第15話 影と契約(前編)

 ――ギルド協会本部。

 東京、大田区にある高層ビルの最上階。

 そこは一般人が立ち入ることのできない、覚醒者社会の中枢だった。


 重厚な扉の奥、広い会議室に一人の男が腰を下ろしていた。

 協会会長――加賀美惣一。

 白髪混じりの髪に鋭い眼光。年齢を重ねてもなお背筋は伸び、ただ座しているだけで圧倒的な威圧感を放っていた。


 机上には数枚の報告書と、いくつかの端末。

 そのモニターには、まさに今行われているゲート攻略戦の映像が流れている。

 その中心に映るのは、血飛沫を浴びながらも冷ややかに敵を切り伏せる、一人の少女の姿。


「……《朱ノ羽》の氷室アリス、か」


 加賀美の口から漏れたのは、その名だった。

 画面の中で、アリスは無数のオークを前にしても一歩も引かず、スレンダーな体をしなやかに動かしながら、まるで舞うように敵を切り裂いていく。

 その剣閃は鮮血を撒き散らし、まさに彼女に付けられた二つ名――《血塗れの戦姫》を体現していた。


 周囲の観測班からはどよめきが漏れる。


「さすがS級……」

「動きが人間離れしている……」

「一人でDランクどころか、Bランクゲートを収束させてしまうなんて……」


 モニター越しですら伝わる覇気に、誰もが息を呑む。

 氷室アリス。その名は既に国内に留まらず、世界中の覚醒者社会に鳴り響いていた。


 加賀美は目を細め、映像から視線を外すと別の端末を開く。

 そこに映し出されたのは、ある少年のデータだった。


 ――神谷蓮。

 ランク:F。

 魔力量:ゼロ。

 戦闘力:測定不能。


 そこだけを見れば、戦力外通告を受けるに等しい「最弱」の烙印。

 だが加賀美は、ページの隅に記された小さな注釈へと視線を移す。


 【二重ダンジョン生還者】。


「……やはり、君はただの少年ではないな」


 加賀美の声は低く、誰に聞かせるわけでもない独り言だった。

 九条に関する断片的な報告と並ぶ“不可解な生還”――。

 あの日、同じゲートに投入されたはずの蓮が生き残り、報告書には説明のつかない部分が多い。


 加賀美は椅子に深く背を預け、天井を仰いだ。

 脳裏に浮かぶのは、一人の旧友の姿。


「……まさか、君の息子がここまで辿り着くとはな」


 それ以上は口にしない。

 だが、その声音には懐かしさと、わずかな憂いが混じっていた。


 そのとき、ノックもなくドアが開いた。

 入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ男――協会監査部のエリート、九条零士だった。


「会長。報告書に記載の件、いくつか確認事項があります」


 九条の視線は冷たく、その奥に潜むのはただの職務執行者の目ではなかった。

 通り過ぎる職員たちが一瞬身構えるほどの気配を放っている。


「……お前もまた、影を背負う者か」


「……何か?」


「いや、なんでもない」


 加賀美は表情を崩さず、報告書を閉じる。

 だが胸中では既に、決して口にできぬ考えが渦巻いていた。

 ――この九条と、神谷蓮。二人を同じ場に置いたら、どうなるのか。


 それは試練か、淘汰か。

 いずれにせよ、避けては通れぬ道だと加賀美は直感していた。


 会議室の外。

 すれ違う職員たちは九条に一礼しながらも、誰も目を合わせようとはしなかった。

 彼の纏う気配は、まるで獣のように人を怯えさせるものだったからだ。


 一方その頃。

 報道各社のニュース速報では、氷室アリスの名が大々的に取り上げられていた。


《速報! 大田区に発生したBランクゲート、S級覚醒者・氷室アリスが単独で攻略成功!》

《《朱ノ羽》の快進撃、再び! 血塗れの戦姫が見せた圧倒的戦闘力》


 街頭のモニターに映るその姿を、人々は熱狂と畏怖の入り混じった目で見上げる。

 「やっぱり日本は彼女がいれば大丈夫だ」「血塗れの戦姫、万歳だ!」と声を上げる者。

 その一方で「S級がここまで突出していて、逆にバランスは大丈夫なのか」と不安を漏らす者もいる。


 そして、その熱狂の裏で。

 まだ誰も知らぬ影が、静かに世界を蝕みつつあった――。

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