変装王女 3

 路地の奥は、王都の肺のように湿っていた。昼にため込んだ熱が石の隙間で冷え、呼気のようにゆっくりと漏れている。俺たちはその吐息のなかで肩を寄せ、音の少ない会話だけをやりとりしていた。店から持ち出した包帯、体温の残る水筒、ゴルザの濡れ布。戦いのあとは、だいたいこういう据わった静けさが来る。静けさは平和じゃない。次の音の準備運動だ。


「痛むか?」と、ゴルザが訊く。声は鍋と会話するときの低さだ。あいつの低音は、世界の皺を伸ばす。


「痛まないふりをしている」と俺。右袖の下で、古い痣がちゃんと黙っていることを確かめる。今日は撃っていない。撃たずに済んだ。済んだことにしておく。俺の体はたまに、過去の戦場を現在形で語りたがるからな。


 リディアはフードを少しだけ外し、壁にもたれて深呼吸をした。青い目は夜に慣れてきたらしい。それでも、指先は落ち着かず縫い目をさぐっている。縫い目が多いのは、何度もやり直した証拠だ。彼女の「旅人の格好」は、やり直した手つきが丁寧すぎる。丁寧な変装は、だいたい本物の上品さが滲んで失敗する。


「さっきの、ありがとうございます」彼女の声は小さく、芯がある。「私が……足を引っ張ってしまって」


「足を引っ張るのは、前に出た証拠だ」俺は片目で笑う。「後ろ向きに転ぶやつはいない。ついでに言うと、俺は転ぶ前の人間を持ち上げるのが趣味だ」


「お前の趣味は酒と女と厄介ごとだろう」と、ゴルザ。口調は皮肉だが、濡れ布の絞り方はやさしい。彼がリディアの手に布を渡すと、彼女は一瞬だけ戸惑い、すぐ礼を言って頬の泥を拭った。


 路地の入口を、猫が影のように横切る。魚の匂い、錆びの匂い、汗の匂い。王都は匂いで話すことがある。音よりも正直に。俺は鼻の奥で世界を数え、余計な音が近づいてこないのを確認した。


「それで――君の兄さんの話を聞こうか」俺は言った。


 目の青が、ほんのすこしだけ濃くなる。彼女は頷き、言葉を整える時間を空白に預けた。「三日前から消息が途絶えました。市場のはずれで、人に――連れていかれたのを見た人がいる、と……」


「“連れていかれた”か」俺はその言い方を口の中で転がす。単語の角が丸い。誘拐と言わない舌は、上品に育った。上品さは嘘を美しくするが、現実の角は丸めない。俺が笑うと、路地が少しだけ狭くなった気がした。


「誰が、なぜ、どこへ」ゴルザが三語だけ投げる。あいつの質問は料理の手順みたいに必要最低限だ。


 リディアは視線を落とし、指先で布の縁を撫でた。ためらいが爪の白さを曇らせる。「……兄は、真面目で、優しくて。右足に少し癖があって、歩くとき音が小さく」


「それは人相書きとしては詩的すぎる」俺は肩をすくめる。「俺が知りたいのは、兄貴が“誰に恨まれそうか”だ。真面目で優しい人間が、この街で無事なのは、だいたい幸運か、嘘か、強い後ろ盾があるときだけだ」


 彼女の唇が、少しだけ固く結ばれた。その結び方は、宮廷の礼儀を知っている――ように見える。路地の湿り気が、彼女の服の布地に似合わない。似合わなさは真実の影だ。


「アッシュ」ゴルザが軽く咳払いした。俺は頷いて、少し言い方を柔らかくする。柔らかさはときどき薬になる。


「いいか、リディア。嘘は嫌いじゃない。上手い嘘は誰かを守る。だから、嘘をつくのは構わない。ただ、俺が欲しいのは“嘘の形”だ。どこを守るための嘘か。それがわかれば、守る順番を間違えない」


 彼女は驚いたように目を見開き、すぐに伏せた。沈黙が一歩ぶん路地に進む。風が、その沈黙を一度だけ撫でる。


「……兄を、助けたいんです」彼女は言った。「それだけは本当です」


「それだけ、ね」俺は膝を伸ばして立ち上がり、コートの裾を払った。「本当がひとつあるなら、あとは全部角砂糖で包んで構わない。飲み込みやすくなる。で、もうひとつだけ」


