第二章〜それぞれの道〜
それぞれの道を選び、歩きはじめたふたり。
交差したまま止まっていた時間は、それぞれ異なる景色の中で流れていた。
それでも同じ季節を生き、同じ空を見上げながら、
心のどこかに、互いの存在を感じ続けていた。
私は妻となり、母となった。
けれどその役割の奥には、いつも“私自身”という問いがあった。
本当の自分は、いまどこにいるのだろうと。
彼もまた、家族を持ち、守るべきものを手にした。
だがその代償として、かつての自分をどこかに置き去りにしていた。
再会は、偶然だったのか。
それとも、避けようのない必然だったのか。
「ひかり、元気?」
電話越しに響いたその声は、懐かしさと寂しさを含んでいた。
胸に、あの頃の記憶が一気に蘇る。
けれど心はもう、戻ることのできない場所を知っていた──。
***
彼とは、あの日を最後に連絡を取っていない。
それは、お互いにとってのけじめだった。
優と私だけが知る、わずか50日ほどの時間。
でも、それはまるで一生に一度の夢のようだった。
その夢は、静かに幕を閉じた。
心の奥にある宝箱に、そっとしまい込んだ“開かずの扉”
私はそれを、静かに、でも確かに閉めた....
季節は、夏
長期出張を終えた彼が、予定通り大阪に帰ってくる。
そして、ふたりの新しい生活が始まる。
まだ完成前のマンションも、新居として決まった。
仮住まいを経て、未来へと続く場所。
私はそこで、新しい名前を得て、彼の妻になる。
9月、私の誕生日に入籍し、11月には披露宴を控えている。
優も、10月に結婚する。
まるで、すべてが偶然を装った必然のように。
日々の忙しさが、心の奥にわずかに残っていた熱を
少しずつ冷ましてくれているような気がした。
でも、それは冷めたわけではなく、ただ静かに沈んでいっただけだった。
披露宴を無事に終え、慌ただしかった数ヶ月の仮住まいもようやく終わる。
11月末、新居に引っ越した。
新築特有の匂いが漂う玄関を開けた瞬間、
なぜかふいに、胸の奥を懐かしさがかすめた。
思い出したのは優の部屋だった。
あのマンションも新築だった。
この匂いがよく似ている。
場所も時間も違うのに、香りだけが過去と現在をつなぎ、
ふたりで過ごした朝や夜を、ふいに呼び覚ます。
優も結婚したよね。
○○市で暮らしているのかな。
たった半年前のことなのに、
もう何年も昔のことのように思える。
心が現実に追いつくには、想像以上に時間がかかるのかもしれない。
夫は、年末までの長期出張へ出かけていった。
「ごめんな、まだ家具も入りきってないのに」
そう言いながら、スーツケースを引いて
少し申し訳なさそうに、家を後にした。
その瞬間から、私の“ひとり暮らし”が始まった。
誰もいない新しい家。
白い壁に、音が吸い込まれていく。
家具がまだ揃っていない部屋には、どこか仮住まいの面影が残っていた。
けれど、不思議とその“仮”のような空間が、心地よく感じられた。
年末までには荷物を片付けて、
ちゃんと新年を迎えよう。
そう思いながら、まだなじみきらない部屋で、
ひとり、深く息を吸い込んだ。
父の会社が、私の職場だった。
肩書きだけは「役員」。
けれど実際の仕事は、事務と秘書の兼務。
父のスケジュールを管理し、来客を迎え、雑務をこなす毎日は、地味で慌ただしい。
夕方になれば家に帰り、新居の片付けが待っている。
段ボールがひとつ減るたび、むき出しだった空間に少しずつ生活の色がついていく。
カーテンが秋風に揺れ、食器が棚に収まり、ようやく
“暮らしている”という実感が、胸に灯りはじめる。
そんなある日。
仕事帰りにふと、マンションのエントランスで足が止まった。
大きなクリスマスツリー。
色とりどりのオーナメントと光の粒が美しくきらめき、
その瞬間、胸の奥で眠っていた記憶が静かに目を覚ました。
生駒山から見た夜景。
まるで宝石をこぼしたような光。
ふたりでその景色を見つめながら、過ごした最後の夜。
「もう、会わない」
そう決めたはずの夜が、イルミネーションの輝きに重なって、
一瞬、過去と今の境界がふわりと揺れた。
でももう、それを追いかけることも、振り返ることもない。
