第32話

「ほんとに行くの?」

 

 最寄り駅の立ち食い蕎麦屋の前で私はもう何度目か分からない渋りをあらわにした。

 

「行くの! 忘れたなんて言わせないよ。ボイスレコーダーもあるんだから」

「……Jesus《ジーザス》」

 

 決戦の日から数日後、憎々しい盟約にのっとって私は今日から二日間自由を奪われる。

 茜の頑張りと勝利は容認するが、その先についてを、はいそうですかと飲み込むにはまだまだ時間が必要だった。あと79世紀くらいは欲しい。が、約束は約束だ。執行猶予はなく、抵抗の術はもう残されていない。

 

「てか荷物多くない?」

 

 リュック一つ背負った軽装の私に対して、茜は小さいながらもキャリーケースを引いており、荷物の差が目立つ。その服装は袖口がキュッと締まったブラウスとその肩から下がるサロペット(っていう名前だった気がする)。それに頭に乗った黒いフェルトベレー帽やサングラス、パールのような耳飾り等小洒落こじゃれたアクセサリーも相まってその姿は旅行にきた可憐な大人お姉さんにしか見えない。普段の愛くるしい茜とは一味違う出で立ちに、本当に同年代かという疑問しか浮かばない。

 

「なんか旅行行くみたいじゃん」

「ん? 泊まりだよ」

「は?」

 

 え、初耳なんだけど。

 

「聞いてないよ」

「言ってないもん」

「泊まりの用意なんてしてないよ」

「だからまずは揃えに行きます! てか服も買お。そろそろ別の可愛いまりー見たいから」

 

 茜は私の袖をくいくいと引っ張った。今日の私は以前と同じ茜プロデュースのコーデ。おしゃれなお出かけ装備は今はこれしかない。

 無計画というか情報共有に不備がある茜に呆れるあまり、メガネを押し上げようとした手がそのまま鼻梁びりょうに触れたことで、今日は不慣れなコンタクトだということを思い出した。服装も雰囲気も違う彼女に対して、私のいつもと違う点は茜にオーダーされたそこだけだった。

 

「いいけど……ってかどこ泊まるの?」

「ラブホ」

「ラブホ⁉︎」

 

 ここでようやく合点がいった。

 二日間、泊まり、ラブホ、そして茜にとってのメインコンテンツはキス。

 

 まずい。非常にまずい。

 

「今晩はラブホでしっぽりと。ね?」

 

 サングラスの隙間から覗かせる上目遣いの煌めくルビー。絶対美形というくくりには入るであろう整った小顔。世の人間にとってはこんなセリフを可愛い恋人から言われたらさぞかし嬉しいんだろう。いや、恋人ではあるはずだが、ちっとも嬉しくない。茜の瞳は肉を狙う鷹の目、或いはメデゥーサのどちらかだ。

 

 コロシテ……コロシテ……。

 

 脳裏には台座に縛り付けられ、装着された管から青い血液を抜かれるカブトガニが思い浮かんだ。もしかしたらカブトガニと同じくらい凄惨な目にあうのかもしれない。

 

「グッバイ、今生こんじょう。ハロー、来世」

「なに言ってるの? じゃあ行こ! れっつごー!」

 

 引きずられるように改札を抜けるとタイミングよく電車が滑り込んでくる。一度乗り換えを挟んで、目的地へのレールである湘南しょうなん新宿ラインに移り、あとは車両に運ばれること二十分程。私達は新宿駅で降りる。

 

「まずはルミネエストに向かいまーす。ここで諸々の準備ね。といっても今日行くホテルは色々揃えてあるらしいけど」

「もぅどうにでもなれぇ……」

「最初は下着買いに行こっか」

「どうにでもしないでくださいお願いします!」

 

 いくら叫んでも、もがいても、乞いても私を引っ張る彼女は止まらなかった。心なしか愉快そうにまで見える。

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