変装王女 2

 下町の入り口は、大通りからたった一歩ずれただけで、空気が別の言語を話しはじめる。正午のはずなのに、光の配分はケチくさく、影のほうが権利を主張している。石畳は王都の規格に従って並んでいるが、表面は市場でこぼれた油や果汁で薄い膜ができて、靴底が小さく文句を言うたびに、俺は“こっち側”へ踏み込んだ証拠を残していく。


リディアはフードを深くかぶり、青い目で路地を測量していた。真っ直ぐな定規で波打つ線をなぞれば、紙が破れる。だから俺たちがいる。俺とゴルザ、曲がる技術を持ち歩く二人組だ。


「ここから先は、あまり良くない噂がある通りです」


 リディアの声は小さいが、芯があった。育ちの良さはだいたい声の揺れ幅に出る。


「良い噂は高い。庶民の俺たちは、悪い噂のバーゲン会場に通うのさ」


「お得って言葉の意味を、もう一回確認することをお勧めするよ」ゴルザが肩で笑う。あいつが歩くだけで、路地の犬は鼻を鳴らして退く。でっかい看板を連れて歩いているようなもんだ。怪物の隣を歩けば、人は怪物に見られにくい。


 屋台のひしめく帯を抜けると、建物が互いの肩を抱きしめすぎて、昼の光が割り込めない細い路地に出た。壁の隙間から下水の匂いが顔を出し、洗っていない真実みたいに鼻の奥に居座る。影は冷たいが、噂は熱を持つ。ここでは人が消える話がやけに多い。円と裂傷の紋章――黒環。名指しは影の顔を変えるから、俺は口に乗せる順番を選ぶ。


「ここで、兄を見失いました」リディアが立ち止まった。指先がわずかに震える。恐怖というより、三日前の像を身体が反芻している震えだ。


 俺はしゃがみ、石畳に触れた。痕跡は残らない。けれど湿気の奥に、洗いきれない鉄の影がある“気がした”。それでいい。真実は気配で嗅ぐくらいが丁度いい。はっきり嗅ぎ取ったら、それはもう死臭だ。


「荷馬車の影で、黒い紋章の人たちが……」彼女が“黒環”を言い切る前に、路地の空気が紙やすりみたいにざらついた。噂の耳が、俺たちの会話に顔を寄せる。


「人気者はどこでも囁かれる。俺も昔、“飲みすぎのアッシュ”って呼ばれてた」


「今もだろうが」ゴルザ。


「失礼だな。今は“飲みすぎで面倒ごとに首を突っ込むアッシュ”に昇格した」


「そりゃ降格っていうんだ。一つ賢くなったな」


 軽口の火は小さいが、凍った空気の角を溶かすには十分だ。リディアの肩の緊張が数ミリだけ落ちた。


 路地の奥から、靴音。三人。革靴、硬い歩幅。武器の重さを足裏で数えてる音。右腕の内側で、古い痣がじわりと熱を持つ。まだ寝てろ。昼の世界にまで銃声を持ち込むな。壊すのは簡単だが、直すのはいつだって間に合わない。


「迎えだ」ゴルザの声は低いが、壁より厚い。


 角から三つの影。黒い外套、袖に円と傷の紋。名乗らなくても自己紹介が済む種類だ。声を使わない連中は、だいたい刃物で語る。


「迷子か? 案内所は向こうだぞ。俺は方向音痴の相談には乗るが、刃のメンテは専門外だ」


 返事は鉄の摩擦音だった。短剣が三本、石畳の光を切り刻む。


 最初の一人が距離を詰める。刃の冷気が鼻先を掠める。俺は半身に捻って肩で腕を弾き、反対足で石畳を軽く蹴る。火花。拳を頬に押し込む。鈍い音。男が崩れる。世界は一拍、静かになってまた音楽を続ける。


 残り二人はゴルザへ。巨体が前へ出ると、空気がきしむ。片腕で刃を受け、もう片腕で首根っこを掴み壁に叩きつける。雑に見えて、寸法が正確だ。あいつは乱暴な緻密さを持っている。


