第12節 名前だけの契約
丘をひとつ登り切ったところで、御者が馬を止めた。
手綱が軽く引かれ、車輪が土を踏む音がゆっくりと消えていく。
馬車の窓から身を乗り出すと、そこは視界が開けた場所だった。
草地がゆるやかな斜面になって広がり、風が通り抜けるたび、細い茎が一斉になぎ倒されては、少し遅れて起き上がる。倒れる瞬間も、起き上がる瞬間も、音はほとんどない。揺れだけが、夕陽を切り取っていた。
夕陽は金色だった。
赤ではなく、沈む手前の、柔らかい金。
空の高いところはまだ青く、境目に薄い橙がたまっている。空気はひやりと甘く、朝とは違う冷たさを持って頬を撫でた。昼間の熱を少し残した土の匂いと、乾きかけた草の青い匂いが混じる。
はるか先に、薄く霧の“ローゼ峡谷”が見えた。
山の切れ目に、白い紗のような霧が薄くかかっている。谷の底から立ちのぼるそれは、陽の光を受けて淡く光り、輪郭をはっきりさせようともしない。目指す場所は、あの霧の向こう側だ。
カタリナは、馬車の扉を開けて外に降りた。
土の感触は、王都の石畳とはまるで違う。少し沈む。靴底が土を噛む。地面がこちらを受け止めたあと、わずかに押し返してくる。
ドレスの裾が草の先をかすめ、赤い薔薇の髪飾りが夕陽を受けて小さく光る。その赤は、昼の大広間で踏まれた花弁と同じ色だったが、今は誰の靴の下にもない。
風が一度だけ強く吹き、髪をほどく。
頬をかすめた一房が視界に入り、彼女は指先で耳の後ろへ戻した。
王都では、同じ仕草をするとき、周囲の視線を気にした。ここには視線の輪はない。あるのは、風と、土と、馬の鼻息と、呼吸だけだ。
黒猫——ミラが、馬車のステップから軽く跳び降りる。
柔らかい足取りで草の上へ出て、少しだけ伸びをした。背中の線がなめらかに弧を描き、尻尾が空に問いかけるように持ち上がる。
へらへらとした笑みは、いつものように口元に薄く残っていた。が、目だけは丘の上と、谷の向こうと、両方を順番に見ている。
「もう少し進めますが、馬も人も疲れております。ここで一度、息を入れましょう」
御者がそう言って帽子に手をやる。
日暮れ前の短い休憩。無駄ではない。むしろ必要な時間だと、カタリナはすぐに判断した。
「ここでいいわ。……少しだけ、外の空気を覚えておきたいの」
「承知しました、嬢……いえ、カタリナ様」
御者は言いかけて言い直し、恥ずかしそうに短く会釈した。
彼女はそれに軽く頷き、あとは放っておく。呼び方は、そのうち落ち着くだろう。王都での“肩書き”が、ここでどれだけ意味を持つのか、まだ誰も知らない。
丘の上の風は、ゆっくりだった。
強すぎない。弱すぎもしない。頬を撫で、髪をほどき、ドレスの布を少しだけ揺らす。そのくせ、体の深いところにはまっすぐ届く。
今日一日で積もった感情の層を、一枚ずつ薄く剥がしていくように。
(ここから先は、私の足で歩く)
そう決めたのは、断罪を受けた大広間ではなく、学園の回廊でもなく。
こうして、誰も見ていない丘の上だった。
善意の輪は、都に置いてきた。揺らいで笑う顔や、涙を武器にした視線も、今はもう背中の向こうにある。
ミラが、草を踏んで彼女の足元へ寄ってくる。
草の葉先がその体に触れ、すべる。尻尾は気楽に左右へ揺れ、毛並みは風に逆らわない。
彼は彼女を見上げ、彼女は彼を見下ろした。視線の高さの差はあっても、見ている方向は同じだ。
「私は私の力でやる。契約は要らない」
夕陽に向かって言うのではなく、足元の猫に向かって。
声に力は入っていない。入れなくていい。ここで大切なのは、音量でも、言い切り方でもなく、向きだ。どちらを選ぶか、という方向。