「はい」


「君の目は――死にたくない奴の目だ」言葉の重さをあえて一定に保つ。「“兄さん”を言い訳にするやつの目でもない。だからこそ、誰に狙われているのか、俺は気になる。兄だけじゃない。君も、だ」


 青が揺れた。路地の端で灯りが、夜虫に叩かれて震える。彼女はしばらく黙っていた。沈黙の中で、誰かが誰かを守るために言葉を選んでいるときの、あの時間の匂いがした。


「……わたしは、誰かに守られるほどの者ではありません。けれど、守らなければならない人がいます」


「君の言葉は丁寧だ。丁寧な言葉は、ときどき正体を隠しきれない」俺は片手で髪を撫で付け、彼女の靴先を見た。「市場の泥はちゃんと似合ってきた。だが靴の革は高い。裁ち方が貴族街だ。紐の通し穴の鋲が、庶民の店にない」


「観察が気持ち悪い」と、ゴルザ。


「職業病だ」と俺は受ける。「俺は昔、職業という病気に罹った」


 右袖の下で、痣がまだ眠っている。眠りの深度を確かめる。あれは俺に“撃て”と言わない。沈黙は幸運だ。撃つ音は返事だ。返事をしない夜のほうが、だいたい生き延びられる。


「リディア」俺は口の形を慎重に選ぶ。「君が“兄”と言うたび、舌が少し硬くなる。嘘をつき慣れていない。良いことだ。人は嘘をつくとき、守りたいものに触れてしまう。……俺はそれを嫌わない。ただ、危ない」


「危ない?」


「ああ。嘘は、守りたいものの輪郭を照らす。輪郭が見えれば、狙う連中は狙いやすい。黒い連中はそういう匂いを嗅ぎつける嗅覚を持ってる。街には“影の仕事”の組がある。名はどうでもいいが、円の刻印を好む手合いだ」俺は曖昧に言っておく。影の名を真っ直ぐに呼ぶのは、今じゃない。


 彼女はふいに顎を上げ、真っ直ぐ俺を見た。青の中心に、短い火。「じゃあ、どうすればいいですか」


 いい。頼りかたが下手じゃない。俺はわざと肩の力を抜く笑いを見せる。「まず、もう少し腹をふくらませる。空腹は真実より人を弱くする。次に、歩き方を路地に合わせる。膝を固くするな。靴音は、石より柔らかい音を覚える」


「歩き方の授業か」とゴルザが呆れる。「学校かここは」


「授業は高くつく。だが命より安い」俺は荷袋から小さな干し肉を出し、三つに分けた。リディアは遠慮して半分に割ろうとしたが、ゴルザが「全部食え」と視線で命じる。視線で命じる、というのはゴルザの得意技だ。大声より効く。


「それと、約束をひとつだけ」俺はリディアに向き直る。「このあと、誰かに“あなたは誰だ”と聞かれたら、君は嘘をつけ。だが俺には――嘘の形だけは見せろ。今ついている嘘が、どこに向いているかを」


「……はい」


「できる女は、たいてい世界を面倒くさくする」とゴルザ。「嫌いじゃないが、疲れる」


「お前は何でも疲れるだろ」と俺。「ベッドだってお前の下では軋む」


「筋肉は礼儀正しく重いんだ」


 路地の外、喧噪がふたたび遠のいた。子どもの笑い声、安酒の叫び、遠い馬車の鉄輪。街が音楽をやめると、危険は近い。街が歌ってるうちは、まだ大丈夫だ。俺はその程度の運を信じている。


「で、君の“兄”は、どんな声をしている?」俺は話題を戻す。「唱え言葉みたいな真面目さか、冗談の後口が残る声か」


 彼女は目を伏せ、短い笑みをこぼした。「真面目で、優しい。……冗談は、あまり」


「なら探しやすい。真面目な声は、隠れ下手だ。路地の隅でも目立つ」俺は屈んで地面を指でなぞる。石の粉が指腹に移る。「足取りは? 右足に癖があると、段差を降りるときだけ音が小さくなる。階段の下三段で聞き分けられる」


「母が、そう言っていました。小さい頃から」


 ゴルザが俺を横目で見る。俺は肩をすくめるだけで、昔話はしない。話すと長くなるし、長い話は腹を空かす。


 一度だけ風が逆立った。路地の入口に犬が鼻を突っ込み、すぐ去っていく。鼻の賢いやつは、生活の匂いがしない場所を避ける。俺たちの隠れ場所は、まだ“生活”の真似ができていた。


