第一章〜赦されない罪と切なさ〜

月曜日の朝の「おはよう」のメール。

たったそれだけの言葉の裏に、いくつもの思いが交差する。


「おはよう、昨日何してた?」

ストレートな問い。

遠回しに探らない、優らしいまっすぐな言葉。

だけど、その裏にあるほんの小さな棘を

私は確かに感じ取った。



「おはよう、夜、ご飯行ってたよ。今週乗り切ったらGWやな

頑張ろうね

いってらっしゃい」

言い訳はしたくなかった。

でも、正直にもなれなかった。

誰と行ったのかは言わない。ほんの少しの嘘。

たった一行の違いが心をこんなにもざわつかせる。

彼は気づいているのか。

気づいていて、聞いたのか。

それとも、ただ知りたいだけだったのか。


わからないまま

私は少し重たい足取りで仕事へ向かった。

「おはよう」

本当はその一言だけで今日もつながっていたかったのに。


優から音沙汰はないまま週末を迎えた。

GWの始まり。

私は仕事を終え、その足で関空へと向かう。

彼氏と落ち合い、セブ島へのバカ

ンス。

本当は、気が乗っていなかった。

でも、彼がこの日のために頑張って取ってくれた休み。

大切にしないといけないと思った。

彼の仕事は、GWなんてとても休めるようなものではない。

盆も正月もない、長期出張も当たり前の生活。


だからこそ、やっと取れた貴重な時間だった。

行けば、それなりに楽しめる。

そうわかっている。

だからーー

気持ちを切り替えて、笑顔で向き合おう。

今は、心を整える。

セブ島の陽射しに、すべてを預けるように。


トランジットの待ち時間。

硬い椅子に腰掛け、私は少しだけうとうとと眠りに落ちる。

「ひかり」

名前を呼ばれて目が覚めたその瞬間、自分が“優の夢"を見ていたことに気づいた。

どんな夢だったかは思い出せない。

でも、確かにそこに優がいた。

声も、温もりも、夢の中のものとは思えなかった。

...会いたい。

胸の奥がきゅっと締めつけられる。


タイトなスケジュールのセブ島旅行。

けれど、彼は一日、現地の知人に会って取材を入れていた。

そのことを聞かされたとき一ー

「どうしてプライベート旅行なのに、仕事入れるの...?」

少し気分が悪くなった自分がいた。

だけど今は、それが”ありがたい”と思える。

少しでもひとりになれる時間。

優のことを思える時間。

私にとって、その1日は小さな救いだった。


私にとって、セブ島は初めての場所。

彼氏にとっては、もう7回目の訪問だという。

それでも、私にとってはどれもが

"はじめで”で、

鮮やかな色彩と湿った風、ローカルの笑顔に心を奪われながら、観光を楽しむことができていた。

マゼランクロスの存在感が特に印象的だった。

信仰と歴史の深さがその木製の十字に刻まれていて、

なんとなく息をのんでしまう。

コロンストリートではディープなローカルフードに挑戦した。

屋台で出されたものは名前もわからないものばかり。

でも、彼が「これは大丈夫」と選んでくれたものを一緒に食べる時間は、なんだか遠い国で "カップルらしいことをしている気がした。

その夜、ホテルのベッドに横たわると、あっという間に1日が終わった実感だけが残っていた。

翌日は、彼が一日中いない日。

現地の知人に会って取材をするため、朝から夕方まで不在になる。

彼が出かける姿を見送ったあと、私は朝食をひとりでとり、そのままホテルで過ごすことに決めた。

ゆっくりスパに入り、ボディケアを受ける。

南国らしい穏やかな空気に包まれて、時計の針も心なしか緩やかに進んでいくようだった。



優は、今ごろ何をしているのだろう。

どこで、誰と、何をしてるんだろう。

そんなことをふと思う。


彼のことを思いながら、私はふわりと風の抜けるテラスに出て、空を見た。あの空の先に、優はいる。

でも、触れられない。

その現実が、私の胸をまた少し苦しくさせた。


次の日は、まだ薄暗いうちにホテルを出発し、オスロブへと向かった。

目的は、野生のジンベイザメと一緒に泳ぐツアー。

彼が「絶対感動するから」と言っていたその光景は、

想像を遥かに超えていた。

青く深い海の中、目の前を悠々と泳ぐ巨大なジンベイザメ。

優雅で、どこか神聖でーー

私は息を呑み、水中で思わず涙が出そうになった。

「こんな体験、なかなかできないね」そう言い合いながら、その後、小さな港町を散策する。漁船がゆっくりと行き交い、子どもたちが笑いながら走り回る海辺の町。

夕方になると空がオレンジ色に染まり、

私は静かに夕陽が海へ沈んでいくのを見つめた。

何かを手放すような、そんな気持ちになった。

その夜はシーフードレストランで食事をとり、

次の日からはマニラへ移動。

セブのゆったりした時間とは一変し、マニラは喧騒とエネルギーに満ちていた。


二日間の滞在中、ショッピングモールをいくつか巡った。

彼は器用に現地の言葉を使いながら、あれこれ買い物を楽しむ。

そのうちのひとつ、小さな雑貨店で目に留まった革のキーケース。

「それ、お父さんにお土産?」ふと彼がそう訊ねてきた。

「うん......」とだけ答える。

「だったら、こっちの色味の方が良くない?