ミラの耳が、わずかに動いた。
へらへらした笑みは消えない。けれど、口元の力がほんの少しだけ抜ける。
彼はしばらく黙っていた。黙って、風と同じ景色を見ていた。
沈み始めた陽が、ローゼ峡谷の霧を金の縁でなぞる。
遠くで鳥が巣へ帰る声。足元の草が風に倒れて、また起き上がる。その繰り返しを見ていると、“倒れる”ことと“起きる”ことの間にある時間が、ほんのわずかだと分かる。
倒れても、起きればいい。
問題は、どちらの方向に起きるかだ。
カタリナは、自分で選んだ方向に、もう一度だけ視線を向けた。
ローゼ峡谷。その向こうにある、荒れた領地。噂では、税が集まらず、治安も悪く、冬は長いという。
そこに派遣されるのは、追放に近い。
——それでも、与えられた場所で、やれることはある。
ミラが、草の上から一歩進み、彼女のドレスの裾に前足を載せた。
重さは、ほとんど感じない。だが、その足ははっきりと“ここにいる”と主張していた。
「ねえ、カタリナ」
いつもの、軽い声だった。
「うん。じゃあ、名前だけ借りておく。呼ばれたら、たぶん応える」
ミラはそう言って、前足を裾から外した。
尻尾が一度、ゆるく弧を描く。夕陽を受けて、毛先に細い光が宿る。
「……名前だけ?」
カタリナは、少しだけ眉を上げた。
声の調子は静かなまま。責めているというより、確かめている声だ。
「そう。紙も印章も、魔法の陣もいらない。呼ばれたら、返事をする。それだけ」
「それだけ、ね」
「うん。“それだけ”って、案外重いよ。忘れたくても、耳が覚えるから」
ミラは言いながら、彼女の足元をくるりとひと回りした。
草がそのたびに倒れて、遅れて起きる。彼の通り道だけが、細い輪になって残る。
へらへらとした笑みは、変わらない。けれど、その目の奥には、先ほど谷で見せた真面目の色が、まだ少しだけ残っていた。
「無責任ね」
カタリナは、夕陽の中で小さく笑った。
今度の笑いは、誰に見せるものでもない。自分が聞くためだけの、短い笑い。
「無責任“すぎる”のは困るけどね。少しくらいは、あんたに似合う」
「私に?」
「うん。全部背負い込む顔より、ちょっとだけ放り投げる顔の方が、似合う」
「誰のせいで、そんな顔をすることになったのかしら」
「半分は都。半分は、あんた」
言葉だけ聞けば、突き放しているように見える。
だが、声は軽いままだ。責める響きはない。
彼の口調は、いつもと変わらないのに、どこかで“ここから先の線引き”を提案している。
「似合うって、言ったでしょ。そういう顔」
ミラはくい、と顎を上げた。
いつか、大広間で涙を見たときとは逆だ。今、顎を上げているのは彼の方で、視線を少しだけ高くしているのは彼の方だ。
夕陽が、二人の影を長く伸ばす。
影は丘の斜面を下り、草の上を滑り、土の上で細くなる。
影同士は、途中で重なる。猫の影と、人の影。重なる時間は短くても、その形を見た者の目には、しっかり残る。
「それで?」
カタリナは、少しだけ顎を引いた。
「何が?」
「あなたは、どこまで“無責任”でいるつもりなの?」
「そうだね」
ミラは、草の上に腰を下ろした。
前足をきちんと揃え、尻尾を体に沿わせる。へらへらした笑みはほんの少しだけ薄れて、代わりに、穏やかな線が口元に浮かぶ。
「ぼくは、選ぶのはあんたに任せる。——ただ、呼ばれたら行く。そのくらいが、ちょうどいいと思う」
「どうして?」
「全部助けたら、あんたの力が育たない。全部放っておいたら、ぼくの機嫌が悪い」
「自分の機嫌を優先するのね」
「猫だからね」
