の中は冷戦状態やけど、
面接もクリアして、採用も決まった。
来週から働く。日勤と夜勤の二交
代制。
まだ生活のリズムはわからんけど...
まずは、ちゃんとひかりに報告しようと思って」
その言葉には、いろんな感情が込められていた。
重圧に押しつぶされそうになりながらも、自分の意志て人生を選び直した男の声。
何より「ひかりに報告しようと思って」
それは、私を支えにしている何よりの証だった。
彼は今、ようやく「自分の人生」を取り戻そうとしていた。
不器用でも、言葉足らずでも、迷いな
がらでもーー
その第一歩を、彼は私に伝えてくれたのだった。
家族のことは、私がどうこうできることじゃないし、するつもりもない。
でも、優自身のことならーー私はいつでも味方でいたいし、理解者でいたいと思ってる。
あの日、優の元へ向かったこと。
今でも、正しかったと思ってる。
あの時、そばに行って、手を握って、目を見て話せてよかった。
少しでも優の心に寄り添えてたなら、それだけで意味があるって思えるから。
たとえこの関係が、どこにも行き着かなくてもーー
私は優のそばにいたい。そう思った。
優が初出社する朝。
変わらぬ時間に、優からメールが届いた。
「ひかり、おはよう。電話できる?」
電話がつながると、いつもより少しだ
け張りつめた声。
それでも、優の声が聞けるだけで、私は少しホッとする。
「おはよう、初出社のお気持ちはいかがですか?」
と聞くと、優は静かに、でもしっかりとこう言った。
「身が引き締まる思いです」
「緊張してるん?」と聞くと「緊張せんかったら、ある意味会社に失礼やろ?」
と返ってくる。ーーらしいな、って思った。
「優のそういう考え方って独特やな。自分の働く会社に "失礼"とか思う?」
すると優は、少し笑ってこう言った。
「俺が起業した会社じゃないし。
先人や今働く人がいるからこそ、会社が存在するわけやから」
一ー優らしい。
誰かを立てて、敬意を忘れない人。
「朝から難しいわ~」って笑って言いながらも、
その考えに清々しさを感じていた。
「頑張ってね、いってらっしゃい」
「いってきます」
電話が切れたあとも、しばらく余韻が残っていた。
これからの毎日が、優にとって、どうか健やかなものになりますように。
優の生活は、2週間ごとの交代制。
日勤と夜勤を繰り返す生活に変わった。
今までのように、毎朝・毎晩のメールや電話は難しくなったけれど、それでも優は、まめに連絡をくれる。
たわいもない日常のことだけじゃない。
新しい仕事のことも、よく話してくれる。
製造業の現場で、一から”もの”を作り上げるということ。
それが実際に「形」になる時の達成感。
その裏には、何度も試験段階で試行錯誤があって、
粘り強さと工夫が求められるということ。
そんな話を、丁寧に、真剣にしてくれる。
優が日々、現場の中で何かをつかみながら、
“自分の意志で選んだ仕事”に向き合っているのが伝わってくる。
少しずつ、でも確実に、優は変わっていっている。
そして、そんな優の言葉に、私ももまた、自分の中の何かが育っているのを感じていた。
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