第6話 『芸能界の女帝と呼ばれた元サレ妻』 ⑨「カンヌの赤絨毯」


2025年5月、フランス・カンヌ。


「ミサキ・クロダ!ミサキ!」


世界中のカメラマンが、一人の日本人女性に向けてシャッターを切っていた。


純白のオートクチュールドレスに身を包んだ美咲が、カンヌ映画祭のレッドカーペットを歩く。共演のハリウッドスターたちと並んでも、まったく見劣りしない存在感。いや、むしろ東洋の神秘的な美しさで、誰よりも輝いていた。


「美しい!」「ゴージャス!」


各国の言語で称賛の声が飛ぶ。美咲は優雅に手を振り、時折立ち止まってポーズを取る。その姿は、もはや世界的スターのそれだった。


日本の朝のニュースは、この話題で持ちきりだった。


「カンヌの女王!黒田美咲、世界デビュー!」

「日本人女優初!スタンディングオベーション10分間!」


芸能レポーターが興奮気味に伝える。


「現地からの情報によりますと、上映後、観客全員が立ち上がって拍手が鳴り止まなかったそうです。美咲さんは感極まって涙を流されたとか」


その頃、東京・新宿のネットカフェ。


個室ブースの中で、レオは小さなモニターでそのニュースを見ていた。


無精髭が伸び、髪はぼさぼさ。着ている服は、もう何日も同じものだ。隣のブースから他の客のいびきが聞こえてくる。


「くそっ……」


レオは画面を殴りたい衝動を必死で抑えた。


2週間前、ついにアパートを追い出された。家賃を3ヶ月滞納した末のことだった。所持金は残り8000円。ネットカフェのナイトパックで一晩1500円。あと5日で、完全に路上生活者になる。


「全部、あの女のせいだ」


レオは美咲を恨んだ。自分が不倫したことも、添え物と呼んだことも、都合よく記憶から消し去って。


「俺を陥れやがって。黒田の力を使って、俺の人生を壊しやがって」


隣のブースで、若い男の声がした。


「おい、見たか?元神崎レオの嫁、カンヌだってよ」

「マジかよ。あの人、今や世界的女優じゃん」

「それに比べて神崎レオ、今どこで何してんだろうな」

「さあ?消えたんじゃね?自業自得だろ」


若者たちの笑い声が響く。レオは両手で耳を塞いだ。


スマホが震えた。知らない番号からの着信。藁にもすがる思いで出る。


「もしもし、神崎レオさんですか?」

「はい」

「こちら、週刊誌の者ですが。今どちらにいらっしゃいますか?『転落した元大物俳優の今』という企画で……」


レオは電話を切った。そして、スマホを床に叩きつけた。画面にヒビが入る。


SNSを開くと、カンヌのリアルタイム更新が続いていた。


『美咲さん、カンヌで大注目!』

『レッドドレスに着替えてアフターパーティーへ』

『世界三大映画祭制覇も夢じゃない!』


そして、ある投稿が目に入った。


『美咲さんのスピーチ全文:

「ここに立てるのは奇跡です。1年前、私は誰かの添え物でした。自分の価値を見失っていました。でも、人生にはセカンドチャンスがある。誰でも主役になれる。それを証明したくて、ここまで来ました」』


添え物。その言葉が、レオの心に突き刺さる。


「俺が言った言葉を、利用してやがる」


憎しみが募った。しかし同時に、惨めな現実が襲いかかる。


フロントから内線が鳴った。


「お客様、延長されますか?」


時計を見ると、チェックアウトの時間だった。


「あ、はい。延長で」


「1500円になります」


レオは財布から皺くちゃの千円札と小銭を取り出した。残金6500円。


ブースに戻ると、画面にはまだカンヌの中継が流れていた。シャンパンを手に、世界のセレブたちと談笑する美咲。


その時、画面に映った人物に、レオは息を呑んだ。


若き実業家として有名な、IT企業CEO・朝倉雄一。美咲の隣で、親密そうに寄り添っている。


『速報!黒田美咲に新恋人か!?資産1000億円の御曹司と急接近!』


レオは立ち上がろうとして、めまいに襲われた。

まともな食事を摂っていないせいだ。


個室の壁にもたれかかりながら、レオは思った。


美咲は世界の頂点へ。

自分は社会の底辺へ。


「全部、あの女のせいだ」


レオは壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返した。

現実を受け入れられない男の、最後の逃避だった。


しかし、レオはまだ知らない。

本当の地獄は、これからだということを。

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