いつもの言い訳。
それは、都でも、私室でも、馬車の中でも、今日一日何度も聞いた言葉だった。
聞き慣れた言葉が、今は少しだけ違う意味を持つ。
“猫だから”——だからこそ、人とは違う約束の仕方ができる。
「紙はない。印章もない。世界は何も見ていない」
カタリナは、自分で言葉を重ねた。
風が、その言葉をすぐに散らしてしまうように感じる。けれど、耳は覚えている。
自分の声が、自分の耳に入ってくる。その事実だけは、誰にも消せない。
「それでも、名前はある。——そうでしょ?」
「うん。名前は、ここ」
ミラは胸を前足で軽く叩いた。
毛の下にある小さな鼓動が、その一瞬だけ外へ近づくような仕草だった。
「“ミラ”って呼ばれたら、たぶん、めんどうがっても動く。そういう契約なら、してもいい」
「ずいぶん、自分に甘い契約ね」
「ぼくに甘い契約じゃないと、長持ちしないから」
彼はそう言って、ようやく少し笑った。
へらへらとした笑いが戻る。
尻尾が気楽に揺れる。
それは、さっき谷で真面目に介入していた猫が、また“遊ぶ側”へ戻った合図でもあった。
「じゃあ、私もひとつだけ条件を」
「聞くよ。内容次第で、逃げるけど」
「逃がさないわ」
彼女は、そう言って、ほんの少しだけ身を屈めた。
夕陽に染まった草の匂いが近づき、ミラの瞳に自分の姿が小さく映る。
距離は近い。触れはしない。線は越えない。
けれど、呼吸の温度くらいは、共有してもいい距離だ。
「呼べば来る。——それを、私が忘れそうになったら」
「うん」
「あなたの方から、勝手に来なさい」
「それ、かなりわがままだよ」
「無責任な契約よりは、まだ筋が通っていると思うけれど?」
「……たしかに」
ミラは、目を細めた。
その一瞬だけ、笑いが完全に消える。
真面目な顔は、滅多に見せない。だからこそ、印象に残る。
「じゃあ、それも込みで、“名前だけの契約”ってことにしようか」
「紙も印章もないわよ」
「いらない。ここでいい」
彼は、丘の上を斜めに吹き抜ける風を一度だけ見た。
草が倒れ、起きる。倒れたあと、起きる方向は、さっきまでと同じだった。
風は正直だ。吹き方をごまかさない。
「カタリナ」
「何?」
「呼んだら、返事してね」
「……考えておくわ」
「重く聞こえるね。それ」
「そうかしら」
「うん。でも、嫌いじゃない」
短い沈黙。
沈黙のあいだ、風が頬をなでる。髪を撫で、薔薇の髪飾りをかすめる。
王都の大広間で踏まれかけた赤は、今は誰にも触れられていない。風だけが、遠慮なく通り過ぎる。
二人は、同じ方向を見た。
ローゼ峡谷。霧の向こう。荒れた領地。
そこに何が待っているのか、まだ誰も知らない。
だが、方向は決まった。
彼女は彼女の力でやると言い、彼は名前だけの契約を勝手に結んだ。
紙はない。
印章もない。
世界は、何も見ていない。
それでも——名前はある。
呼べば返る。
返るなら、いる。
“いる”なら、完全なひとりではない。
風が、頬をなでる。
風は、正直だ。
丘の上で、日が落ち始める。
長く伸びた影が、少しずつ色を失いながら、谷の方角へ溶けていった。
——名前だけの契約をひとつ。
それが、彼女と魔猫の、静かな出発点だった。
断罪から始まる、悪役令嬢と魔猫の契約 蝋燭澤 @rousokuzawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。断罪から始まる、悪役令嬢と魔猫の契約の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます