第1章(7)現在地

帝都ノイエンキルヘンを出発して5日後、ライネ共和国使節団の一行は、再び帝国の地方領を進んでいた。往路と変わらぬ土地のはずが、妙に空気が張り詰めている。

春風は暖かみを増して頬を穏やかに撫でていくが、人の気配の薄さと、どこか警戒感を含んだ静けさが使節団をも張り詰めた印象を与える。


「若様、数週間前とは随分と様子が違いますな」

オスカルの声は響きを伴い、彼の馬が耳を絞る。


「ああ、まだ明るいのに誰もいない」

アルダンもまた、周囲の違和感を肌で感じ取っていた。

畝が幾重にも重なり合う美しい農地の印象はなくなり、畑の数カ所には無造作に掘り返された跡かあり、打ち捨てられた古い農具が散らばる。

本来であれば、春の種まきを終え、若葉が顔を出す頃と思われるが、広がるのはただの土塊。点在する数軒の家々の窓は固く閉ざされたまま。


「農夫の姿が見えませんな」

「農馬や家畜の姿も見えないな……。種蒔きもされていないようだが」


使節団が街道を外れ昼食のために皆が下馬していると、数組の家族がみな険しい顔で荷車を押しているのが見えた。彼らの荷台には種袋ではなく、古びた家具やわずかな家財道具が載せられている。それは、家をそして生活のすべてを捨てていく者たちの姿だった。


アルダンが頷き、オスカルは彼らに声をかける。


「なぜ、この時期に村を離れるのですか?」

農夫たちは警戒した目で彼を見返し、続けて使節団の姿も確認した。

普段は異国の者、ましてや軍装を身につけた者など滅多に見ることがないのだろう。


「あんたたちは、取り締まりの兵士たちではないんか?」

「ああ、この地のものではない。ライネ共和国の者だ」


「ライネ・・・、共和国?」

「はじめで聞くなぁ......」


どうやらこの地の農民たちには、最低限の教育すら施されていないらしい。


農夫のひとりがため息をつき、乾いた声で語り始めた。深い疲労と諦めの滲む声だ。


「新しいお屋敷様が、おれらの土地を取り上げちまって」


アルダンとオスカルは、その「新しいお屋敷様」が何を意味するのかを察した。

帝都の街中で、果実売りの老婆が暗示した「重税」とは違う、さらに直接的な支配者からの搾取。それが、幾つもの家族の住処と糧を奪ったというのだ。


今度はアルダンがたずねる。

「新しい領主、ですか?」


「そんだ。この地域一帯はバルヒ子爵様ご領地なんだが。この村を含む幾つかの村はいま、お孫様が治めておられるが......」


別の農夫が続ける。

「ご趣味が狩りだとか。んで、新たに狩り場を作るから、我らの土地を接収すると。俺たちの爺さん達の代から、この畑で生きてきたというのに……」


農夫らの言葉に、アルダンはダリアの言葉を思い出した。

目には見えない「毒草」が、帝国の足元を静かに、しかし確実に蝕んでいる。


アルダンは独り言のように話し始め、民に問う。

「たった一人の趣味のために、幾つもの家族の生活を奪う、か。代わりの土地は?それくらいは用意があってもよかろうに」


「......」

農夫らは顔を見合わせた後、一様にため息をした。


「ありえない」

アルダンが憤りを込めて呟くと、オスカルは静かに首を振った。

「仕方ないことです。君主国では、領主の決定は絶対です。同じ帝国内の貴族ですら、自らの領地外のことには関与できませ」


オスカルの言葉は現実的だった。共和国の市民には想像もできない、専制君主制の厳格な階級社会。ただ、その理不尽さにアルダンは心底から納得がいかなかった。

その時、一隊の騎兵が砂埃を上げて近づいてきた。領主の私兵らしい。彼らは使節団を警戒する様子で馬を止めると、隊長らしき男が威圧的な態度で言った。

「旅人たち、何用か?」


「我々はライネ共和国の使節団です。帝都での行事をすべて終え、祖国に帰る途中です」

アルダンは平静を装って言った。


「貴官らは貴官らの職務を。我々も然り。どうぞ、お気になさらず」

馬車の中から、ユリアヌス卿が静かに姿を現した。アルダンの激情とは対照的な、微動だにしない芯の強さがあった。

ユリアヌス卿は携えた帝国紋章入りの包みをチラつかせながら、アルダンに近寄る。

それに合わせて領主の私兵たちは、アルダンから3歩ほど離れた。


「アルダン。わかるな」

静かで、しかし有無を言わせぬ言葉だった。

アルダンは父の視線から、この場の状況、そして彼自身の立場を理解した。

使節団の長たる父が、この問題に介入する意思がないこと、それが正しい外交の姿であることを。ことを荒立てるべきではない。僅かな関与も避けるべきだ。


アルダンは、素直に使節団の休息する場へ引き返した。

彼らの前を離れる時の、農夫たちの絶望が、肌や心に深く突き刺さった。


旅の再開後、アルダンは馬上で思索にふけった。

帝都の華やかな街並みと、地方に広がる貧困と圧政。どちらもこの帝国の姿だ。そして帝都の華やかさすら、市民の苦悶の土台に築かれている。


アルダン、ただ無力だった。

理想と現実の溝が、深く、深く刻み込まれた。

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