第1章 春、帝都にて(6)風がやむまでは

地平線の彼方より太陽が挨拶をしている。開け放った窓より、ひんやりとした北海の冷気が寝室内に流れ込み、身震いする。


薄い唇に指先をあて、日の出に向かい目を閉じる。




どのくらい長く唇を重ねていたか記憶は曖昧で、しかし彼の体温と息遣いは生々しく私の体内に刻まれ、眉と眉が擦れ合うほどお互いの中に自らを押し付けあった。


握りしめ絡みつけあった指間には、まだ彼の微かな匂いが居座っている。


力任せに抱きしめられた時、彼の胸板に押し潰された胸の少しの痛みを感じたことも、男性の腕の中に囚われた感傷のほうが勝る。




私は身支度を整え、朝食を摂り、いつもより短く庭園を散策した。そこに彼の姿はない。




彼と抱き合った噴水近く、侍女が私を呼び戻しに来た。




彼らの送別式典のため、玄関バルコニーへの移動を促される。




宮殿玄関に備えつけられているバルコニーからは、貿易港の鉛色な海面を朝日が照らす様がよく見える。林立する交易船のマストが、帝都の賑わいを象徴している。


私は正門近くに目を移す。市街地へ続く大通りに、幾ばくかの見物客も見える。




宮殿の衛兵たちが我が国の紋章旗をはためかせ、整然と並んでいる。


私のやや前方に厳めしい顔つきのお父上と複数の側近。


私はなるべく背筋を伸ばすように立つ。爪先立ちもしてみる。髪が風になびくほかに、立位も表情も変えぬように努めながら。




ユリアヌス卿は、我が国側の交渉役であったベルダス侯爵と最後の握手を交わし、紋章入りのぶ厚い書類を受け取る。それを脇に携え、私のお父上に向けて跪き頭を垂れる。


それにお父上は片手を小さく挙げて応えている。




私が栗色の髪の若者を探し出したのは、ユリアヌス卿の乗車を待つ、最も堅牢な造りの馬車近く。


私はわざとらしく、しかし自然な様を装い、そっと指先を口元に充てた。


彼も気付かぬはずはない。


馬上から会釈で返している。




彼のすぐ隣に並ぶ護衛役が、アルダンにそっと耳打ちしている。


すぐにアルダンは姿勢を正した。




使節団が整然と正門より退出していく。


大通り集まった人々が手を振り、歓声が湧く。




市民たちも締結されたばかりの条約が、新たな富を帝国にもたらすことを期待しているのだろうか。




私は、遠くの喧騒の中にアルダンの背を追い続けた。様々な感情が、血の流れよりも早く体内を行き来する。


それと悟られねように表情を抑えたまま、零れそうな泪は、独りになるまで溜めておくことにした。




やがて使節団は見えなくなり、列席の貴族や衛兵達も広場から去ってゆく。


近侍の者に促され、お父上も建物内にお入りになった。




私は、慣れない爪先立ちのせいか、すぐには動けなかった。


中よりお父上の呼ぶ声がする。




「もう少しだけ風に当たっていても、宜しいでしょうか」




お父上はご承諾下さり、廊下を進んで行かれた。




誰も居なくなった前庭。


大通りの方角から吹く春風が、彼からの惜別の言葉のように感じる。




柵を掴み、身を乗り出しても、彼らの一団はもう見えない。


気がつくと、溜めていた涙が首筋まで溢れていた。


肩は震え、膝は崩れかけ、柵にもたれるしかない。




嗚咽混じりに彼の名を呟いた。


もう泪は止まれない。


風が止むまでは、このままで。


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