ただ静かに、心の引き出しにそっとしまい直すだけ。
あの“開かずの扉”ではなく、
いつでも開けられる、心の宝箱という名の引き出しに──。
部屋に戻り、今日もまた少しずつ、生活の輪郭を整えていく。
今夜はウォークインクローゼットに取りかかると決めていた。
積まれた段ボールの山を前に、ひとつずつ箱を開け、
衣類を丁寧に畳んでいく。
その手が、ふと止まる。
目に入ったのは、見覚えのあるネイビーのジャージ。
彼に借りたままになっていた、あのジャージだった。
そう──あの夜。
別れを決める前の、最後の夜。
私は生理が始まって
「短パンだと辛いやろ」
そう言って、何のためらいもなく貸してくれたのがこのジャージだった。
多くを語らず、でもいつも通りに優しくて。
何も問わず、何も押しつけず、ただ“分かってるよ”と言うように。
それが彼だった。
ふと立ちのぼる、その夜のぬくもり。
そっと布に触れた指先から、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
でも、それは未練じゃない。
記憶の中で、彼が今も“優しい人”でいてくれることが、
ただ、どうしようもなく愛おしいのだ。
あの夜、わざと返さなかったジャージ。
荷物をまとめるとき、そっと忍ばせた。
「洗って返す」
それはきっと、会うための口実になると思ったから。
でも、それを口にすることもできず、
ただそのまま、持ち続けている。
彼は気づいているだろうか。
ジャージが、ないことを。
ねえ、優?
あのジャージ、まだ持ってるよ。
いつ、返せばいい?
問いかけは、今も心の中で繰り返されている。
でも、答えは返ってこない。
それは、
「もう戻らない」ことの証であり、
「まだ手放せない」ことの象徴でもある。
私はそれをきれいに畳んで、
クローゼットのいちばん奥の引き出しに、そっとしまった。
そこは“開かずの扉”じゃない。
いつでも優を思い出せる、ひとりだけの秘密の場所。
だけど誰にも見せることのない、静かであたたかな聖域だった。
その引き出しを開けることもなく、年末の慌ただしい日々が過ぎていく。
そして12月30日、夫が出張から戻ってきた。
新婚ということもあり、年明けは5日まで一緒に過ごすことに。
大晦日、年越し蕎麦をすすりながら、
「来年もよろしく」
と微笑み合い、新年を迎える。
お正月は、親戚や友人との集まりで賑やかに過ぎていった。
けれどその喧騒も、あっという間。
また、変わらぬ日常が戻ってきた。
職場では、取引先の新年の挨拶や来客の対応に追われる毎日。
立ちっぱなしで、笑顔を絶やさずにいるうちに、
知らぬ間に、体の悲鳴に耳をふさぐようになっていた。
そして、体調を崩した。
年明け早々のダウン。
数日間、仕事を休むことになった。
その静かな休養の中で、私は夢を見た。
優と、車でどこかを走っている夢だった。
行き先も景色も、はっきりしない。
けれど私は確かに、助手席にいた。
運転席の優は、無言だった。
それでも、どこかあたたかな空気をまとっていて、
あの頃と、何も変わらなかった。
目が覚めたとき、
それが夢だったことが少し切なくて、
でも、彼の優しさに触れたような気がして、
ほんの少しだけ、体が軽くなった。
優の夢を見たのは、別れて以来、はじめてだった。
言葉は交わさず、ただ隣に座っていただけ。
それだけなのに、心の奥が静かに揺れた。
目覚めたあとの、胸のざわめきにふと想う。
どんなお正月を迎えたんだろう。
きっと、奥さんと新居で、ふたりだけのお正月を過ごしたんだろうな。
「優……幸せに暮らしていますか?」
問いかけに、返事が返ってくることはない。
それでも、どこかで伝わっていてほしい──
そう願ってしまう。
体調が戻り、また会社に復帰した。
変わらない業務。
変わらない朝と夕方。
けれど、心のどこかに、ほんの少しだけ余白ができていた。
新居の片付けも一段落し、
ようやく心にも、時間にも、少し余裕が生まれていた。
そしてその隙間にふと、
しばらく遠ざかっていた“趣味”への気持ちが、ゆっくりと戻ってきた。
仕事帰りサロンに行くことにした。
そこは、少人数制の静かなサロンだった。