ひかりのお父さん、こういうの好きそう」


ーー違う。

本当は優へのお土産。

でも、そんなこと言えるわけがない。

彼が触れたその瞬間、もう買えなくなってしまった。

優のものには、できなかった。


「ちょっと、あそこのルアー見てく

るわ」

そう言って彼がショップの中に吸い込まれていく。

釣りに行く時間なんてなさそうなのに、やたら楽しそうだった。

ーー今しかない。

私は静かに小さく息を整えて、彼と逆方向に歩き出した。

「私も色々見たいから。30分後、あそこのベンチで待ち合わせしよ?」

「ええよ、ゆっくり買い物楽しんでな。

スリには気をつけて!」


その言葉を背中に受けながら、話は駆けるように雑貨屋をめぐった。

焦る気持ち、時間との勝負。

でも、それは”逢えない時間”にできる、唯一の贈り物のようだった。

2件目の店で、小さな木製のキーリングに目が止まる。

少し丸みを帯びた、手のひらにしっくりくる温かさ。

しかも刻印までしてもらえる。

「Y」

そう、彼のイニシャルを。


彼氏には、もちろん見せられない。

だから、父へのお土産として新しく皮の名刺入れを選んだ。

値は張ったけれど、それで帳尻は合う。

30分が過ぎた頃、指定のベンチへ向かうと、彼もちょうどやってきた。

「いいの買えた?」

「うん。お父さんの買ったよ。皮の名刺入れ」


「そっか、よかった。

じゃ、ランチしよっか」

私は笑顔で頷く。

バッグの奥には、小さなキーリング。

Yのイニシャルが静かに息をしている。 



「何食べようか?ひかり、何食べたい?」

「そろそろ、日本食が恋しいけど.....あるんかな?」

「あるにはあるけどさ、クオリティが...笑」

「そっか。じゃ、任せる。夜はさ、持ってきたどん兵衛食べようか。UFO

もあるよ?笑」

「せやな。うどん、食べたいな。昼はフィリピンの家庭料理にしよっか」


そうして選んだ「アドボ」。

醤油と酢が効いた煮込み料理は、意外にも日本人の舌に合っていて、どこか懐かしいような味だった。

「おいしいな」

「うん。洋と和の間、みたいな味やね」

それだけの会話で済ませられるくらい、心の中は静かに沈んでいた。

食後はカフェでコーヒー。

軽く観光客向けに整えられた内装と、やたら甘い香りのコーヒー。

目の前には彼氏。

でも私の心は、別の誰かを思っていた。


ホテルに戻る。

旅行バッグのジッパーを閉めながら、思わず手が止まる。

"Y"の刻印のある、あのキーリング。

私も同じものを買った。丁寧にポーチに包み直す。

明日はもう、帰国の日。

でも気持ちは「帰る」というよりも、「戻る」だった。

早く帰りたいーー

それは、優に会いたいという気持ちと、

優に会えない間に押し寄せる罪悪感と切なさから解放されたい気持ちとがぐるぐるに絡まって生まれた想い。


