灰色の杯
青山アオ
変装王女 1
昼の店内は、やたらと座席の数が主張していた。客がいない椅子は、静かな抗議活動をする。脚を四本も持ってるくせに、立ってるだけだ。俺はモップを杖みたいにして、床のしみと会議ディベートをしていた。結果、しみの勝ちだ。負け惜しみにランプの埃を指先で払う。柔らかい埃は雪の役を引き受ける気もないらしい。ここは王都の外れにある「灰色の杯」。白い城の光沢が届く手前で、スラムの湿気がこころを重くする地点だ。表の看板は今日も煤けたまま、字面は半分が歴史、残り半分が諦めでできている。扉は、物語が始まるために付いている。俺はそういうロマンをまだ捨てきれていない。
カウンターの向こうでは、相棒が鍋と密談していた。ゴルザ。見た目が「乱暴」の具現化で中身は「常識」という、退屈なヒーローだ。二メートル近い巨体、盛り上がった筋肉、緑がかった灰色の肌。でっかい手が器用にスプーンを回し、味見は厳しい。あいつは酒場を生かす心臓で、俺は口。つまり、あいつが沈黙すると店が止まるし、俺が黙ると退屈が増える。世の中、役割というのはだいたいそんな残酷な割り当てだ。
「なあアッシュ、床はもうきれいだ」とゴルザが言う。声音は低いが、皿の縁を磨くみたいに角が取れている。
「床が俺を映すようになってからが本番だ」と俺。「まずは俺が眩しくなる必要がある」
「もう十分眩しいよ。見たくないって意味でな。それは床を磨いても増えやしない」
それはそうだ。俺の眩しさはだいたい嘘と比喩でできている。比喩は便利だ。現金がなくても未来の約束を買える。もっとも、ツケはいつか回ってくる。店の奥のランプが揺れて、酒瓶の肩に薄い光が貼りついた。ここでは昼のほうが暗い。薄闇は、真実に似合う。
扉が、ため息みたいに鳴った。誰かが遠慮を覚えた音だ。真鍮の取っ手がわずかに回り、隙間から薄い影が滑り込む。俺はモップを肩に担いで、その影と目の高さを合わせる。布切れのようなフード、旅の埃。けれど、顔の造りは布に従わない。青い目に、直線が住んでいた。曲がる場所を知らない瞳だ。年の頃は十八、十九。声を聞く前に、育ちの良さが沈黙の端で自己紹介する。
「いらっしゃい。美しいお嬢様には大特価、とびっきりのサービスを」と俺は言う。こういうとき、冗談は橋だ。向こう岸が揺れていても、渡るきっかけを作ってくれる。
「また始まったよ」ゴルザが鍋の火を落とし、俺を横目にする。「お前のサービスはだいたい事故る」
「サービスに事故はつきものだ。世界でもっとも古いサービス業は恋愛で、アレは事故の歴史だ」
影――少女はカウンターまで歩くあいだ、躊躇を二度踏みしめた。遠慮の足跡は消えにくい。フードの端を指でつまむ仕草が丁寧で、爪は泥と小さな欠け。旅の距離は、指先にたまる。彼女は、乾いた唇を一度結び、俺と視線を合わせた。
「どうしても助けて欲しいのです」
鐘の音が、少し遅れて届くことがある。いまの声が、まさにそれだった。店の空気が、ほんの少しだけ冷たくなる。俺は自分の心臓が、古い扉を開けるみたいに一拍だけ重くなるのを聞いた。
「おっと、恋愛相談か?俺に惚れた?」口が勝手に走る。慎重な場面ほど、軽口は役に立つ。投げるロープは、握られなくても距離を教えてくれる。
「また女かよ。どうせ罠だろ?」とゴルザ。言いながらも、コップに水を入れて少女の前に置いた。でっかい手は繊細な仕事に向いてないように見えるが、向いている。あいつは見た目と違って、優しさの定価を知っている。