決して広くはないけれど、どこか落ち着きがあって、やわらかい空気に包まれていた。
白を基調とした壁には、先生の作品や、色とりどりのドライフラワー、
そして、時間がふと止まったように佇むプリザーブドフラワーたち。
作品に囲まれたその場所で、私は技術だけじゃなく、
“自分を表現する心”も少しずつ育てた。
そのサロンでは、毎回テーマが与えられた。
「凛とした静けさの中の情熱」
「遠ざかる記憶のぬくもり」
「花弁に閉じ込めた初夏」
まるで詩のようなテーマに、最初は戸惑った。
「は?なんじゃそれ」って、心の中で小さく突っ込みながら、
それでも、素材の前に座る。
逃げずに向き合っていると、ふっと、“降りてくる”瞬間があった。
言葉でも感覚でもない、
何かが自分の内側から溢れてくるような——あの感じ。
たぶんそのとき、私はもうひとりの自分とつながっていたんだと思う。
考えるのではなく、感じる。
努力でも技術でもなく、
心がまっすぐ開かれる、あの一瞬。
作品ができあがったあと、私はいつも思う。
「これ、本当にわたしがつくったの?」
そこに宿っているのは、与えられたテーマを超えた、
まだ言葉にならない“私の奥の想い”だった。
作品づくりの中で見つけた、自分の奥から湧き出す感覚──
それは、ある日、作品と向き合うことで再び呼び起こされた。
優は、いつも5本の指をすべて絡めてきた。
肌が触れるより前に、心が先に寄り添っていた。
指と指が絡んだ瞬間、言葉はいらなくなった。
ふたりのあいだに、目には見えない“ゾーン”が生まれる。
目も、口も、指先も、ひとつのリズムを刻み出していく。
もう、どこにも逃げられないほどの“今”が始まる。
私はその瞬間を、何度も感じてきた。
心と身体の深いところに、“優との合図”として。
それは、サロンで作品と向き合うときに“降りてくる感覚”とは少し違うけれど、
共通しているのは、私の内側にある“感応力”が扉を開くということ。
もし、あの手のぬくもりに色をつけるなら
それは「無色透明」という色。
見えないけれど、たしかにそこにある。
触れた瞬間に全身に広がっていく、あたたかくてやわらかい、かたちのない存在。
無というのは、空っぽではない。
「ない」のではなく、「満ちているから、かたちを持たない」。
交わした言葉も、沈黙も、すべてがそこに染み込んで、
透明なまま、静かに揺れている。
目に見えない色だからこそ、私はいつでも感じられる。
久しぶりに先生にお会いでき和やかな時間を過ごすことができた。
何回目かのレッスン終わり。
「ひかりさん、資格、取ってみたら?」
とやさしく背中を押された。
なんとなく続けていた趣味が、自分の未来と少しだけ重なるような気がして、
「はい」と静かにうなずいた。
「真剣にやってみよう」
そんな気持ちになったのは、彼を忘れるためでも、何かを埋めるためでもなかった。
それは、これまで気分転換のように楽しんできたもの。
空いた時間にそっと寄り添ってくれていた、あの趣味が、
まさか人生の中でこんなにも大きな意味を持つ日が来るなんて、あのときの私は想像もしていなかった。
今、ふと心に浮かぶ言葉がある。
優が言っていた――
『自分の力で開拓したものは、やがて自分の生きる道標になるって信じてる』
その言葉は、無理に背中を押すのではなく、
どこかでそっと、やさしく支えてくれる存在だった。
まるで心の中に静かに挟まれている“栞”のように。
何度も開くページに、目印のように残っている。
忙しい毎日のなかで、誰にも聞こえない場所で、その言葉がそっと灯りをともしてくれる。
だから、資格の話が出たときも、
ただの偶然じゃない気がした。
「今なんだ」と、心のどこかが静かに反応した。
この先に何があるかは、まだわからない。
でも、自分の力で何かを築いていくことが、きっと少しずつ、私を自由にしてくれる。
あの日、優が連れて行ってくれた釜飯屋。
あたたかい湯気と、木の香り。落ち着いた個室。
どこかホッとできる場所だった。
そこで私は、ふと胸の内をこぼした。
「私の人生って、全部親の敷いたレールの上なんよ」
中学受験も、進学も、就職も。
