空気を読む

会議室に入った瞬間、田中は「ああ、今日は無理だな」と思った。


不思議なことに、同じタイミングで課長が小さくため息をつき、佐藤先輩が資料を閉じ、新人の山田が安堵の表情を浮かべた。誰も言葉を交わしていないのに。


部長が口を開く前から、全員が知っていた。今日予定していた新企画の承認は見送りになる、と。


それは部長の座り方だった。いつもより5センチ後ろに下がった椅子。机に置かれた両手の、微妙に開いた指先。眉間の皺が、普段の「考えている」皺ではなく、「困っている」皺だった。


「例の件ですが……」


部長の第一声で、全員の推測が確信に変わった。語尾の「が」が0.2秒長い。これは「しかし」を意味している。


田中は隣の課長を見た。課長も同じことを考えているのが分かった。お互い何も言わずとも、「来週まで待った方がいいですね」という結論で一致していた。


新人の山田でさえ、入社3ヶ月なのに正解を導き出していた。彼の顔には「今日は質問しない方がいい日だ」という理解が書かれていた。


これがIQテストなら、こうなるだろう。


問題:部長の椅子の位置、手の形、表情の組み合わせから、次に起こることを予測せよ。


A:新企画が即承認される B:修正案の検討が必要 C:延期が適切 D:中止の可能性


会議室にいる7人全員が、迷うことなくCを選ぶ。まるで同じプログラムが組み込まれているかのように。


「上からの指示で、もう少し慎重に検討することになりまして」


部長の言葉に、全員が予想通りという顔でうなずいた。驚いた人間は一人もいない。


田中はふと思った。これが「空気を読む」ということなのか。同じデータを見て、同じアルゴリズムで処理し、同じ答えに到達する。まるで集合知能のように。


佐藤先輩が「承知いたします」と答えた瞬間、全員の肩の力が抜けた。これも同期している。みんな同じタイミングで、同じように安堵した。


「では、来週改めて」


部長の締めくくりの言葉に、全員が同じ速度でうなずく。


会議室を出ながら、田中は思った。日本人の「空気を読む」能力は、個人の感受性ではない。集団で共有している、見えない正解探知システムなのだ。


IQテストと同じように、誰がやっても同じ答えにたどり着く。ただし、その問題用紙は空中に浮かんでいて、文字ではなく、温度と湿度と微細な振動で書かれているのだ。


廊下を歩きながら、課長が呟いた。


「来週の方がいいタイミングですよね」


田中は微笑んだ。やはり全員、同じ答えに到達していた。

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