第一章〜近づく別れ〜

爽やかな朝。

今日からしばらくは、優の家で過ごす予定。

ふと胸をよぎるのは、「彼女」のこと――

もちろん、彼女が来ることはない。だからこそ、私を迎え入れてくれる。


それでも、少しの不安を隠しながら、数日分の着替えを詰め、私は自転車で駅前へと向かう。

あっ、少し離れた場所に、優の姿が見えた。


「お待たせ」


「待ってへんよ、今来たとこや」


――たぶん、本当はずっと前から来ていたんだろう。

優は、そういう人だ。


駅前のお蕎麦屋さん。

暖簾がゆらゆらと揺れている。


「おろしそば!」

二人の声が同時に重なった。


小さく笑い合って、席につく。


「ひかり、荷物ちゃんと持ってきたん?」


「うん、今回はちゃんと! 部屋着も、洗面道具もバッチリやで」


「おお、それは安心や」


だしの香り、啜る音、なんてことない会話。

それなのに、心の奥に小さな棘が残る――


“彼女”の存在。

今はいない。でも、いつ戻るかわからない。


この関係が“今この瞬間”にしか許されていないことは、わかってる。

それでも、目の前の優は誰より自然で、あたたかい。

もう少しだけ、この時間に甘えていたい。

未来を問わず、ただ今の優といたい。


ふたり分のそば湯を注ぎながら、優が言う。


「ほら、これであったまってから行こ」


その声に、私は静かに頷いた。


一歩ずつ、優の家へ。

しばらくぶりの“ただいま”に向かって、歩き出した。

優のマンションに入ると、彼が振り返って言った。


「ひかり、服はこのハンガーに全部かけて、クローゼットにしまっといて。残りはこのカゴでええか?」


ラタンのカゴだった。

優のインテリアセンスにはちょっと似合わない。

もしかして、彼女が泊まりに来たときに使ってるんかな。

そんな想像が頭をよぎって、少しだけ嫌な気持ちになる。


「あ、いいよ。このままトラベルポーチに入れとくから」


そう言って、さりげなく断った。

ごめんね、優。


私の言葉に、優はほんの少しだけ顔を曇らせた。

でも、何も言わずに静かにクローゼットの扉を閉めた。


「ほな、とりあえずコーヒーでも淹れるな」


「ありがとう」


キッチンから聞こえる湯の音。

立ち上る湯気と、ドリッパーから漂うコーヒーの香り。

その間も、私は部屋の片隅に置かれたラタンのカゴから目を離せなかった。


優の部屋には無駄なものがない。

けれど決して無機質なだけではなくて、必要最小限のものにちゃんと手がかけられている。

でも、あのカゴだけは、浮いて見えた。

まるで、それだけが他人の「気配」を纏っているように。


やがて、優がマグカップを二つ持って戻ってくる。


「なあ、ひかり」


「うん?」


「カゴのこと気になる?」


私は一瞬間を置いて、視線をそらさずに答えた。


「うん、ちょっとだけ」


優はふっと笑って言った。


「正直やな。あれな、先週、急いで買いに行ったんや」


「え……?」


「100均みたいなんはなんか違うし、ひかりの荷物が床に直置きやったら嫌かなって思ってな。センスないのは認めるけど」


「ほんまに?」


「ほんまに。そんな気にするなら、一緒に選びに行こか?もうちょいマシなやつ。俺のセンスだけやと、どうにもならんし」


「……ごめんね。そしたら、使わせてもらう」


その瞬間、優の部屋に私の居場所がまたひとつ増えた気がした。


「なぁ、今夜なに食べる?」


「今さっきお蕎麦食べたばっかりやん、笑」


「でもそれは昼やろ。これは夜の話。夜の部な」


「一緒に作るんやったら、味見係だけはなしやで?笑」


「任しとけ。一緒に作るからこその、カレーやろ」


「カレー、ええな!」


「材料、玉ねぎしかない」


「笑。じゃあ、買い物行こ。あと、明日のパンも欲しいな」


「スーパー寄って、パン屋も寄って。ほな、準備するか」


私は立ち上がり、優が脱ぎ捨てていたジャケットを拾って手渡す。


「ほら、ジャケット。行こか」


ふたりは笑いながらエントランスへと並んで歩き出す。

たった一瞬の、こんな日常が永遠に続いてくれたらいいのに――

そんな願いがふと胸をよぎった。


マーケットで、ふたりでカートを押しながら、交わす言葉もゆるやかで心地いい。


「なあなあ?明日の昼と夜の分もなんか買っとこうや。GWやし、混むで?」


「そやなぁ……うどん? 焼きそば? うーん、選べへん。お腹すいてへんと、決められへんわ、笑」


「ほな、昼ごはん食べたらどっか出かけよか。ひかり星空観測好きやろ? 佐用町の天文台、行ったことある?」


「ない!遠いし、なかなか行かれへんかったから行きたい!」


「よっしゃ。じゃあ昼は軽く済ませて、帰りに名物のホルモン焼きそば食べるってコースでどう?」


「絶対美味しいやつやん。楽しみすぎる……じゃあ、明日の昼は今日の残りのカレーで決まりやな、笑」


「そやな、計画的節約。完璧や」


「明日はふたりだけの星空デートやな」


「うん。誰にも邪魔されへん、ふたりだけの空やね」


その瞬間、マーケットのざわめきが遠のくように感じた。

ふたりだけの、まだ見ぬ未来を、少しずつ描いていくような静かな時間。


――夕方。

キッチンに立つふたりの背中。

私は玉ねぎを炒めながら、優のまな板の上で転がる不揃いな人参に目を細めた。