父の会社に入り、いきなり“役員”という肩書き。
努力を重ねたわけでもないのに、少し良い給料をもらっている自分が、どこか恥ずかしかった。
向かいに座る優は違っていた。
高校野球を自分の意志で辞め、わずか数ヶ月の準備で難関大学に合格し、希望の会社へと進んだ“努力の人”。
そんな彼の隣にいると、私は自分の「空っぽさ」が透けて見える気がして、言葉にできない情けなさが込み上げた。
そのとき、優は静かに言った。
「ひかりもチャレンジしたいことがあったら、惜しまず努力したらええよ。
どんなことでもいい。今はなくても、そのときが来たら」
それは、上からでも押しつけでもなく、
一人の人間として、まっすぐ見てくれた言葉だった。
釜飯を混ぜる木べらの音と一緒に、
その静かな時間が、心にやさしく染み込んでいった。
その言葉は、何年経っても、私の中でずっと生き続けていた。
私が目指した資格は、国家資格ではなかった。
ある協会が発行しているもので、技法を学び、身につければ
作品を販売したり、教室を開いたりと、クリエイターとしても、自由な形で創作活動できるものだった。
先生のように、自分の場所を持つ未来も、きっと描ける。
でも、当時の私はまだ、そんな明確なビジョンを持っていたわけじゃない。
ただ、何かに没頭していたかった。
自分の中にある、静かな感情を整えるように、手を動かしていたかった。
日々の仕事も、新しい暮らしも、大切なものだったけれど、
その奥でずっと、「私自身の時間」を求めていた。
あのときの優の言葉が、心のどこかに“栞”のように残っていて、
“そのときが来たら”
今がきっと、そのときだったのかもしれない。
何かに夢中になっているとき、過去の記憶は静かに寄り添ってくれる。
そして、未来への不安は、少しずつ遠のいていく。
没頭するという行為が、私を静かに、でも確実に自由にしていった。
先生は、趣味で通っていた頃とは違っていた。
穏やかで優しいだけじゃなく、プロとしての厳しさがそこにはあった。
「そこ、テキストちゃんと見てる?理解できてる?」
「何も変わってないよ」
「もう一度、最初からやり直して」
「何を表現したいの?ちゃんと明確にして」
静かな声で放たれるその言葉は、するどく心に刺さった。
“趣味で楽しむ”だけのときとは違う。
期待と責任、そして表現するということの重さ。
その壁に、何度もぶつかりそうになった。
正直、趣味でやっていた頃の方がずっと楽しかった。
そう思ってしまうこともあった。
けれどそのたびに、心の中で、優の言葉が静かにめくれる。
『自分の力で開拓したものは、やがて自分の生きる道標になる』
まるで、そのページだけが何度開いても折れない「栞」のように。
立ち止まりそうになる私を、そっとまた前に向かせてくれた。
そしてある日、ふと感じた。
「優……私、なんか見えてきたかもしれない」
「形になるかはわからないけど……でも、確かに何かがある気がする」
それはまだ、輪郭のぼやけた光のようなものだった。
だけどそれでも、確かに“自分の内側”から生まれてきた何かだった。
最初は、ただ楽しんでいた時間が「学び」へと変わっていく中で、
戸惑いや焦りが募っていた。
先生の言葉が厳しくて、うまくできない自分が情けなくて、
何度も、心が折れそうになった。
でも、ある時から少しずつ変わり始めた。
「ここ、すごくいいね」
「これは……こっちの技法と合わせたの?」
「そのアイデア、もっと活かしてみたら?」
それはテキストの通りじゃない、
“私自身の感性”が、誰かの目に映った瞬間だった。
少しずつだけど、手応えが生まれはじめた。
少しずつだけど、作品が変わっていった。
そして私自身の「心」も、変わっていった。
楽しくなってきた。
夢中になれるこの時間が、ただの逃避じゃなく、
「自分の軸」になっていくのを感じた。
もしかしたら、
優があの釜飯屋で見てくれていた「可能性」の芽って、これなのかもしれない。
形になるかわからない。
でも確かに、私の中から生まれてきたものだった。
あの時から、私は少しずつ変わっていった。
先生の厳しい言葉にも向き合いながら、
ひとつひとつ乗り越えて、自分の手でカタチをつくっていった。