少女は両手でコップを包むが、口はつけない。氷がかすかに鳴って、店の静けさに色のない装飾を施した。俺はモップを壁に立てかけ、カウンターの内側に入る。客が来ない店の特権だ。席も厨房も、どちら側にも知り合いしかいない。
「順番にいこう。名前は?」
一拍、空白。沈黙の端っこを噛んでから、少女は言う。「……リディア」
舌の裏に礼儀が住んでいる発音だ。下町の娘は、名前を名乗るときそんなふうに空気を計量しない。俺の中の警報が、控えめに鳴りはじめる。大音量でなくていい。不快な正確さで充分だ。
「で、どんな種類の“助けて”だ?」
「護衛を、お願いしたいのです。兄を探すのを――手伝って欲しくて」
兄ね。素行のいい嘘が、椅子に腰を下ろした。俺はグラスを拭きながら、嘘の形を眺める。嘘は、誰かを守りたいときに一番よくできる。本当のことはしばしば乱暴すぎて、口の中を切る。嘘は、その代わりに血の味を隠してくれる親切なガーゼだ。
「探すのは兄貴、護衛は君。つまり、歩けば誰かが背中を狙う状況ってわけだ。報酬は?」
「お金は……少ししか。でも、必ずお返しします。命で」
命は、利率の悪い通貨だ。崩して使うと、だいたい釣り銭が戻らない。俺は肩をすくめる。「命は分割払いが難しくてね」
ゴルザが横からのぞき込む。「で、お前は受ける顔をしてる。受けない顔の練習は、いつするつもりだ?」
「明日から本気出す」俺は笑って、右袖を指先で押さえる。布の下で、右腕が黙っている。古代文字の痣が、皮膚の内側で眠たげに横たわっている。撃てば目覚める。起きるたびに、何かが削れる。俺は自分の命の角が丸くなっていく感覚を覚えている。だが今日は、眠ってろ。まだ昼だ。昼に引き金を引くのは、夜に対する礼儀違反だ。
「兄の特徴を教えてくれ」俺は話を進める。「背丈、癖、歩き方、好きな酒。人間は癖でできてる」
リディアは記憶を並べ替える仕草をして、「背は高くありません。真面目な顔立ちで……歩くときに右足に少し力が入るみたいで、音が小さくて」と答えた。悪くない。嘘で組んだ人相書きにしては、余白が多すぎる。余白は美しいが、捜索には不向きだ。
「どこで見失った?」
「下町の外れ、です。市場のはずれで……人に、連れていかれたのを見たというひとが」
「人に連れていかれた」。その言い方の柔らかさ。誘拐という単語を使わないのは、言葉を清潔に保ちたい育ちの証拠だ。下町の噂はちょうど今朝も届いていた。黒い円に傷みたいな刻印をつけた連中が、商会の荷馬車の陰で人を買う。俺はその話を、あえて口にしない。影に名前を与えた瞬間、影は輪郭を変えることがある。早口の真実は、嘘より役に立たないときがある。
「で、俺とコイツを指名した理由は?」
リディアは少しだけ視線を落とした。コップの氷が、場を持たせる仕事をしている。「……評判を、聞きました。ここは、困っている人が来る場所だって」
「困ってない奴は来ない店だ。噂は正しい」俺はカウンターから身を乗り出し、彼女のフードのほつれを見た。糸は安いが、縫い目は丁寧。上手な偽装には二種類あって、雑に見せるやり方と、丁寧に偽るやり方がある。彼女は後者の生徒だ。丁寧な嘘は、守りたいものを持っている証拠だ。
ゴルザが小さく鼻で笑った。「また女の“どうしても”か。お前の寿命が縮む音、最近聞いてないからって、貯金じゃないからな」
「女の涙には弱いんでね」と俺は軽く受ける。言いながら、ほんの少しだけ自嘲が混ざる。自嘲は潤滑油だ。真実が固いときに役立つ。