 三人目が俺の視界に擦り込まれる。刃が振り下ろされ、風が裂ける。半歩退いて、袖口に力。痣が熱を吐き、視界の縁が白く滲む。やめろ。俺は歯を噛み、膝で腹を抉る。空気が押し出され、刃が石に落ちる。金属の音は路地でよく響く。肩で体を壁に貼り付け、「男はどこだ」と問う。声は自分のものより粗い。痣が内側から拍手してる。やめろ、今日は観客席で静かにしとけ。


 男は笑った。情報を持ってる人間の笑いだ。黙っていることが報酬になる種類の仕事。


「やめろ」ゴルザが呼ぶ。壁の向こうから、湯気が現実に戻れと言うみたいに。


 わかってる。俺は力を緩め、男を突き放した。崩れる影。リディアの青い目が俺を見ている。恐怖、驚き、そして――細い信頼。俺は視線を逸らす。痣の熱はまだ芯に残っている。眠ったふりを続けろ。


 黒環の三人は、つまずきを拾い集めながら退いた。残ったのは鉄と汗の匂い、そして路地の壁に貼り付いた沈黙。


「やっぱり夜にやるべきだ」俺は息を吐く。「昼は音が似合わない」


「お前の冗談もだな」ゴルザが肩をすくめる。


 リディアは胸の前で指を組んでいた。俺は水筒を差し出す。ためらい、受け取り、ひと口。喉の動きが小さく震えた。


「怖いです」


「怖がるのは生きる技術だ。怖がらないやつは、だいたい早めに伝説になる」


 彼女は瞼を閉じ、律儀に頷いた。礼儀正しさの角が少し丸くなる。よし。


 市場の通りへ戻ると、音と匂いがさっきの緊張を上書きする。焦げた肉、柑橘の皮油、魚の冷たい金属臭、香草の湿った緑。叫び声、値切り声、笑い声、嘘の前奏曲。俺は耳の片方だけを開け、もう片方は危険のために残す。風が変わるとき、開けておいた方がいい側の耳が必要になる。


「アッシュ」ゴルザが並ぶ。「お前、今のはまずかった」


「俺はいつもまずい。たまに旨い。料理と同じだ」


「真面目に言ってる」


「真面目は俺の第二言語だ。発音に難があるが」


 ゴルザはため息だけを残して黙った。あの沈黙は責めてない。隣で壁になってくれる沈黙だ。俺は軽口で錆を落としながら、壁のありがたみを背中で受け取る。


 露店の先で、干し果物を売る老婆が俺たちを呼び止めた。「あんたら、さっきの路地で音を立てたろ」


「音は勝手に立つ」俺は笑う。「俺たちは風紀委員さ」


「風紀の顔じゃないね」老婆は唇の片端で笑い、ひと切れの干しイチジクを差し出した。「噛みしめると、昔の話が出てくる。喉が欲しがってる顔だよ、お嬢さん」


 リディアはお礼を言ってイチジクを受け取り、小さく囓る。甘みは少なく、種のざらつきが残る種類だ。庶民の甘さは、歯に残って現実を教える。


「黒環の噂を聞きに来たなら、耳に綿でも詰めときな」老婆が顎で示す。「あんたらを尾けてるカササギがいる」


 カササギ。街の情報屋の通称だ。黒と白の服で気取っている若造。俺はふわりと振り向く代わりに、反対側の屋台の鏡面鍋で背後を覗く。映った。黒白の布、細い肩、視線の癖。尾行の背丈は、話の丈と一緒に伸びる。


「礼を言う」ゴルザが干し果物を一袋買い、老婆に渡すコインはルメリア鋳造の正規貨だ。たまたま、老婆の掌に銅貨が一枚乗って、俺の目に刻印が刺さる。円に短い傷。黒環と似た意匠だが、鋳が甘い。偽物か、あるいは裏の支払い専用の符牒だ。


