第三章〜途絶えた音信と新たな挑戦

心の奥底で、

私たちはまだつながっている——

そう、信じて疑わなかった。


けれど、優からの連絡は

ふいに途絶えたまま。


その沈黙の中で、私は自分の世界に向き合いはじめた。

育児に、家族に、そして小さな挑戦。

ひとつひとつが、

私を支え、心を満たしてくれる。


優の声は届かない。

でも、彼の存在を胸に感じながら、

私自身の歩みは止まらない——

途絶えた日々も、私の時間は確かに流れていた。




思いがけない申し出に、胸が高鳴った。

「やってみたい」は

そんな感情が、ふいに胸の奥から湧き上がる。

それは、ずっと忘れていた“挑戦”への気持ちだった。


でも、現実はそう甘くない。

息子はまだ小さく、目も手も離せない。

やりたい。けれど、できるのだろうか。

思いだけでは動けない。

今の私の生活は、息子を中心に回っている。

やりたい気持ちは確かにある、でも、それ以上に不安もあった。


だからその返事は、いったん保留にした。


来月、夫が帰ってくる。

久しぶりの長期滞在。

このタイミングで相談してみよう。

今の気持ちを、

これからの時間の使い方を、

ちゃんと向き合う時が来たのかもしれない。


また一歩、未来へ。

優とは違う線路の上でも、

自分の足で歩いていきたいと思った。


夫が帰ってきた。

慌ただしい日々の中で、ずっと心に引っかかっていたあの話を、思いきって切り出した。


「完全オーダーメイドで、お客さまのリクエストに応えてお品を作る。

ギフト商品として扱うようなもので、制作の途中もネットで見てもらえるように、お客さまと共同で作る過程を楽しみながら贈る人への気持ちを込めて」

1時間ほど話しただろうか。

言葉を選びながら、ゆっくり話す私に、夫は黙って耳を傾けてくれた。


少し間を置いて、夫は静かに言った。


「俺、こうして家にほとんどいてないやろ。

だから、協力も十分にはできひんけど、

やってみたいって思うんなら、やるべきやと思う。

我慢してる姿を見るのは、俺もしんどいから」


その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。

優しさって、こんなふうに人を救うものなんだと思った。


やってみよう。

そう、素直に思えた。


息子がいても、忙しくても、できる方法を探せばいい。

未来をつくる手は、自分の中にある。

その背中を、そっと、でも力強く押してくれる人がいることを、私は忘れない。


先生に電話をかけた。

「お受けしようと思います」

そのひと言に、覚悟と希望を込めて。


電話の向こうで、先生は少し声を弾ませて答えてくれた。


「ひかりさんの環境ならね、外に出て働くのは難しいと思ったの。

でもこれなら在宅でできるし、ネットがあれば全国どこからでも対応できる。

せっかく認定証も持ってるんだし、それを活かしてほしかったのよ。

大丈夫。月に何百個も来るような案件じゃないから。

詳細はまた改めて説明するわね」


先生の言葉には、優しさのなかに、確かな信頼があった。

電話を切ったあと、大きくひとつ息を吐いた。

たった一歩かもしれない。でも、それは確かな前進だった。


その後も、先生とのやり取りは穏やかに続いた。

次第にそれは、ただの「仕事の依頼主と制作者」ではなく、

もっと深く、あたたかなものへと変わっていった。


小さな言葉のやり取りの積み重ねが、

やがて私の人生を静かに支える“絆”へと育っていく。


この出会いが、一生の宝物になることを

そのときの私は、まだ知らなかった。


3月先生との契約が正式にスタートした。

最初の受注は5件。完全予約制での小さなはじまり。

作業は、息子がお昼寝している時間や、夜の静けさに包まれたひとときに進めていった。


新しいリズムが、私の日々の暮らしにそっと溶け込んでいく。

「楽しい」その感覚は、久しく感じていなかったものだった。

在宅でも、オンラインでやり取りをしながら。

“社会とつながっている”という実感が、胸にあたたかく広がっていった。


お客さまから届く、心のこもったメッセージ。

贈る相手を想いながら注文されるその姿に

自分が“人と人との想いの橋渡し”になれていることを、

静かに誇らしく感じていた。


季節は夏を越え、

気づけば秋の風が、窓辺のカーテンをやさしく揺らしていた。


優と連絡が途絶えて1年が経とうとしていた。

ふと心の中で、呟く。

優、私はまた、新たな挑戦をしているよ。


立ち止まってなんていられない。

でも、あなたがいてくれたから、ここまで来られた。