そして、気づいた。
「楽しい」と感じている今の私が、ほんの少し、誇らしかった。
それはきっと、
初めて“自分を好きになれた瞬間”だった。
これまではいつも、親が敷いたレールの上を選んで歩いてきた。
与えられたものの中で生きてきた私。
でも今は違う。
途中下車して、違うホームに立って、
自分の意思で選んで乗った、新しい電車。
その窓から見える景色は、誰にも決められていない。
自分で選んだ、まだ見ぬ風景。
「違う景色は、自分で変えて見ていくものなんだ」
そう思えたことが、なにより今の私の誇りだった。
優は、私の心の中でずっと光り続けている。
決して消えることはなく、だけど束縛もしない。
それはまるで、夜空に浮かぶ星のようだった。
いつでもそこにあって、けれど私は、
自分の足で地面を踏みしめて、ちゃんと歩いている。
その歩みを支えてくれているのは、
優が実践してきた生き方と、優の残した言葉。
それが、私の中でモチベーションとなり、
迷いそうなときに、もう一度前を向かせてくれる。
私は一人じゃない。
過去も今も、そして未来も。
心の中で、優と一緒に歩いている。
そしてこれは重罪で決して許される事ではないのだ。
そろそろ、資格試験を受けてみよう。
そう思ったのは、自分の歩いてきた道に、ひとつ形を与えたかったから。
でもそのとき、先生に言われた言葉が心に重く響いた。
「ダメで元々なんて思うなら、試験を受けないで。そういう人は、受ける資格さえありません」
胸をぐっと掴まれたような気がした。
だけど、私は迷わなかった。
「私は、合格する自信があります。だから、エントリーさせてください」
それは、奢りでも逃げ道でもない。
自分で選び、歩いてきた道を、自分で認めるための決意だった。
試験課題は全6パターン。
それぞれに、想いを綴ったレポートを添える。
求められるのは、技術だけじゃない。
「何を、どうして、伝えたかったのか」
その根っこを問われる試験だった。
もし、あの頃の私だったら、きっと尻込みしていただろう。
けれど今は違う。
迷いながらも手放さずに積み重ねてきたものがある。
そして、それを忘れずにいられたのは、
優がくれた言葉が、静かな栞のように、ページをめくってくれたから。
試験は二日間にわたって行われた。
1課題につき2時間、計6課題。
すべてに言葉を添えながら、私は “今の自分” を表現した。
満点ではなかった。
でも、先生は言ってくれた。
「受けた中で、あなたが一番評価が高かったのよ」
その言葉が、何より嬉しかった。
ただ器用に作れたからではない。
伝えたいことが、作品に宿っていたからこその評価だったと思う。
“私自身が選び、歩いて、表現した人生” が
初めて、目に見える形になった証だった。
季節は、6月。
紫陽花が街を、淡い紫と紅に染めていた。
少し湿った空気に、光が揺れる並木道。
その日、私が選んだのは、春夏仕様のネイビーのワンピース。
あの日、一優と出逢ったときに着ていたものだった。
でも、同じ服でも、その日の私はまるで別人だった。
揺れる裾の先には、自信があった。
胸元には、小さくても確かな誇りが宿っていた。
講師認定証を受け取るとき、手はわずかに震えていた。
けれど、その指先には、たしかな努力の記憶が刻まれていた。
あの頃は、ただ何者かになりたくて、誰かの隣にいたくて。
何も知らないまま、笑っていた。
でも今は、自分で一つの扉を開けた。
優、見てる?
私は今、自分の足でここまで来られたよ。
まだまだだけど、でも確かに。
紫陽花が淡く揺れる並木道を歩いて、
初めて「自分の証」を胸に抱いた。
それは、何かになるための“通過点”ではなかった。
サロンのことも、表現者としての未来も、まだはっきりとは見えていなかった。
ただひとつだけわかっていた。
“優がくれた、心の栞”が、初めて形になった日だった。
ワンピースの胸元に、初夏の風がそっと触れた。
それはまるで、「よく頑張ったね」って、
優が静かに肩に手を置いてくれたような気がした。
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