第2話 適応~はじめての「女子」
「俺、くじらさんのことずっとおじさんだと思ってたから……」
「な、なんじゃあ、こりゃあああ!!」
「な! なにやってんですかくじらさん!」
野卑で乱暴な言葉をアニメ声で喚き散らしながらこれ見よがしにノーブラの胸を強調するうら若い女性が、注目されないはずはない。ましてや高校生と言っても通りそうなスッピン美女がショートの茶髪を乗せた小さな頭を振り回しているのだから、行き交う観光客、外国人、地元民の多くは立ち止まり、好奇の目を向けていた。
「俺、俺……」
アラフィフの落ち着きを根底から失って取り乱すくじら。その肘を掴み、千百閒は強く引き寄せる。
「くじらさん、落ち着いて。とにかくここを離れましょ、あひゃっ!」
リュックを前に掛け直して胸を隠すくじらは、千百閒の先導でワンフロア下のユニクロに連れてこられていた。
「もお、信じられないよ。一人旅の女の子のくせに、下着も化粧品もTシャツ以外の着替えも持ってきてないなんて」
本来ならくじらよりひと回り以上年下のはずの千百閒だが、いつの間にかタメ口になっている。
「いや、だから知らぬ間に
「はいはい、そーゆーのもういいから。下着の棚はこっちの列。ちゃんと自分で選んでね。俺はなんか羽織るもん見つくろってくる」
立ち寄ったことのない売り場に置き去りにされたくじらは、触れた記憶さえ覚束ない商品群の前で途方に暮れていた。グレーやベージュ、黒など落ち着いた色合いのアンダーウェアが小分けにされた四角い棚に整然と並んでいる。
この海の中から探さなきゃいけないのかよ、この俺が。
両肩から下げたリュックを前に押し、丸首の隙間から見える谷間をのぞき込んだ。
こんな角度、グラビアアイドルの動画でしか見たことないよ。
リュックを少しだけ身体に寄せてみる。ぐにゅっとひしゃげるふたつの丘のビジュアルに、圧迫される実感がついてきた。
ホンモノだよ、これ。俺、ホントに女の子になっちゃったんだ。ていうかこれ、いったいサイズはいくつなのよ。
お手上げのくじらは、目線の先で商品整理をする女性スタッフに助けを求めた。
「あー、すいません。あのですね、なんというか、とてもじゃないけど五分十分では説明しきれない深ぁい事情でですね、いままで一度も購入したことのない女性用の、し、し、下着をですね、自分で買わんといけんくなったとですよ。でも、でもですね。サイズとか素材とか、もうなんもかんもわかんなくて……」
アニメ声で繰り出される必死の早口に最初は戸惑った店員だったが、台詞が力を失い途切れるのを見計って満面の営業スマイルを浮かべて見せた。
C65という謎のキーワードを店員から拝命したくじらは、言われるがままに購入したグレーのワイヤレスブラとボクサーパンツを内に着用して試着ブースのカーテンを開いた。あらためて足を入れたスニーカーはかかとがだいぶ余っている。
直前に姿見で見た自身の身体が隅から隅まで完全に女性のそれだったことに、くじらは驚きとは別種のなにかを感じていた。ただぼうっと立っているだけのその身体には、あるべきものがあるべきところに存在せず、平らかで貧弱だった部分に柔らかく滑らかな盛り上がりがあった。余分な脂肪がだらしなく溢れ出していた腹部はきゅっと締まり、青白く不健康だった表皮は薄桃色できめの細かい絹肌に変わっている。おそらくは
心なしか動作が軽くなっているし、慢性だった首や背中の痛みも消えている。さらにくじらは、老眼鏡が不要になっていたことにも気づいていた。
なんつーか、もしかしてこれって奇跡?!
口の中でそうつぶやいたくじらの脳内には、いままでに読んだ夥しい数のTSコンテンツのエピソードが去来していた。
パス入力でログインしたスマートフォンで決済を済ませて店内を振り返ると、買い物袋を抱えて満面の笑みを浮かべた千百閒が近づいてくるのが見えた。
「なんスか、くじらさん。ぜんぜん変わってないじゃないですか。せっかく綺麗なのにオタク丸出しの金毘羅Tシャツなんかじゃもったいないよ。もっとお洒落しなきゃ」
千百閒はそう言って、両手の紙袋をくじらに押し付けてきた。
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