「それ、どこで?」俺が訊くと、老婆は鼻で笑った。「世間が落とした小言さ。拾ってないふりしとくのが大事」


 尾行が距離を詰める。子どもスリが二人、俺たちの裾に近づいて来て、リディアの腰袋へ手を――入れる寸前に、俺は飴玉を子どもらの掌へ滑り込ませた。「お仕事の時間は終わりだ。今日は別の役をやれ」


 二人はビクついた目で俺を見、飴玉と俺の顔とを二往復して、走り去った。飴は武器じゃないが、武器より役に立つ午後がある。リディアが小さく目を丸くする。


「犯罪の抑止に砂糖が効くなんて、初めて知りました」


「砂糖は世界最古の賄賂だ」ゴルザが肩で笑う。「俺の給料にも入れてくれ」


「お前に砂糖を入れると、町の在庫が死ぬ」


 尾行が根気よく、だが不用心に付いてくる。撒くのは簡単だ。だが今日は、喋らせたほうが早い。俺は通りの角でふっと速度を落とし、反対側の反射鍋に映る顔が近づいた瞬間に、背中で風を押して路地へ吸い込み、相手の回り込みを待ってから壁と自分の肩で挟み込む。丁寧な押し問答だ。


「よう、カササギ」俺は明るく声をかける。「羽根の手入れは行き届いてるか」


「乱暴だな」細い肩が笑った。若い。頬の骨が薄い。瞳がよく動く。「乱暴なのに香水の匂いがしない。珍しい」


「香水が似合うのは、後悔のない人間だけだ」俺は軽く力を緩める。「黒環の話を売れ。値段は、俺が後で決める」


「それ、買ってから決めるって意味だよね? おもしろい支払い方法だ」カササギは肩をすくめた。「街は今、黙ってるよ。表向きにはね。荷馬車。白い帆布。車輪の油に松脂を混ぜてる。匂いが独特だ。井戸端通りの裏、壁に二重の白い印。今夜なら、誰かがそこを通る」


「印は誰が付ける?」ゴルザ。


「運ぶ側。客に合図するためさ。あんたらが今日の昼間に暴れたおかげで、今夜は場所を変えるかもしれないけど」


「お前、黒環の端っこを齧ってるな」俺は目だけで笑う。「歯が欠けるぞ」


「鳥は歯がない」カササギは口笛を短く鳴らした。「でも舌はある。あんたらは?」


「舌は落ちつきなく動く」俺はリディアに視線を送る。「行こう。印を見に」


「代金は?」カササギが手を出す。裏通りの礼儀だ。俺はゴルザの干し果物袋からイチジクを一つ取り、カササギの掌に置いた。「噛んでる間は喋らないだろ。安全だ」


「最悪の支払いだ」カササギは笑いながら頬張る。「今夜、同じ時間、同じ影にまた立ってる。喋り足りないから」


「喋りすぎは寿命を縮める」ゴルザが言い、俺は「いいじゃないか、寿命は長いと退屈だ」と返す。リディアは苦笑に近い表情で、そのやり取りを見ていた。彼女の笑みはまだぎこちないが、笑う訓練は生きる訓練の一部だ。


 井戸端通りは名前ほど湿っていない。昼の熱で石は乾き、井戸の縁には洗い場の石鹸かすが薄い白を残している。裏手に回り込むと、壁の下のほうに二重の白い線。石灰だ。行き先の“目印”にしては幼い。幼いからこそ、誰も目印だとは思わない。


 壁に寄ると、鼻にタール混じりの油の匂いが刺さる。松脂、獣脂、古いロープ。荷車の車軸の手当だ。カササギの言っていた匂い。ここを通っている。俺は指で線をなぞる。粉が指腹に付く。乾いている。昨夜か、今朝早くか。


「兄は、こういう印を知っている?」俺が訊くと、リディアは首を振った。「知らないはずです。……兄は、そういうことから遠い人で」


 “遠い人”という言い方が、育ちの地図でしか距離を測ったことのない人間の言い方だ。俺は目で壁の端から端まで距離を測る。足跡は消されている。だが消し方に癖がある。踵の戻しが浅い。消す癖は、消し去れない。