「なあ、それじゃ火の通り方バラバラやん。大きさ揃えて切ってよ〜」


「ひかり先生、きびしいですね……(苦笑)」


「だって、そうしないと煮えムラできるやろ?なんでも適当あかんねん」


「はいはい、先生の言うこと聞きますよ〜」


そんな他愛ないやりとりも、どこか心地よくて。

“ふたりで作るカレー”というよりは、ほとんど私が仕上げたカレーがようやく完成。


――夕食。


「このカレー、めっちゃ美味しいな〜。肉もたっぷりやし、俺ほんま天才やと思うわ」


「天才って、笑。人参切っただけやん。あと、サラダのレタスちぎって、トマトのせただけやし」


「いやいや、人参が味の決め手やったと思うで!」


「そやな……カレーには変わらんけどな」


ふたりで笑いながら、おかわりのカレーをよそい合う。優は3回もおかわりした。

暮れゆく外の景色。

窓に映るふたりの姿が、少しだけ家族のように見えた。


この夜の記憶が、またひとつ、ふたりの心にそっと積み重なる。

きっと明日も、笑って過ごせるように。


食後の満足感と、カレーの余韻が残る中。

ソファに座っていた優がふと立ち上がった。


「今日は禁酒にしとく。明日に備えてな」


「そうやね、明日は佐用やもんな〜。じゃあ、フルーツでも食べよっか」


「じゃあお風呂一緒に入ろっか」


「フルーツ食べようと思ってたんやけど?先にお風呂がいいの?」


(にやっと笑って)

「先にひかりがいいの」


「いちごとネーブルオレンジ、どっちがいい?」


(わざとらしくため息をついて)

「なあ、それわざと無視したやろ?俺のセリフ、完全スルーやったやんな。確信犯やろ?」


(笑いながら)

「うん、聞こえへんかったふりした。いちごにするわ。オレンジは日持ちするし」


(肩を落としながら)

「いちごでいいです……」


でもきっと、優はわかっていた。

こうやってじゃれ合って、フルーツを一緒につまんだあとに――

ちゃんと「先に」になるってことも。


ふたりの夜は、静かに、やさしく続いていく。


「ひかり、早くお風呂!」


「まだ食べてるやんか……待ってよ。それか、先に入ってよ」


そのとき、ふいに優の手が私の部屋着にかかる。

するりと滑るように、背中からジッパーが落ちていく。

驚いたふりをしながらも、私は抗わない。


下着姿になった私を、優が後ろからそっと抱きしめる。


ただひとつ残っていたいちごに手を伸ばし、黙って口に運ぶ。

その沈黙が、すべてを物語っていた。


「ごめん、ひかりが焦らすから」

そんなふうに言い訳をしながら、優は私を強く抱きしめた。


お風呂の話なんて、もうどこかへ行ってしまったように――

ふたりはそのまま、静かに、求め合った。


言葉は少なくても、肌の温度で確かめ合うように。

やがて、優の呼吸が落ち着き、まぶたがゆっくり閉じていく。


私の肩に顔をうずめたまま、眠りに落ちそうな優。

そのぬくもりを、私はそっと抱きしめ返した

そっと優の髪を撫でながら声をかける。


「優、起きて……。お風呂入って寝よ?」


「んー……起こさんといて……」


「もう、起きてってば」


ゆっくりと優の体を揺さぶると、彼は渋々身体を起こした。

でも、立ち上がった優がその手を差し伸べて、私を引っぱる。


「一緒に、やで?」


ふたり並んで浴室へ向かい、シャワーの音が静かに夜を包む。

ぬるめのお湯に浸かりながら、肩を寄せ合い、小さく笑い合うふたり。

言葉はいらなかった。


湯上がりのふたりは、シーツの中で手をつなぎながら、今日のぬくもりごと、心地よい眠りに落ちていった。


頬に触れるやさしい感触で目を覚ました。

触れていたのは、優の手だった。


「ひかり、おはよう」


カーテンの隙間から朝の光が差し込み、部屋の空気をやわらかく包む。


「起きよっか? それとも、もうちょっと寝る?」


「……ちょっとだけ、寝たい……」


そう呟くと、優はふっと笑ってベッドから立ち上がる。


「じゃ、寝てて。俺、お腹減ったから、パン食べとくわ」


その言葉に、思わず吹き出してしまう。


昨日、カレー3回もおかわりしてたのに……

ほんと、よく食べる。

でも、それがまた愛おしい。


「起きるよ。一緒に朝ごはん食べよ」


「待ってました! 俺、コーヒー係!」


冷蔵庫には、昨日買ったハムとチーズ。

「ハムチーズトーストにする? お野菜もたくさんあるし、サンドイッチもできるよ?」


「えー、どっちにしよ、悩む。……両方!」


「そう言うと思った(笑)ほんと、よく食べるな」


「うまいなぁ〜……」


「昼もこれがええなあ。……でも、2日目のカレーも食べたいし、悩むわ」


特別じゃない、ふつうの朝。

だけど、それはとても、かけがえのない時間だった。

コーヒーの香りとパンの匂いが、ふたりの時間をそっとやさしく包んでいた。



朝食をとりながら、1回目の洗濯が終わる。


「俺、干すわ。……ひかりの下着とか、部屋干しでいい?」


「いいよ、外に干しといて」


「……あかんやろ」


女を連れ込んでるって思われるのが嫌なんかな

そんなことがふと頭をよぎる。


でも、優は静かに言った。


「見られんの嫌やから」


その言葉に、ドキリとする。


女の痕跡を見られたくないってこと……?

