第8話 変身変装して街へ(2)

 山を下りて街の門に着くと、ベルトホルトは門番たちに通行証と思しき木片を見せた。門番たちは木片と璃玖たちを見比べてから、「よし、通れ」と尊大に言って門を開ける。領主様にこんな偉そうな態度をとっていると知ったら、このひとたちはどんな顔をするんだろうと思うとおかしくなった。


 街には石や煉瓦や木でできた家が並び、ところどころには店もある。璃玖が掛けているペンダントには文字を翻訳する力はないようだが、看板に絵が描かれていたり、軒先に品物の模型が吊るされていたりするので、何の店なのかはだいたいわかった。パン屋、肉屋、八百屋、果物屋、酒屋、仕立て屋、鍛冶屋、靴屋、酒場兼宿屋――。


 行き交うひとびとの耳や尻尾や爪も、館で見た猫やイタチやアライグマのもののほか、ライオン、トラ、ヒョウ、クマ、キツネなどのものがある。アルノーと同じ種類と思しき竜や、やはりワイヴァーンタイプではあるものの、アルノーとはかたちがちがう小型の竜を連れている者もいた。フルーと同じウスバニジヤモリや、カイコのような翅と毛が生えたトカゲや、ツチノコのように腹部が膨らんだ三つ首の蛇を連れている者も――。大型の竜はもとの世界の馬のような存在で、小型の竜や爬虫類に似た生き物は、犬や猫のような存在なのかもしれない。風情ある街並みに、初めて見る種類の獣人たちに、さまざまな竜や生き物たちに、璃玖の心は浮き立った。


 また、嬉しかったのは誰も璃玖を無視しないことだった。商売のためとはいえ、


「さぁさぁ、焼き立てほっかほかのパンだよ、おひとつどうだい?」

「このチーズ、一度食べたら病みつきだよ。他の店のチーズなんか食べられなくなるよ」

「うちの靴の頑丈なことといったら、山を十峰越えたって穴ひとつあかねぇぞ」


 などと声をかけてくれる。変身したおかげだとわかっていても、胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えられない。見知らぬひとに当たり前に話しかけてもらえるというのは、こんなにもありがたいことだったのか。


 ただ、年をとった獣人には身なりの良い者しかいないことに気づくと、ずきりと胸が痛んだ。もとの世界のように社会保障制度が確立しているはずはない、貧しい者は大病や大怪我をしたら長くは生きられないし、ちょっとした病気で命を落とすこともあるのだろう。


 ベルトホルトさんが、貧しいひとは早死にしてもいいなんて考えてるとは思えないけど、領主だからって簡単に社会を変えられるわけじゃないんだろうな……。


 ベルトホルトをちらっと見ると、「どうした?」と訊かれてしまったので、慌てて「何でもないです」とかぶりを振った。この世界の住人ではない自分が口を出すことではないし、でなくてもいまここで持ち出すような話題ではない。


「今日は市の立つ日だから、広場へ行ってみるか」


 ベルトホルトの提案で、街のほぼ中央にあるという広場へ向かった。商人たちが、地面に敷いた布や屋台に品物を並べて売っている。パン、菓子、炙り肉、ソーセージ、チーズ、野菜、果物、酒、食器、布、アクセサリー、刃物――。


「何か食べたいものや欲しいものはあるか?」

「えーと……」


 どれもこれもおいしそうだったり綺麗だったり洒落ていたりして、目移りしてしまう。と、璃玖の肩に乗っていたフルーが、にゅっと果物の屋台に首を伸ばした。


「フルーはやっぱり果物が気になるんだね」

「くぇぇ、くぇぇ」


 いまにも飛んでいきそうなフルーを、璃玖はやわらかく押しとどめて振り向き、


「じゃあ、果物を買ってもらえますか?」


 ベルトホルトに頼んだ。


「おまえはいつもフルー最優先だな」


 肩を竦めながらも、ベルトホルトは一緒に果物の屋台へ向かってくれた。サクランボやイチジクや木苺のような果物もあれば、コバルトブルーの桃やラベンダー色のキウイや、赤い斑点があるピンク色のアボカドのような、璃玖の目から見るとちょっと毒々しい果物もある。フルーがいちばん興味を示していた、プラムのような果物を一皿買ってもらい、二人と一匹で分け合って食べた。


 さらに、スパイスの効いたカボチャのようなものが詰まったパイ、肉汁したたるソーセージ、砕いたアーモンドのようなものを交ぜたビスケットを食べ、薔薇のような香りがする水を飲んだ。いっぱいになったお腹をさすっていたとき、