この旅は、

誰にも言えない想いとともに終わりを迎えようとしている。


朝食をとりチェックアウトを済ませる

「時間あるから街中の観光行こうか」

昨日は一日中ショッピングを楽しんだ

観光はしていない。


イントラムロスに行くことにした

「中世のヨーロッパの街並みみたいやなぁ

フィリピンで気がしないよね」

それを聞いて

彼が歴史を話してくれる

でもあまり頭に入ってこない


マニラ大聖堂にも行った

私は全て見透かされている大きな罪に心が傷んだ

その荘厳な空気に包まれて、マニラ大聖堂の中で静かに息を吸い込んだ。

ステンドグラスから差し込む光、厳かな鐘の音、静まりかえった空間。

でも、心の中は静かではいられなかった。


彼が隣で軽く肩を寄せてくる。

「ひかり、写真撮ろうか?」

「うん......」と応える声が少し震えていたかもしれない。

何に対する罪か、誰への裏切りなのか、

優しいまなざしを向けてくれる彼氏にも、

心の奥にいつもいる優にもーー

どちらにも真っ直ぐ向き合えていない自分への、

逃げ続けてきた自分への罪だった。

マニラ大聖堂の天井を見上げながら、「神さまって、どこまで見てるんやろう」と思った。


優との日々も、彼氏との旅行も、全部見てるとしたらーー

その上で、

「あなたは今、どうしたいの?」って静かに問われている気がして、私は目を閉じた。

この旅が終わっても、何も終わらない。

けれど、優に会いたいという気持ちは嘘じゃない。


もうすぐ、日本に帰る。

空港へ向かう車の中、彼氏の横顔を見ながら、言葉にできない感情をそっと胸の中にしまった。


アキノ国際空港に到着した。

予定より少し早く着いた。


「最後に何か買いたいものある? 時間あるから、ちょっと見て回る?」

「私はもう大丈夫。家族にも、会社にも、友達にもお土産買ったし」

「じゃあ、俺ちょっと見てくるわ。そこ座ってて」


彼がショップに向かう。

その間、私はまた携帯を手に取っていた。

何度も見たって、優からのメールは届いていない。

そんなこと、とっくに分かってるのに。

私が誰と旅行しているか、優はきっと気づいている。

だから何も言ってこない。


――GW後半、私は優と過ごせるんやろか。


そんな不安が、ふいに胸の奥からこみ上げてきた。

心にぽっかりと穴が空いたような感覚。

空港のロビーには、お土産袋を抱えた家族連れや、ゲートへ急ぐ観光客たちの笑い声があふれている。

でも、その中で私だけが、ぽつんと時間を止めていた。


優は今、何を思ってるんやろ。

もう冷めた? 怒ってる? それとも呆れてる?

考えたくないのに、勝手に頭の中で言葉がこだまする。


「ごめんな、セブに行くって聞いてから、ちょっと距離置きたかってん」

もし、そんなふうに言われたら?