それとも、“私”がそういう存在に見られるのが嫌……?


小さな違和感に胸が波立つけれど、優の顔はいつも通り自然で、

当たり前のようにタオルと洗濯バサミを持って、


「じゃあ、部屋干しスペースあけるな」


と言いながら、洗濯カゴからひとつずつ洗濯物を取り出していく。


「ありがとう」


「はいよ。ハンガー取ってな〜」


ベランダから差し込む朝の光と、風に揺れる洗濯物の音。

そんな日常が、こんなにも愛おしいなんて。

きっと、その中に優がいるから。




「ひかり? なんか勘違いしてへん?」


「……なにが?」


「ひかりの洗濯物」


「なんも思ってないよ?」


「ひかりの下着を、よその誰か知らん奴が見てると思ったら腹立つやん。だからやで?」


「そんなこと気にしてるん? ここ7階やん?優、かわいいな(笑)」

優は少しむくれたような顔をして、干しかけていたタオルの手を止めた。


「かわいいとか言うなや」


少し照れたように目をそらした優は、また無言で洗濯物を干しはじめた。


「2回目の洗濯回すけど、他に洗うもんない?」

「うーん、ないかな。……あ、せや、これ洗って」


そう言って、優が持ってきたのはadidasのセットアップが2組。ネイビーとグレー。

ネイビーの方は少し小さめで、サイズ違いだとすぐわかる。


「ひかり、部屋着持ってくると思わんかったから……」


「え、準備してくれてたん?ありがとう。今夜からこれ着よっかな」


ちょっと照れたような笑顔で、優はそっと私の手元にセットアップを置いた。

それはまるで、「これからも一緒にいる」ことが、自然な日常の中に織り込まれているようで。

胸の奥に、じんわりとしたぬくもりが広がっていく。



「さてと、洗濯終わったし。お布団も干したし、次は掃除機でもかけよかな」


リビングに目をやると、ソファに座ったまま、頭を少し傾けて眠っている優の姿があった。

腕を組んで、口元がほんの少しゆるんでる。


(寝てるやん……)


私は思わずクスッと笑ってしまった。返事がなかったのは、もう夢の中やったんや。


この人が、こんなふうに無防備に眠れるこの空間。

それが、どれだけかけがえのないものか、私は改めて思い知らされる。


掃除機のスイッチを入れる手を止めて、優の前にしゃがみ込む。

その顔を、そっとじっと見つめた。


「あのセットアップいつまで着れるんやろ……」


ぽつりとこぼしたその言葉に、当然返事はない。

でも、彼の寝顔が「大丈夫」とでも言ってくれているような気がした。


そっと肩にブランケットをかける。


掃除機は……後にしよか

せっかく気持ちよく寝てるんやし。


カーテン越しに差し込むやわらかな光が、静かな朝を包んでいた。

それはまるで、私の心のざわめきまで一緒にそっと落ち着かせてくれるようで。


お昼までにはまだ時間がある。

よし、今のうちにお化粧しとこ。




しばらくして、優が目を覚ました。


「ごめーん、寝とったわ」

「気持ちよさそうに寝てたもん。お腹いっぱいになって眠なったんやろ、赤ちゃんやな(笑)」


「なんでやねん!」


「掃除機かけようと思ってんけど、寝てたからやめといた」


「気ぃ遣わせてもうたな」


「掃除機はあとにしよ」


そう言って、そっと優が私に抱きついた。


朝の光が、少しずつ傾きかける。


「……こんな明るいとこで、恥ずかしいやん」

言葉と裏腹に私は彼の腕の中でそっと揺れた。

胸の奥に、熱がじんわりと広がっていく。


まるで、夜のように深く静かな感覚。

でも確かに、昼の光が包む部屋で、二人だけの時間がしっかりと刻まれていた。


こうして、GWの特別な時間が静かに、でも確かに過ぎていった。



「腹減ったな

カレー食べよか」


「食べよか

何時に出る?」


「2時間半はかかるし

場所取りもしたいし

15時過ぎにはでよか」


「うん、わかった!さぁ食べよ食べよ

二日目のカレー美味しいよな」


「行く前にコンビニで何か買って行こ、飲み物とか。腹も減ると困るし」


「減れへんやろ」


「そうかな.....」


何でそんなお腹減る心配するんやろ笑



「そろそろ行こかぁ〜」


コンビニに寄ると

カゴを持つ彼

なんか買うつもりやろか

パンいれてるやん

おにぎりも

ドリンク何本買うんやろ….


車の中でも

絶えず喋る、この人喋らんかったら体調悪なるタイプやろな



天文台到着


綺麗なぁ

優?あれは北極星やで

ずっと変わらんでそこにいてるん、そう、優なんよ

心の中でそっと思う

その横でツナマヨパンを頬張ってる

星より団子なんかな

優、、、大好き



「さてと、ホルモン焼きそば♪焼きそば♪」


「優、さっき星見ながらおにぎりとツナマヨパン食べてたけどもうお腹減ってるん?」


ふたりの笑い声が夜空に溶けていく。



この人ほんとによう食べる....ほんと

によう喋る

でも、だから好きなんやろな。どれだけお腹いっぱいでも、どれだけ言葉を交わしても

まだ欲しくなるのは、優と過ごすこの時間


ホルモン焼きそばの香ばしい匂いが、夜風に乗って鼻をくすぐる。

屋台の明かりに照らされた優の横顔は、少しだけ少年みたい。


「なぁ、ひかり、また来よな、ここ。今度は弁当持って、星見ながら寝転んで...」


「結局、食べるだけ食べて寝る

んやろ?笑」


「いやいや、流れ星見つけるまで寝

えへん」


「ほんまかな....笑」


でも”また”はないよね....


笑いながら、ふたりはホルモン焼きそばを頬張った。

その間にも、無数の星たちは変わらぬ光を灯している。

そして心の奥にそっと置いておく。

変わらずそこにある北極星みたいな

存在それが、優。

言葉には出さないけれど

「またはないけど、またここに来たい」

そう、強く思った夜。



帰ってきたら0時過ぎ

往復運転したし

疲れたやろな


「優、先にお風呂入って」


「一緒に入ろうや」


そして一緒に入る

今日の出来事話しながら

静かに更けていく夜。

部屋には優の好きな番組の音と、ドライヤーの音が交互に響いていた。

日常のようで、非日常なこの空間。

ベッドに並んで、同じセットアップを着たふたり。

どこかくすぐったいような、安心するような。


「ひかり?後2日やな、何したい?」


「何もしなくていい。今日連れてってもらったもん。明日と明後日は部屋

過ごそ?」


「わかった、そうしよう」


きっと、どこかへ出かけるよりも、何かイベントがあるよりも、こうして並んで朝を迎えて、コーヒーを淹れて

一緒に洗濯して、ご飯を作って、笑って、しゃべって。

"ただの時間"が一番愛おしい。 


「おはよう!ひかり、起きて!」


相変わらず朝から元気に早起きの彼


「優、早起きすぎる今何時?」

「早いってもう8時やで?」

「まだ8時やん昨夜寝たの2時前やで?」

「お腹減ったし、、、」

「あ、昨日パン買うの忘れ

たやん!」

「さっき買ってきたで笑」

「忘れてへんねんや

さすがやな、、、その、食に対する執着半端ないな笑

じゃ作ろっかな両方笑」


私がまだ眠気の残る目をこすっている間に、

優はその隣に潜り込んできた。


「でもな、その前にいい?」

その声は、どこか甘えるようでどこか真剣で

でもやっぱり、朝からの食欲と同じくらい欲が透けていた。


「朝やで...」

そう言いながらも、拒まない。

むしろ、この人はこういう人だって、知ってる。

それでも毎回、ちゃんと照れて、ちゃんと笑う。


静かな朝の光が差し込む部屋。

シーツが揺れ、肌が触れ合い、呼吸が重なる。

「まだ8時やん」

そんな言葉は、さっきまで言っていたはずなのに、今は彼の手にすべてを委ねるように、何も言えなくなっていた。

彼の"朝ごはん”は、パンの前にもう一つ、ちゃんとあった。



「ひかり、やっぱめっちゃうまい

わぁ!昼もこれにするな」

「だからパン2斤買ってき

たん?」

「せやで!」

「でもハムもうないでチー

ズしか笑」

「えー最悪やん」



「じゃ、フレンチトーストにする?

チーズとろけさせて

甘じょっぱいのもおいしいよ?」


「マジか!作ってな!」


洗濯しながら朝の情報番組をみる

テレビの中でアナウンサーが「行楽日和ですね〜」なんて笑顔で言っているけど、

ここには、ふたりだけの静かな時間が流れていた。


「なぁ、どこも混んでるな。よう出かける気になるな~あんな渋滞」


「ほんまやね、うちら正解やったな、引きこもり」

洗濯機の回る音と陽の光が優しい。


昼までDVDを見ながらゴロゴロしていた


何もしていないのに  

「腹減ってきたなぁ。」


優の体内時計は正確だ笑


「うわ、ほんまにチーズとろけてるやん!うまそ〜!!」


「フレンチトーストの上にお砂糖かけてもいいけど?」


「かけてかけて!カフェやん、ここ笑」


ふたりだけのカフェ、ふたりだけのGW。

人混みに流されず、誰にも邪魔されないこの時間。

"賑わい”とは無縁かもしれないけど、ここにはちゃんと、笑いと優しさがあってーー


それだけで、十分すぎるほど幸せだったランチタイム


そう思ったそのあとすぐ……..彼が口を開いた


「言うべきか迷ってたんやけど……話そうと思う。

ひかり、旅行行ったやろ?