「いまをときめくコルヴィッツ座の興行だよ! 見りゃあ一生の自慢、見なけりゃ一生の損!」


 底抜けに陽気な声が響き、大人も子どももぞろぞろと広場の一角へ集まっていく。


「あの、ぼくも見たいです!」

「そう言うと思ったぞ」


 ベルトホルトに肩を抱かれるようにして、璃玖は群衆に加わった。十分くらい待っていると、青い上衣に赤いズボン、オレンジ色の尖った靴の男が玉乗りを始めた。観客に囲まれた空間を一周し、ジャンプし、逆立ちし、しまいには逆立ちしたまま玉から片手を離してみせる。技が決まるたび、観客はどよめき拍手喝采し、ぴゅうっと口笛や指笛を鳴らした。璃玖は力いっぱい、ベルトホルトは控えめに拍手する。――フルーはさすがに興味がなかったらしく、璃玖のポケットの中で眠ってしまっていたが。


 男が退場の挨拶をすると、


「ただ見はだめだよ、気持ちでいいから入れてくれ! でっかい気持ちであればあるほど嬉しいがね!」


 司会の男が逆さにした帽子を差し出して観客のあいだを回り、観客は四方八方から小銭を投げ入れた。璃玖がおろおろしていると、ベルトホルトが「任せろ」と囁いて銅貨を投げてくれた。


 ナイフを使ったジャグリングや、帽子に入れた小鳥を消したり出したり、長剣の刃を呑んだりする手品、道化師のパントマイム、薄物を纏った女性の踊りなどが披露され、


「泣いても笑っても、次が最後の演目だよ! 美貌の楽士クラウスの演奏さ!」


 司会の男の紹介のあと、若いキツネ型の獣人の男がリュートのような弦楽器を奏で、張りのある声で愛の歌をうたいはじめた。なるほど、目も唇もシャープで鼻筋の通った美青年で、


「素敵ねぇ」

「一日でいいから亭主と交換したいわ」

「あたしは声だけ交換できればいいよ。ただし死ぬまでね。うちの亭主の胴間声にはもううんざりしてるんだ」


 女性の観客の多くが囁き交わしていて苦笑してしまう。璃玖は明るい曲や情熱的な曲には体を揺らし、物悲しい曲やしっとりした曲には静かに耳を傾けた。


 その後は食べ物や飲み物以外の露店を冷やかした。ベルトホルトは再び「何か欲しいものはあるか?」と訊いてくれたが、璃玖は曖昧に否定した。把手にヤモリが絡みついたデザインのカップも、つかに竜が彫られたナイフも、サメの歯のようなもののチョーカーも欲しかったが、もとの世界に持って帰れるかわからない以上、見るたびに切なくなりそうだったからだ。


 山を登っているとき、


「今日はありがとうございました。すごく嬉しかったし楽しかった……」


 璃玖はまだ夢見心地のまま、感謝と感動のことばを口にした。


「いや……」


 ベルトホルトはおもむろにかぶりを振って足を止める。物狂おしい眼差しに捕えられたと思うやいなや、璃玖はがばりと抱きしめられていた。


「ベ、ベルトホルトさん……?」


 驚きと戸惑いはあったが、不快感や嫌悪感は全くない。それどころかいままで触れられたときにはなかったときめきのようなものを感じ、胸がどきどきして頬が熱くなった。だが、


「リク……どうか忘れないでくれ。私がいつも、心からおまえを喜ばせたいと、楽しませたいと……幸福にしたいと思っていることを……」


 ベルトホルトの悲痛な口調に、心は戸惑いの一色ひといろに染まってしまう。


 ぼくを喜ばせたいと、楽しませたいと、幸福にしたいと……それはわかる。痛いくらい、伝わってくる。でも、どうしてそのことをこんなにつらそうに言うんだろう……。


 ふしぎでたまらなかったが、ベルトホルトが真剣すぎてかえって理由を訊くのは躊躇われた。


「はい。あの、忘れません、絶対に……」


 だからただ心からの気持ちだけを伝え、服の上からでも筋肉の凹凸が感じられる胸に顔を押しつける。窮屈だったのか、フルーが「くぁくぁくぁ」と抗議の声を上げるまで、二人は青みの薄れはじめた空と金色を帯びはじめた雲を背景に、ひとつの影になっていた。

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