「俺、なんか間違ってたんかもな」

そんなふうに、終わりの言葉を告げられたら――


「ひかり!」


彼の声で我に返る。

「水、買ってきたよ。喉、乾いてたやろ?」

「あ、うん……ありがとう」


優のことなんて、きっと顔には出してなかったと思う。

でも、彼はどこか不思議そうな目で私を見ていた。

ちょうどそのとき、搭乗のアナウンスが響く。


旅の終わりが、すぐそこに来ていた。

そして日常が、また始まる。

優のいない6日間が、ようやく終わろうとしている。


でも――

帰った先で待っているのは、あの「いつも通りの日常」なんだろうか。


GW後半、優と過ごすって決めたのに、まだ何も決まってない。

それでも私は、心の中で強く思っていた。


会いたい。

会いたいよ、優。

それだけは、嘘じゃない。


深夜、空港に到着した。

入国手続きには時間がかかり、こんな時間にもかかわらずロビーは混雑していた。

なかなか荷物が出てこず、やっとターンテーブルのランプが点いた頃には、飛行機が着いてからすでに2時間が経過していた。


「ひかり、タクシーで帰ろう」


彼が、マンションまで送ってくれた。

エントランスで立ち止まり、私はふと口にする。


「……上がっていく?疲れてるなら、やめとく?」


本心ではなかった。

ただ、そう言ってみただけ。

「うん、じゃあそうしよっか」なんて返ってきたら、どうしようと内心焦る。

「さすがに、この時間やし明後日から出張やからまた改めて連絡するわ」

彼のその言葉に、ほっとした。


安堵と、罪悪感が入り混じった「ほっとした」だった。


身体は確かに疲れていた。

でもそれ以上に、心が張り詰めていた。


優からの連絡が、一度もなかった六日間。

その事実が、胸の奥にずっと引っかかっていた。


玄関の鍵を開け、靴を脱ぎながらリビングに入ると、空気がどこか違って感じた。

自分がいないあいだも、ただ時間だけが淡々と流れていた部屋。


旅行の余韻も、お土産の袋も、いまの私にはノイズにしか思えなかった。


キャリーバッグを開ける気にもなれず、顔だけ洗って、そのままソファに倒れ込む。


携帯を見る。

通知はほとんどない。

そして、やっぱり優からのメッセージもない。


――木製のキーリング。

ポーチからそっと取り出して、手の中で転がす。

「Y」

彼のイニシャル。

そんな自分に、胸が締めつけられる。


このまま朝まで眠れない気がした。

でも、「明日、優から連絡が来るかもしれない」と思った瞬間、少しだけ目を閉じられた。

それでも、なかなか眠れなかった。


いつの間にか眠っていたのだろう。

目が覚めると、すでに午後を過ぎていた。


優からのメールは、来ていない。


このままもう、来ないのかもしれない。


そう思ったとたん、胸が締め付けられた。

涙がこぼれる。

会いたい……。

荷物の片付けも手につかず、何もせずに時間だけが過ぎていく。

重い体を起こしシャワーを浴びる。


その夜。

携帯が鳴った。

優からだった。


「もしもし」


「ひかり、もう帰ってきてるんやろ?」


「うん」


「今ひとり?行ってもええか?」


「うん」


その「うん」には、言葉では言い表せない想いのすべてが詰まっていた。


張り詰めていた気持ちが、たった一つの着信で崩れ落ちた。

優の声、優しさが、静かに私の胸を溶かしていく。


時計は、夜の9時を過ぎていた。

玄関の鍵を開けて、私はぼんやりと立ち尽くしたまま、優の気配を待っていた。


10分後。

インターホンが鳴る。

ドアを開けると、そこに優がいた。


何も言わず、私は彼にしがみついた。

言葉なんて、必要なかった。

ただ、優の腕に包まれて、心の底から思った。


――あぁ、やっと帰ってこれた。


涙はもう止まっていた。

私はそっと目を閉じる。

それだけで、よかった。


「ひかり、おかえり。座ろっか」


ようやく会えた。

優がここにいる。


「ひかり、荷物そのままやん。1日、何してたん? 連絡もくれんと。明日から俺んとこでGW後半戦やで。早よ片付けな!」


「……後でする」


「一緒に片付けよ。はい、キャリーバッグ開けるで」


彼の背中にそっと抱きつく。


片付けなんて後でいい。

今は、この腕の中にいたい。


彼の手が止まる。



その瞬間、部屋にはふたりの呼吸だけが響いていた。

わたしの腕が、優の背中をそっと包み込む。

不安も、寂しさも、恋しさも——すべてを込めたような、静かで深い抱擁だった。


彼はゆっくりと振り返り、わたしを見つめる。


「会いたかった」


低く、震えるような声。

私たちはそっと唇を重ねた。

何も言葉はいらなかった。

心と心が確かに通い合っていた。


旅行のことも、ついた嘘も、あの沈黙も、今はすべて遠ざけて。

ただ「会いたかった」。

ただ、そばにいてほしかった。