その間、俺はどこにも行かんかった。

それを、ひかりは何か感じてたんちゃうかなって。どう思ってた?」


私は少し息をのんでから、答えた。


「そういう話、あんまりしたくなくて……避けてた。

でも、それってやっぱりあかんのかな」


彼はしばらく黙っていた。

けれど、静かにうなずいてから、ゆっくりと口を開いた。


「うん。ひかりが言いたくないなら、無理にとは思ってへんよ。

ただな、俺が何も言わへんままでいたら……

まるで、なかったことにしてるみたいになるやろ?」


部屋の中に、淹れたてのコーヒーの香りがふわりと漂っていた。

その香りが、張りつめかけた空気を少しだけやわらげる。

それでも、言葉の重みまでは消せなかった。


「ひかりが誰と行ったかわかってて。

でも俺は……何も言えへんかった。

いつも通り戻ってきてくれたら、それでええって、そう思おうとしてた」


「うん...」


ふたりは黙ったまま、そっとコーヒーを口に運んだ。

小さな音が響いて、それが少しだけ会話の代わりになる。


「俺な、嫉妬とか独占欲とか、ないふりしてたけど、あるんやな。

でも、こうやって一緒に過ごせて

それだけで、ほんまに救われるんや」


「うん、優と一緒にいたかった」


ようやく口にできた本音。

ずっと胸の中で渦巻いていた思いが、ようやく言葉になった。

重たくて、それでも言えてよかったと思える、静かな午後だった。


少し間があって、私はふとたずねた。


「優の彼女、ゴールデンウィークは仕事なんかな?って思ってたけど、違った?」


「そう、仕事やねん。

休みはあるけど、稼ぎどきやから長期休みにはならんのよ。

○○市に住んでて、そこの百貨店で働いてる」


「そうやってんな……

そんやなんやったら大阪に来るのもしんどいよね、優が彼女のところに行く選択はなかったん?」


「せやな。行ったところで実家暮らしやし。だから、助かってた。ごめんな、ひかり。きちんと話しとくべきやったのに」


彼の目が少し伏せられたあと、静かに問いかけてくる。


「ひかりの彼のこと……聞いてもいい?

言いたくなかったら、無理には聞かんから」


「サラリーマンやけど……ジャーナリスト。

あまり家には帰ってこない。

日本中、飛び回ってるよ。海外もたまに。ニューヨークのテロの時も支局の人だけではどうにもならなくて応援で行ってたよ。

お盆も正月もゴールデンウィークも関係なくて。

今回、初めてゴールデンウィークに休み取ってくれて。

年明けから、ずっと調整してくれてた」


「結婚しても、そんな生活になるんやな……寂しい?」


「どうかな……寂しいって思うかどうか、まだわからん。

だって、まだ結婚してへんし」


「……ひかりは結婚したら、どこに住むの?」


「市内に住むよ。

最初は賃貸で探してたけど、結局、建設中のマンション買うことにした」


「そうなんや……

俺ら、どうなるんやろな。どうしたい?どうしたらええんやろ?」


「先のことは、わからへんよ。

優は、どうしたいの?」


「……続けられるなら、って思ってる。

でも、それは……ひかりを苦しめることになるかもしれへん」


「それは、お互い様やと思うよ」


何も解決しないまま、ただ静かに交わされた言葉たち。

そのひとつひとつに、痛みも優しさもにじんでいて、

矛盾と覚悟が折り重なっていた。


未来のことを話しているのに、

未来に手が届く気配はどこにもなかった。


ただ

私たちに残された時間が、

もうそう長くはないということだけが、

静かに胸に迫ってきていた。


「コーヒー、冷めたから……入れ直そうか」


そう言ったとき、ふいに彼が抱き寄せてきた。

朝のぬくもりとは、どこか違う。微かに混じる切なさと、決意のようなもの。


「ひかり……離れたくない」


その言葉とともに、腕の中に包まれる。

私は何も言えなかった。

彼の吐息を感じながら、なにかに取り憑かれたように、互いを求めあった。

それが答えなのか、答えに背を向けた行為なのか――わからないままに。


「ひかりと、もう少し早く出逢えてたらって……何度も思った。

もしかしたら今なら、間に合うんやないかって」


「私もドラマみたいなことが、自分の身に起こるんやなって……思った」


「現実に起こるからこそ、ドラマになるんちゃう?」


「そうなんかな……優?

きっとこの先も、優から連絡があれば私はこうなると思う。

こうしたいって思う私がいる限り、優が求めてくる限り……」


「結婚しても?俺から連絡したら、ひかりは会ってくれるん?