「よし、確認だ。俺は歩きながら考えるタイプだ。店の中で決めることにろくなのがない。外に出る。光の下では、嘘も体温を持つ」
「市場まで案内できます」とリディア。「でも……」
でも、の続きは喉の後ろで割れた。怖い、という単語が顔を出しかけて引っ込む。うまく育てられた言葉は、感情を露骨に言わない。俺はそれを嫌わない。丁寧に育てられた恐怖は、丁寧に扱えば前に進む。
「大丈夫だ。俺には相棒がいる」俺は顎でゴルザを示した。「こいつは見た目どおり強いが、見た目どおり優しい。つまり最強だ」
「俺の筋肉は飾りじゃねぇし、タダでもねぇ。働かせるときは覚悟しろよ」ゴルザは革エプロンの腰紐を締め直し、戸口の閂を外した。真昼の光が床に薄い長方形を描く。店の埃が、金粉に見える瞬間だ。扉はやっぱり、物語のために付いている。開けば始まる。閉じれば、また次の始まりのために待つ。
「出る前にもう一つ。嘘は嫌いじゃないが、味見はする。『兄』ってのは君の盾か?」
リディアは、ほんのわずかに睫毛を震わせた。青の中に波紋が広がって、すぐ消える。「……助けたいんです。大切な人を」
答えの形は、嘘でも本当でも美しかった。美しさは罠にもなる。俺はコートを羽織る。黒。依頼の色だ。袖を通すたびに右腕が衣擦れの音を立てる。眠ったふりをしている兵器は、平和の演技を手伝ってくれる。俺は演技が得意だ。軽口は鎧。着こなしには自信がある。
「いいだろ。歩きながら聞かせてくれ。もし途中で俺が飽きたら、そんときは……」
「そんときは、俺が引きずってでも連れ戻す」とゴルザ。「俺がいなきゃ、てめぇ三日で死んでるぞ」
「ああ。お前がいないと、たぶん二日だな」この冗談は、二人だけの儀式だ。俺たちは互いに、相手の弱さを背負うための取っ手の位置を知っている。言葉で磨かれた金具は、手に馴染む。
戸口の外は、王都ルメリアの白い喧騒。石畳は昼の熱でわずかに柔らかく、靴底に記憶を貼りつけてくる。城は遠くで寝たふりをして、貴族街は化粧を直し、商業区は声を張り上げ、スラムは影の練習をしている。昼は派手に笑って、夜は別の国が口を開ける街。そこへ俺とゴルザとリディアは三つの影を落とす。影の長さは、嘘の長さでもある。
「アッシュさん」とリディアが俺の名を呼ぶ。呼び方が少し硬い。言葉に芯があるのは悪くない。「危険かもしれません」
「危険じゃない仕事は、報酬が安い。安い話は、だいたい退屈だ。俺は退屈に弱いんでね」
「その弱点、直す気はあるんですか?」
「直したら俺じゃなくなる。たぶん別のまともな男になって、別のまともな人生を送るだろう。まともな人生は、まともな人に任せるべきだ」
ゴルザが鼻を鳴らす。「まともって単語、たぶんお前の辞書に載ってねぇよ」
「辞書は持ち歩かない主義でね。重いから」
下町へ向かう道すがら、露店の匂いが空気の上に薄いレコードを載せる。果物と油と、遠くで焦げた肉。人の声はいつも、言葉になる前のざわめきから始まる。リディアはフードを深めにかぶって、歩幅を街に合わせようと苦労している。上品な育ちは、歩き方にまで詩を持ち込む。詩で舗道は渡れない。必要なのは、少しの泥だ。俺は肩越しに彼女の靴先を見て、泥の色が“借り物”じゃないことを確認する。借り物の泥は、うまく馴染まない。彼女の泥は、ちゃんと一緒に来ている。
「ところで」と俺は言う。「君の『兄』が連れていかれたって言った通り、あそこは噂が多い。黒い紋章をつけた連中がうろつく。もしも、だが、兄がその連中に関わっていたとしたら?」
リディアは一瞬だけ言葉の置き場を探した。「それでも……助けたい」