気持ちがあふれるままに、指先が、唇が、肌が、互いを確かめ合うように触れあう。


今夜だけは。

明日も、未来も忘れて。

ただ、優とひとつになりたかった。


部屋の明かりは落とされたまま、

ふたりの影は、ひとつに溶けていった。




「ひかり、落ち着いた?」


「うん、落ち着いてる」


「じゃあ、片付けようか」


「うん」


洗濯物、メイクポーチ、家族や会社、友人へのお土産

あっという間に片付いた。

優は几帳面で、手際もいい。


「洗濯まわす? いや、まわしとくで。明日出るころには乾いてるやろ」


「自分でするから、置いといて」


さすがに下着までは見せられない。

ネットに入れて、洗濯機を回し始める。


「ビール飲む? それともコーヒー?」


「コーヒー、もらおっかな」


キッチンに立って、コーヒーを淹れる。

そのなんでもない動作ひとつひとつに、「ああ、帰ってきたんだ」と実感が湧いてくる。


ドリップの香りが部屋に満ちていく中、

優はソファに座ったまま、その香りをゆっくりと吸い込むようにしていた。


「はい、お待たせ。ちょっと濃いかも」


「ありがとう。……うん、これこれ。ひかりの味や」


「コーヒーの話やんな? 笑」


「もちろん」


ふたりで微笑み合う。

まるで何日も会っていなかったようには見えない。

でも実際は、たった数日が、とても長く感じられていた。


「ひかり、セブどうやった?」


「綺麗やったよ」


「そっか?


「うん、楽しかったけど……心がどこか置いてけぼりっていうか」


優は何も言わず、ただ静かにコーヒーを口に運ぶ。


「……優に、会いたかった」


その言葉だけが、わたしの本音だった。

彼は一度だけ深く頷いて、カップをテーブルに置いた。


「おかえり、ひかり」


そのひと言に、すべてが詰まっていた。

ふたりの間に、静かであたたかな時間が、再びゆっくりと流れ始める


誰と行った旅行か、優はもう知っている。

だけど、それを口にすることも、尋ねることもなかった。

私は、ずっと優にお土産を渡せずにいた。


「その袋……ドライマンゴー入ってるんちゃう? 誰かのお土産?」


「ううん、自分用。美味しかったから、ついたくさん買って」


「めっちゃうまいよなぁ、あれ」


「えっ、好きなん? 食べる?」


「食べる食べる」


あっという間に、一袋が空になる。

やっぱり、よく食べる人やな……そんなところも、変わらずに愛おしい。


「なあ? ひかり?」


「うん? どしたん?」


「俺の……お土産、ないん?」


その顔を見た瞬間、少しだけ拗ねたような表情に思わず笑ってしまいそうになる。

でも、冗談っぽい空気をまといながらも、どこかほんの少しだけ、寂しさもにじんでいた。

それが“優らしい”と思った。


「あるよ」


「え?」


「クローゼットになおしてる」


一瞬、静寂が落ちる。

だけどその沈黙は、居心地の悪いものじゃなかった。

二人のあいだに、そっと置かれた“本音”の重みだけが、やさしく満ちていた。


優は何も言わず、私の頭にそっと手を置いて撫でてくれた。


「俺、何も聞かへんよ?」


「うん……優は、いつもそうやもんね」


「やから、渡して?」


私はゆっくりと立ち上がり、ポーチから小さな包みを取り出した。

フィリピンのモールで見つけた、木彫りのキーリング。

“Y”のイニシャルが刻まれている。


「これ……優に。“Y”は、優の“Y”」


「ありがとう、大事にするわ」

優はそのキーリングを、静かに、でも確かに手のひらで握りしめた。

そして車のキーに付けた。


洗濯が終わったタイミングで、「ピーピー」と音が鳴った。

まるで合図みたいで、二人して顔を見合わせて笑った。


「明日、何時ごろにする? ひかりの都合に合わせるよ」


「お昼前には行こうかなって思ってるんやけど。優、お昼ご飯どうする?」


「適当に済ませるつもりやけど」


「じゃあさ、駅前のお蕎麦屋さん行かへん?」


「日本食、食べたなった?」


「あたり!」


「ほな、店の前に13時集合でどう?」


「うん、そうしよう」


「じゃあ今夜は帰るわな。明日に備えて、ちゃんと寝るんやで」


「わかった」


「おやすみ、ひかり。また明日な」


玄関のドアが閉まる音がしたその瞬間、胸の奥に、ぽつんとあたたかい火がともる。

優の気配がまだ部屋に残っているようで、不思議と心が落ち着く。


たわいない会話、交わした約束

「明日また会う」

たったそれだけのことが、こんなにも心を安らげてくれる。

セブ島では、どうしても届かなかった温度。


13時、駅前のお蕎麦屋さん。

“楽しみ”という言葉を、素直に感じてみてもいいかもしれない

「……おやすみ、優」





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