でも……ひかりからは連絡してこないってこと?」


彼の問いかけに、私は黙ったまま、そっと目を閉じた。

深く息を吸い、言葉を探すように、静かに答える。


「うん……たぶん私からは、もう連絡しないと思う。

結婚したら……いや、たとえしてなくても、

私の中でどこかのタイミングで、そう決めなあかんって思ってたから」


……本当は、そんなこと思ってなんかいない。

思えるはずがない。

でも、それでも口にした。


「……でも、俺が連絡したら?」


「……会いたいって思ってしまうと思う。

声を聞いたら、きっと止まらなくなる。

だから……私が止まらなくならないように、自分からは連絡しないの」


「それって……ずるいよな」


「うん、ずるい。

でも、これが私の……精一杯の、けじめ」


「俺から連絡してもいいってこと?」


「今は、いいよ。

お互い、まだ独身やし」


「……ってことは、9月のひかりの誕生日は、俺は祝えへんってことなんやな」


「うん……そういうことになるね。

でも……来月の優の誕生日はお祝いするよ。」


「……それとも、彼女と過ごすの?って、聞きたいんやろ?笑」


「ううん、聞かない。

でも……どうなん?」


「たぶん、忙しいと思う。

なかなか連休も取られへんしな」


「そっか……じゃあ、予定なかったら……お祝い、しよ?」


「うん……」


その小さな返事の中には、嬉しさと痛みが、どちらもにじんでいた。

沈黙がふたりの間にゆっくりと流れていく。


何も決められなくていい。

答えを出す必要も、いまはない。

ただ同じ空気の中にいる。

それだけで――今は、十分だった。



優、お腹すいてない? そろそろご飯の用意しようかな」


「……そろそろご飯の用意しよっかなって……ひかりが?」


「うん。もういい時間やろ?」


「何作る? 一昨日買った食材、まだ色々残ってるから、何でもできそうやしな」


「“何でも”?優が作るってこと?

じゃあ、お願いしてもええんかな〜?」


「すみません、それは無理です! 俺はアシスタント専門ですので!笑」


さっきまでの重たい空気が、するすると溶けていく。

どちらからともなく、話題を軽くしていた。


「やっぱひかりって、天才やなぁ。

酒、めっちゃ進むわ〜〜笑」


「一応、調理師の免許は持ってますから。

……まぁ、全然活かされてないけどね。

ほんとはさ、大学卒業したあと、管理栄養士の専門行こうと思ってたんよ」


「そうなん? なんでやめたん?」


「父の会社で働くことになって。

実家から出たかったし、条件があってん。

“会社に入るなら一人暮らししてもいい”って」


「ひかり、一人っ子やもんな。

会社継いでほしいって気持ち、あったんちゃう?」


「うーん、そんな大層な話じゃないと思うけど……

親の気持ちもわかるから、そのときは素直に従った。

でも……今思えば、いつも自分の気持ちより、周りを優先してばっかりやったなって思う」


「……ひかり、偉いよ。

よう頑張ってきたな……

でも、結婚は婿養子とかではないんやろ?」


「それはないよ。

父もそこまで押しつけてくる人じゃなかったし」


「でも絶対、会社の中で“婿候補”の品定めしてたと思うで。笑」


「なにそれ、昭和やん。優、古すぎ!

今、平成やで?」


「はは、ほんまやな……」


どこかにある“そご”には触れず、

少しだけ真面目な話もしながら、夕食を食べ終えた。


「片付けるから、先にお風呂入ってきてええよ」


「一緒に片付けるから……一緒に入ろ?」


「……優、ごめん」


「え? なんで?」


「さっき、ちょっと予定より、早くきて……」


「……ああ、そっか……

そっか。びっくりした。

いや、大丈夫、大丈夫やで」


彼の声は、ほんの少し驚いて、それでも変わらずやさしかった。

照れ隠しのように笑って、

それでも、気まずさに変わらない空気を、そっと包み込んでくれる

優は洗い物に手を伸ばした。

そのさりげない優しさが、胸に静かに染みてくる。


「じゃ、先に入るけど──コンビニかドラッグストア行こか? 買ってこようか?」


「ううん、大丈夫。あるから。ありがとう」


「そっか。なら、ゆっくりしとき」


そう言って、タオルを手にお風呂場へ向かう背中。

その後ろ姿に、胸がぎゅっとなる。


──恥ずかしげもなく、あんなことまで自然に言ってくれる。

ほんとに、根っから優しい人なんだ。

でも、その優しさが──優自身を縛ってる。

どうしてこんな人が、幸せを見いだせない結婚に縛られてるんやろ。

愛があるのに、そこに「自由」はない。

……なんの罰ゲームなんやろう。

誰に課されたのかもわからん、終わらない罰──。


「お先。気持ちよかったわ。ひかりも入って、体温めておいで」


「うん、入ってくる」


風呂上がり、彼はなにも飲んでなかった。


「あれ? ビールは?」


「ひかり、もう今日は飲まれへんやろ? だから、俺もやめとくわ」


「え、飲んだらいいやん?」


「一人で飲んでもつまらんやん?」


そう言って、冷蔵庫を開けもせず、ソファに腰かけてテレビの音量を少しだけ上げる。

ふと何か思い出したように立ち上がると、クローゼットの引き出しを開けて、一着のジャージを取り出した。


「これ、俺のジャージやけど──履いて。生理のとき、短パンしんどいやろ?」


それだけの言葉。

なにげない仕草。

どこまでも自然な思いやり。


──優、そんな優しくしないで。

泣きそうになるよ。

誰よりもわかってるのに。

この人の優しさが、いちばん罪なんやってことを。


「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」


「めっちゃ笑けるねんけど!!