そんな思いが、ほんの少し切なくて、でもあたたかかった。



秋が深まり、空気に冬の匂いが混じる頃。

窓辺の作業机も、少しずつクリスマスカラーに染まりはじめていた。


先生が言っていた通り、母の日とクリスマスは特別だった。

けれど、ここまでとは

驚くほどの注文数が舞い込んできた。


ひとつひとつ、丁寧に仕上げたい。

その気持ちが強くなるほどに、一人では手が足りない。

私は初めて、母に助けを求めた。


「もちろんよ」

まるで待っていたかのように、翌日にはエプロン姿でやって来てくれた母。

親子で過ごす静かな時間。

母が淹れてくれるコーヒーを飲みながらしばしの休憩も日課となった。それ自体がかけがえのない贈り物だった。


“誰かが誰かの幸せを願って贈る”

そんな想いのお手伝いができる仕事。

お客さまに寄り添い、少しでも彩りを添えられることが、どれほど意味のあることか。

ようやく私は、**「誇り」**という言葉を胸に抱けるようになっていた。


今まで、自信なんてなかった。

迷いも、後悔も、喪失感も、ずっと抱えていた。

けれど今は、こう言える。


「これが、私の仕事です」

「私は、私として存在していいんだ」と。


その原点には、優、あなたの存在があったから。

あなたが、私を見てくれていたから。

あなたが、あの日そっと背中を押してくれたから。

そう思えるだけで、私は今を歩いていける。


師走の慌ただしさが少し落ち着いた頃。

夫が帰ってきた。

静かな時間の中、私はふと仕事の悩みを打ち明けた。


「このまま続けていいのか、正直わからなくなっている」

母の支えがあってこそ成り立っている今の働き方。

でも、ずっと甘えてばかりではいられない。

好きな仕事だからこそ、簡単には答えが出せなかった。


夫は黙って私の話を聞いたあと、ゆっくり言った。


「中途半端にやめるのはよくない。

契約更新のタイミングで、まずは先生と相談してみたら?」


更新は2月末。

まだ少し時間はある。

季節は節分を迎え、春の気配がそっと近づいていた。


程なくして、一本の連絡が入った。

先生が倒れたという。


私は息子を母に預け、急いで教室へ向かった。

スタッフによれば、その日のレッスンは急遽休講にしたものの、

連絡のつかない受講者もおり、混乱は広がっていた。


内部のことはわからない。

できるのは、ただ留守番をすることだけ

その無力感が、胸を締めつけた。


ようやく先生のご主人から連絡が入った。


「脳梗塞でした。

早期に処置はしましたが、後遺症がどの程度残るかまだわかりません。

言語に影響が出る可能性が高いとのことです」


そして、彼の口から静かに告げられた。

「すべての予約、受注、レッスン、ワークショップを休業としてください」

今受けている注文を最後に私の仕事は終わった。


しばらくして先生のお見舞いの許可が出た。


私は息子を母に預け、病院へ向かう車の中で胸が高鳴っていた。

早く会いたい

ただ、それだけだった。


案内された個室の前。

そっとノックすると、中から先生が自らドアを開けてくださった。


「先生……」


その姿に、言葉が詰まった。

やつれた顔の中にも、あの穏やかな眼差しはそのままだった。


私の手を握り、先生はゆっくりと筆談で言葉を伝えてくれた。


「お店を閉めることにしました。

このことは、直接ひかりさんに伝えたかった」


震える文字に込められた、先生の強く静かな想い。


そして


「いつかまた、あなたにこの仕事に携わってほしい」


それが、先生の最後の願いだった。


あの日から、先生が私に託してくれた想いは、

確かにこの胸の中に、灯り続けている。


先生との関係は、

仕事を離れても変わらなかった。

師弟でありながら、

どこか母と娘のような、あたたかな絆。先生は流産したことを話して下さった。それ以来、妊娠できず辛い過去をこの仕事で乗り越えてきたと。

あの時に私を自分の二の舞にさせたくない思いで任すわけにいかないと思ったとも話してくださった。


先生は言語のリハビリの甲斐あって日常会話の筆談は不要となった。

そしてその交流は、今も静かに続いている。



仕事がなくなったとはいえ、

私の毎日は変わらず慌ただしい。

季節は5月の終わり。


今年3歳になる息子は、想像以上にわんぱくで、

でもそのぶん、すくすくと、元気に育ってくれている。日本語より英語で話しかけてくれることが多い。

愛おしくて、仕方がない。

来年は幼稚園

少し、自分の時間も持てるかもしれない。




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