良い。答えの方向が、俺の好みに合う。答えの速度も悪くない。速すぎる誓いは嘘っぽいし、遅すぎる誓いは臆病だ。彼女の速度は、怖がりながら前に出る人間の速さだ。
市場の手前、喧噪が反響を増す。屋台が道の幅を削り、果物の赤と布の色が視界に散る。子どもが走って、笑い声が地面に跳ねる。ここで情報は生きる。噂が最短距離で育つ。俺は耳を半分だけ開いて、もう半分は危険のために残す。危険は気配の形で歩いてくる。背中のどこか、皮膚の薄い場所で風が折れたら、それが合図だ。
「アッシュ」とゴルザが囁く。「右。屋台の影」
見るな、まだ。視線はナイフだ。抜けば光る。俺は視線を別の方向へ抵当に入れ、代わりに鼻で屋台の油を嗅ぐ。右袖の下で、痣がほんのわずかに熱を持った。気のせいだと言っておく。気のせいは、現実が準備体操をしているときのコードネームだ。
「……なあリディア」俺は歩きながら、声だけを軽くする。「『兄』が見つかったら、報酬は“命で”じゃなくていい。君が生きてることが報酬だ。命は受け取るより、続いてくれるほうが結果として高くつく」
彼女は驚いたように横顔を見せ、それから小さく頷いた。頷き方に教養が滲む。うなずきにも学校があるのかと訊ねたいが、黙っておく。沈黙は時々、最上の会話になる。
屋台の裏で、金物がこすれる音。風の折れ方と合致する。俺は歩幅を半歩だけ縮め、リディアとゴルザの位置を頭の中で組み替える。相棒はもうわかっていて、自然な動きで俺とリディアの間に入る。盾役の癖が、日常の歩き方にまで染みている。俺たちは三人で、見えない線を結んだ。線はほどけないほうが歩きやすい。
「アッシュ」ゴルザが小声で笑う。「市場を戦場にするなよ」
「俺だって、りんごは食べるほうが好きだ」剣がなきゃ、果物でもいい。けど、いまはまだ、扉を開けたばかり。最初の一歩には、礼儀ってもんがある。
俺は右手の指先を開いて、風の形を測る。風は何事もなかったふりをしていたが、何事かは息を潜めてこちらを見ている。世界はいつも、こちらを覗き見する。こっちも、見えないふりをしてやる。リディアの青い目は、前を見ていた。目にまっすぐが住んでいる人間は、曲がり角でよく躓く。だから俺とゴルザがいる。俺たちは、躓く前に冗談を言う係と、躓いたら受け止める係だ。分担は完璧、たぶん。
「行こう」俺は言う。軽口で鎧を整え、合図を送る。「物語が始まる。続きは、角を曲がった先で」
「また詩人ぶって」とゴルザ。
「職業病だよ。詩にしとけば、だいたい安く済む」
扉を背にして歩き出した俺たちの影が、石畳に溶けた。店の扉は開けっぱなしだ。戻る前提。帰る場所の鍵は、かけないのが俺たちの縁起だ。昼の熱はまだ薄く、遠くで城の白さが退屈そうに欠伸をした。今日が長くなる予感は、悪くない。長い一日は、話を長くする。長い話は、誰かの命を延ばすことがある。冗談みたいだが、案外ほんとうだ。
だから俺は歩く。女の「どうしても」を背に負って。相棒のため息を横に連れて。右腕の眠りを乱さないように、軽口で毛布をかけながら。
この街は、昼は華やかで、夜は別の国になる。俺は両方の国籍を持っている。どちらの税金も払ってないのが問題だが、徴収人が来たら、そのときに考える。いまはただ、次の扉の音を想像する。鈴のような、ため息のような、始まりの音を。俺はその音に弱い。弱さは、俺の強さの別名だ。
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