俺もちょっと長めやけど、ひかりが履いたら──松の廊下やな」


「どういう意味???」


「いや、意味はありません笑。ふっふ……っ」


優しいんだか、なんなんだか。

そのままほわっとした気持ちで、二人、抱き合って眠った。


「おはよう!優、起きて!」


「えー、もう起きたん?」


「もう9時過ぎてるよ」


「マジかぁ……

ひかり、ちょっと来て〜」


「今は無理〜」


「お願い、ちょっとだけ見てほしいねん」


「え? どうしたん?」


「うっそ〜」


そう言いながら、私をベッドの中へ引き寄せる優。


「できひんやろ? だから、温もりだけ……ちょうだい」


「ベッドの中じゃなくても、温もりって感じられるやん?」


「それじゃ、あかんの」


優はそう言って、私のTシャツをそっと脱がす。


「我慢、できひん……。

ひかりに触れたい。

心のどこかに、ずっといてほしいって、そう思ってる」


私は何も言えずに、ただ彼の目を見つめていた。

何もできないこの時間が、どうしようもなく愛おしくて、切なかった。

優の指先が、かすかに震えていた。


「優?

触れることだけが、温もりやないよ。

一緒に笑って、ごはん食べて、くだらんこと言って、そういう全部が、温もりやと思う」


「そういうとこやねん。

ほんま、ずるいな。ひかりって」


彼の額が、私の胸元にそっと触れたそして貪るように…..そのまま、動かなくなった。


「いっていい?もう……無理やねん」


「……うん」


その声はどこかかすれていて、壊れそうだった。

触れ合いの中に、愛と罪と依存と

すべてが入り混じって、溶けていく。


優の額が、私の肩に埋まる。

呼吸と一緒に伝わる、小さな震え。

「ごめん….我慢できんかった」


「謝らんでいいよ。

優が“欲しい”って思ってくれること、それだけで……ちゃんと嬉しいから」


「ひかりは、やっぱりずるいわ。

どこまでも優しくて、何もかも受け止めてくれて……

それがもう、しんどいくらい愛しい」


しばらく、ふたりとも言葉を失っていた。

朝の光が、窓の隙間から差し込んでいる。

街はもう動き出していたけれど、

ふたりの時間だけは、確かに止まっていた。


この胸に触れるぬくもりが、

どうか、最後じゃありませんように――。


「優、シャワーしておいで。朝ごはん、食べよ?」


「ひかり……ごめん。朝から、どうかしてた」


「もういいから。お腹空いてるでしょ?私もペコペコなんやから」


「……うん。シャワーしてくるわ」


シャワーの音が静かな部屋に響く。

洗濯機の中で、優の下着が回っているのが見えた。

その光景に、胸の奥がチクリと痛んだ。


——優の気持ちに甘えたのは、もしかしたら私の方かもしれない。

止めることだってできたのに。

「生理だから」って言い訳しながら、ほんとは、嬉しかった。



リビングに戻り、朝ごはんの準備を始める。

冷蔵庫を開けて、チーズ、ゆで卵、パンを並べていく。

シャワーの音が止まり、ほどなくして浴室のドアが開いた。


「ひかり……洗濯、ほんまごめん」


「こっちこそ、ごめん。

ちゃんと断るべきやったのに……

優が悪いわけじゃないから。

優、お腹空いたやろ? ほら、食べよ」


「……うん」


ふたりはテーブルについた。

そこに並ぶのは、いつもと変わらない朝ごはん。

でも、心の中には“何か”が確かに残っていた。


「今日は、一緒におろな」


「うん。ずっと一緒におる」


優が言った「今日は」に、私は少しだけ、苦い思いがした。


「ひかり、体調どう? 二日目、しんどい?」


「うーん、気の持ちようかも。

優と一緒にいると、あんまりしんどく感じへんよ」


そう言って笑ってみせた。

けれど、本当は、下腹に鈍い痛みがあった。

それでも、それ以上に

優がそばにいてくれる安心感が、すべてをやわらげてくれていた。   



「どうしたん? お腹すいたん?笑」


「いや、朝ごはん食べてからずっとお菓子つまんでゴロゴロしてたし、さすがに今はすいてへんけどな〜笑」


ふと、優の表情が少しだけ引き締まる。


「なぁ、外……出れそう?」


「うん、大丈夫やで。どこ行くん?」


「出かけるならお化粧する? ジャージのままじゃ嫌やんな?」


「そらジャージはあかんやろ〜笑」


「ほな着替えてから軽く、外でご飯でも食べよか」


「うん、でも……ちょっと支度に時間かかると思うよ?」



「かまへんよ。今すぐ出るわけちゃうし」


彼の声は、いつもと同じ、穏やかで優しい。

でも、どこか、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。


「……16時頃、出よか。

ひかりが準備してる間に、俺、ひかりの自転車をマンションに戻しとくわ。鍵貸して?