「今夜、ここで張る」ゴルザが短く言う。「昼は動かない。目も多い」


「昼に動くのは、馬鹿か、急ぎの馬鹿だ」俺は頷く。「だから俺たちは賢く待つ。……その前に腹」


「仕事の前に飯」ゴルザの顔が少しだけ明るくなる。こいつは鍋の前で神になる男だ。食い物の話題は、あいつの機嫌を正しくする。


 薄暗い食堂に入ると、木の卓に塩と酢、薄いスープの匂い。主人は俺たちを見ると、客の数と問題の数を合算するような目をしたが、ゴルザの肩幅を見てから帳尻を合わせた。


「柔らかい肉、固いパン。塩は控えめ、油は新しいやつ」俺が告げると、主人は「賢い注文だ」と笑う。賢い注文は胃に優しい。どうせ夜、胃は仕事を増やされる。


 料理を待つ間、窓の外を人の流れが横切る。リディアはスプーンを指で回しながら、落ち着かない目をしていた。青は真っ直ぐだが、じっとしていられない。俺はその落ち着かなさを嫌わない。落ち着かない人間は、まだ希望を手放していない。


「ねえ、アッシュさん」彼女が小さく切り出す。「さっきの……右腕、痛むのですか」


 ゴルザがスープを掬う手をぴたりと止め、俺を見る。俺はスプーンの柄で皿の縁を軽く叩き、笑った。「古い地図みたいなものだ。時々、まだ使えると嘘をつく」


「嘘?」リディアの眉が寄る。


「役に立つ嘘がこの世界を支えてる。約束と同じだ。守られるまで嘘だが、守られた瞬間に真実になる」


「はいはい、詩人の詭弁」ゴルザがパンを割って言う。


「詩人は生き残りの専門家だ」俺は肉を一口、噛む。「余白を増やして戦争を避ける」


 飯は簡素でも、体は機嫌を直す。食堂を出る頃には、リディアの目の焦りが少し落ち着いていた。日が傾き、影が商売を始める準備をしている。通りの端で、さっきの子どもスリの片割れがこちらを見て、手で輪を作り、指でちょんと裂く仕草をした。円と傷。真似事にしては出来がいい。真似事が上手い街は、だいたい真似の元が近くにいる。


「合図だな」ゴルザが言う。「面白くなってきた」


 俺たちは井戸端通りの裏に戻り、壁の白線の向かいで影を借りた。夕暮れが色を落とし、石灰線の白さだけが暗闇の縁で目に刺さる。右腕の痣は嘘みたいに静かだ。眠りが深いときの胸みたいに、ずっと上下しないでいる。俺は眠らせておきたい。夜は長い。撃つ音は、最後のカードに取っておく。


「アッシュ」ゴルザが囁く。「お前、今夜は引き金を我慢できるか」


「約束しない」俺は正直に言った。「約束は嘘になることがある。嘘は嫌いじゃないが、お前の目の前でつく種類の嘘じゃない」


「上出来だ」ゴルザは口角だけで笑う。「約束しないって約束だな」


「それ、哲学の罠」


「学があるだろ?」


 影が伸び、街の音が落ちる。誰かの足音が規則正しく近づき、途中で速度を落とし、白線の前でわずかに止まる。息を殺した相棒の肩の温度が、闇の中で頼りになる。リディアの呼吸は浅く、でも逃げない。いい。逃げないから、助けられる。


 荷車は来ない。代わりに、細い影が壁際の石を指で叩いた。二度、間をあけて一度。内側から鍵の返事。壁が“開く”ことはないが、路地の奥の戸口が食事の合図みたいにわずかに動いた。


 扉の隙間から、白い帆布の端が見える。松脂の匂いが、今度ははっきりと鼻を刺す。俺は目でゴルザに合図を送り、リディアの肩に軽く触れる。始まる音は静かだ。鈴のような、ため息みたいな、見落とすと一生後悔する種類の音。


 俺たちは影の濃度をひとつ上げ、夜の側へ足を入れた。物語は歩き続ける。扉は閉じない。閉じないのが、俺の縁起だ。

 

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