「今夜は休む。追っ手は一度つまづくと、足元を見るまでに時間が要る。朝になれば、街は別の生き物になる。昼は嘘を塗りやすい」俺は言った。「君は寝ろ。ゴルザは見張り。俺は、眠ったふりをする係だ」


「眠ったふりの係が一番難しい」とゴルザ。だが頷いて、入口側に腰を落とす。巨体の影は低い壁の役をする。壁は無口で頼りになる。俺はその陰で、リディアに薄い毛布を渡した。


「ありがとうございます」彼女は毛布を胸に抱え、少しだけ迷ってから俺のほうに目を向けた。「アッシュさんは、さっき……“死にたくない目”って言いました」


「ああ」


「あなたの目は、何の目ですか」


 たまに、若い女は鋭い質問をする。俺は笑い、正面から受ける。「昔、銃声で返事をした回数を数えたことがある。数えるのをやめたところで、俺の目は“数え間違いの目”になった。……つまり、まだ俺は数え直してる途中だ」


 彼女は意味を確かめるように瞬きをし、毛布の上から胸に手を置いた。「数え直せますか」


「数え直すために、俺は軽口を叩く。軽口は消しゴムだ。完全には消えないが、薄くはできる」


「詩人ぶって」とゴルザ。いつもの合いの手だ。「詩じゃあ、腹がふくれない」


「でも、腹が減っていると詩は書けない」俺は肩で笑い、壁に背を預ける。夜の湿気は、思考をゆっくりにする。ゆっくりになると思い出が追いつくから嫌いだが、たまには追いつかせてやる。追いつかせて、前に置く。前に置いたものは、蹴っ飛ばして進める。


「アッシュさん」毛布の端から、彼女の声。「……わたしは、あなたに嘘をつきました」


「知ってる」と俺。


 息を呑む音。「どうして、怒らないんですか」


「怒ると、嘘が硬くなる。柔らかい嘘のほうが役に立つ。俺は役に立つものが好きだ」


 彼女は小さな笑みを漏らし、そのまま目を閉じた。まぶたの上を街灯の影がゆっくり横切る。眠りは浅いだろうが、それでいい。浅い眠りは、起きやすい。起きやすい人間は、生き延びやすい。


 ゴルザが小声で言う。「お前、あの子の素性に気づいてるな」


「気づいてないふりをしている」


「同じだ」


 俺は笑って、空を見上げるふりをした。路地に空はない。けれど、上を見ると首の筋がゆるむ。ゆるみは眠気を連れてくる。眠気は銃より強い武器だ。ときどきは。


「なあゴルザ」


「ん」


「俺は長生きできないかもしれない」


「知ってる」


「でも、あの子の人生は長くしたい」


「知ってる」


 相棒の返事は簡素で、最短で、温かい。俺は目を閉じ、右腕の痣に意識を向ける。今は静かだ。静かでいてくれ。お前が眠っていれば、俺は軽口で戦える。軽口で戦えるうちは、誰かを笑わせられる。笑わせることは、ほんの少し世界を軽くする。


 薄く明るい音が、遠くでした。パン屋の捏ね台、牛乳屋、朝の準備。王都は朝になると善人のふりをする。善人のふりにつきあうのは嫌いじゃない。ふりを続ければ、いつかそれが板につくやつもいる。人間は、わりとズルい方向に救われる。


 リディアが小さく寝返りを打った。毛布が地面の砂をさらい、わずかな音を立てる。その音が、彼女の素性を少しだけ教える。寝顔にも礼儀が残るのは、育ちのしわざだ。俺はそこまで確かめて、目を閉じた。


 朝になれば、また歩く。歩きながら、嘘の形を確かめる。誰がどの線を引き、どの輪郭を守ろうとしているかを。守る順番さえ間違えなければ、死なずに済む。たぶん。たぶんは、俺の得意な約束の形だ。


 路地の上で、夜が薄くはがれはじめた。世界は相変わらず俺に何の好意も持っていないし、俺も世界の好みじゃない。けれど、扉はいつもどこかで開いている。開きっぱなしの扉が一枚でもあれば、俺はまだ出入りできる。俺はそういう生き物だ。


「おやすみ、ゴルザ」


「俺は起きとく」


「起きたふりでもいい」


「ふりは任せろ。お前より上手い」


 負けた。いい夜だ。俺は胸のどこかに小さな石を置き、眠ったふりを始めた。ふりでも、今はありがたい。

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