そしたら、帰りそのまま送っていけるし」


その一言で、気づいてしまった。


あぁ、もう、この部屋には戻らないんや。


洗濯して、カレーを温めて、笑い合って、眠って……

そんな日々が静かに終わろうとしていることを、

優は、やわらかな言葉で知らせていた。


「戻らない部屋。今日が、来るの最後になるんかな」


心の中でつぶやきながら、私はそっと立ち上がった。

鏡の前に座り、お化粧をする。

また笑えるかな。

夕陽の中、彼の隣で。


優が私のマンションから帰って来る。


「支度できたよ。荷物もまとめた」


彼のジャージは、バッグの中にそっと入れておいた。

「洗濯して返すね」って言えば、また会える。

そんな小さな言い訳を用意していたけれど……それも、言わずにいた。


「OK。ほな、そろそろ行こか」


車に乗り込む。

初夏の陽射しが窓から差し込んで、まぶしかった。


「ひかり、何食べたい?」


「ん〜……ちょっとお腹すいてきたかも。なんでもいけそうやけど……

五右衛門とかどう?」


「ちょうど俺も、ジョリパスか五右衛門行こか思っててん」


やっぱり、考えることが似てる。

ふたりで小さく笑って、五右衛門へ向かう。


店に入り、席につくと、

彼はいつものように明太子パスタを大盛りで注文。サイドメニューもかかさない。

私は、迷わずカルボナーラ。



食べながら、ふいに聞いてみた。


「なぁなぁ、どこ行くん?」


「……ないしょや笑」


また、それ。

教えてくれそうで、教えてくれない。


でも、この“ないしょ”が、

なんだか特別な時間をくれてる気がした。でも今日の特別は本当はいらない特別だ。


「ちょっと足りんかったなあ。

ひかりのカルボナーラも、大盛りにしてもらえばよかったわ〜」


「えっ、カルボナーラもちょっと食べたやん?

それにサイドメニューも頼んでたし、

“あんまお腹空いてへん”って言ってたのに、

高校生並みに食べてたで?笑」


「……ひかり、お腹、大丈夫?」


「うん、大丈夫やで。病気ってわけやないし……

で、どこ行くん?」


ハンドルを握る彼が、ふっと真顔になって言った。


「病気じゃないけど……

また、無理させてへんかなって」


その一言に、胸の奥がふわっと熱くなる。

彼の優しさは、時に言葉よりも、温度を持って届いてくる。



「もしかして?ここ阪奈道路やから……生駒遊園地のナイターに行くん?」


「ないしょ笑」


「ないしょにしては、バレバレやん笑」


「さあ、着いたよ。降りようか」


「え、え、え……すごい!すごくきれい」


目の前に広がるのは、大阪の街を一望できる山頂の穴場スポット。

遊園地の明るさや喧騒とは違い、ここは静かで、誰もいない真っ暗な中に浮かぶ夜景だった。

その景色は、まるでふたりだけのためにあるようで、私は言葉を失い、ただ風の音だけが耳に残った。


「ここが俺たちの育った街で、今住んでいるところはあの辺……

ひかりの会社があっちで、俺の会社はあの辺り」


彼は指をさしながら、順に説明してくれた。


「ほんまや、全部見えるね……」


ふたりの思い出もすれ違いも、これからの未来も、

まるでこの夜景の中にあるかのように感じられた。


「ここ、先輩が教えてくれてん。

『とっておきの女ができたら連れて行ってやれ』って」


「じゃあ、歴代の彼女も連れてきたってこと?笑」


少し皮肉混じりに冗談を言うと、ほんの少しだけ心の奥を探るような気持ちだった。


「違うよ。

ひかりが初めてやしもう……後にも先にも誰かを連れて来ることはないよ……」


その言葉には重みがあった。

冗談でもなく、笑いに変えるでもなく、真っ直ぐにそう言った。

その一言で、夜景よりも胸が強く光った気がした。


「でも、優……

また来たいと思うよ。優と一緒に」


私は精一杯の素直な気持ちを伝えた。

そのとき、優はそっとこちらを見て、少し目をそらして夜景を見つめた。



「……また来れたらいいな、来よな」


その声は小さくても心に残るほど優しく、切なかった。

あの時の彼の表情はどこか寂しくもあり、温かかった。

きっと忘れられない。


「明日からまた仕事やな……

休み明けはきついぞー」


何でもないように、ごく普通に話す優の声が胸に沁みた。

まるで、何もなかったかのように。

いや、もしかしたら「何もなかったことにしよう」としているのかもしれない。



優…

何か決めたん?

答えでたん?

もう最後なんよね?

お別れなんよね?


でも、聞けない。

今それを聞けば、この穏やかな時間さえ壊れてしまいそうで。


「帰ろっか」


優はハンドルを握り、静かに車を走らせた。

おしゃべりな彼が黙るのは珍しいことだった。


私も沈黙を守った。

その静けさを、誰も破ろうとはしなかった。


この沈黙のままでいよう。

それが何を意味するのか、私にはわかっているから。


交差点の信号が赤に変わる。

そこを曲がれば、私のマンション。

この道の先にあるのは「終わり」か、それとも「続き」か。いや続かない….

車はゆっくり進んだ。


やがてマンションの前に到着する。


「四日間、ありがとう。

本当に楽しかった……」


声が震えた。

それ以上言葉にすれば、涙が溢れてしまいそうで、言えなかった。


その瞬間、彼は強く抱きしめてきた。


ふたりとも泣いていた。

言葉にしなくても、心がすべてを語っていた。

今日で終わったのだと、そしてまだ気持ちの中では終わっていないことも。


この涙は、さよならのためではなかった。


「ありがとう、優」


「ありがとう、ひかり」


その言葉に、肩の力が少しだけ抜けた。



長く、果てのない道の始まり

この瞬間が、その序章に過ぎないとは、まだ気づけずにいた。



第一章 完

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