第8話 血戦の果てに

 空気そのものが重かった。

 肺に流れ込む度に、鉄の味が舌の奥に張り付く。血の匂いが濃すぎて、酸素よりも死の気配の方が先に満ちているようだった。


 小田桐美沙は、震える手で胸元を押さえていた。

 目の前で討伐者が吹き飛ぶ。赤黒い血飛沫が宙を裂き、仲間の絶叫と同時に大地を叩く。頭蓋が砕ける鈍い音、肉の裂ける音。耳に焼き付くそのすべてが、彼女を現実に縫いつけていた。


「ひ……っ」


 声にならない悲鳴が喉を突いて漏れ出す。

 目を逸らしたい、耳を塞ぎたい。けれど、回復役である自分がそれをしてしまえば、仲間はもっと早く死んでいく。わかっているのに――体が動かない。


「小田桐! 早く回復を!」

「止血だ、頼むっ!」


 仲間の叫びが飛ぶ。

 目を落とせば、倒れ込んだ討伐者の腹部が裂け、臓腑がはみ出しかけていた。血は泉のように溢れ、石畳を濡らしている。


「う……そ……」


 足がすくみ、魔力を練るどころか、吐き気が先に込み上げてくる。二重ダンジョンで味わった恐怖が蘇る。暗闇の中、仲間が次々と絶命していったあの瞬間。あの時は偶然生き延びただけ。自分は勇敢でも、強くもない。


 ――また、誰かが死ぬ。


 理解した瞬間、視界の端で血飛沫が弾けた。

 片腕を失った討伐者が、痛みに顔を歪めて地面に叩きつけられる。叫び声が耳を突き刺す。


「うあああああッ!!」


 小田桐の全身が硬直した。

 震える手を差し出そうとする。けれど、光は集まらない。魔力が空回りし、ただ指先が震えるだけ。


 恐怖が、理性をすべて押し潰していた。



 その時だった。

 地鳴りのような咆哮が響く。


「グオオオオオオオッ!!」


 血に濡れた巨体――ブラッドオーガ。

 全身を覆う黒紫の皮膚には、無数の傷が走っているのに、痛みを感じていないかのように暴れ狂っている。赤く濁った双眸が、次なる獲物を探すように討伐隊をなぎ払う。


 巨大な腕が横薙ぎに振るわれる。

 討伐者三人がまとめて吹き飛び、壁に叩きつけられた瞬間、骨が折れる音と血の霧が舞った。


「ひ……ひいい……!」


 小田桐の目に、地獄が広がる。

 もう無理だ。誰も止められない。



 その瞬間、空気が裂けた。


 重い足音が、血の海を踏み抜いて近づいてくる。

 立っていたのは、まだ若い一人の男。


「……蓮、くん……?」


 呟いた名前が震えていた。

 病室で出会ったあの少年――神谷蓮が、そこにいた。



 蓮は震えていた。

 握る短剣が、汗で滑りそうになる。


 ――来てしまった。


 気づけばここに立っていた。システムに引きずられるように転移させられ、目の前には阿鼻叫喚の戦場。


 目に映るのは、死んでいく人間たち。

 かつて二重ダンジョンで見た光景がフラッシュバックする。

 あの時、自分は何もできなかった。震えながら生き延びただけ。


(俺は……また、何もできずに見てるだけなのか……?)


 血の臭いが鼻を突き、心臓が激しく脈打つ。

 怖い。足がすくむ。

 だが――次の瞬間、仲間の叫びが耳を裂いた。


「誰か! 誰でもいい! 止めてくれッ!!」


 蓮の頭に、あの時の光景が蘇る。

 倒れたまま二度と動かなかった討伐者。必死に助けを求めて伸ばされた手。あの手を、掴むこともできなかった自分。


(……いやだ)


 叫びが、胸の奥からこみ上げる。

 恐怖を塗り潰すように、強い衝動が心を焦がす。


(もう二度と……あんな光景は見たくない!)


 蓮は叫びながら駆け出していた。



 ブラッドオーガの巨体が眼前に迫る。

 振り下ろされる棍棒の一撃――常人なら瞬時に粉砕されるだろう。


 蓮は地面を蹴った。

 視界が歪むほどの速さで回避し、短剣を突き立てる。刃は肉を裂き、紫黒の血が噴き出した。


「グオオオオッ!!」


 巨体がのけぞる。

 だが止まらない。再び腕が振り下ろされ、蓮の身体は宙を舞う。肺から空気が押し出され、骨が悲鳴を上げる。それでも立ち上がった。


(倒すしかない……! 今ここで……!)


 討伐隊の視線が蓮に集まる。

 誰もが目を見開き、信じられない表情を浮かべていた。


「な、何者だ……?」

「増援か……? ギルドが送ってきたのか……?」


 若すぎるその姿に、誰もが判断を迷う。

 しかし蓮の動きは――常識を超えていた。


 血を浴びながら、恐怖を飲み込みながら、蓮はただ突き進む。

 一太刀ごとに身体が軋む。だが短剣は確かにオーガの肉を削っていく。


「こいつ……! 俺たちが歯が立たなかった相手に……!」


 討伐者の一人が呆然と呟く。

 その言葉が、やがて仲間たちの口から連鎖する。


「まさか……上級覚醒者……?」

「いや、だが若すぎる……」

「でも、あの力……!」


 蓮は聞いていなかった。

 耳に届くのは血の轟きと、オーガの咆哮だけ。



 何度も吹き飛ばされ、血を吐き、それでも立ち上がる。

 胸の奥に燃え盛るのは、ただ一つの願い。


(守りたい。もう誰も、俺の目の前で死なせない)


 短剣が赤黒い光を帯びる。

 それは蓮自身すら知らない力の片鱗だった。


「うおおおおおッ!!」


 渾身の一撃が、ブラッドオーガの心臓を貫いた。


「……グ、ガ……」


 巨体が痙攣し、血を吐きながら崩れ落ちる。

 地響きと共に、戦場に沈黙が訪れた。


 蓮は膝をつき、荒い息を吐く。

 全身は血に濡れ、体力は限界を超えていた。


 それでも、立っていた。



 静まり返る戦場。

 小田桐も橘も、言葉を失っていた。


 やがて、蓮がかすれ声で呟く。


「……従え――」


 伸ばされた手が、ブラッドオーガの死骸を指す。

 その瞬間、禍々しい影が床一面に広がり、巨体を飲み込んでいく。血と肉を引きずり込みながら、闇の底へ沈めていく光景は、悪夢そのものだった。


【ユニークスキル《シャドウバインド》獲得】

・死したモンスターを己の影へと格納し、眷属として使役可能。

・同一対象への適用は最大三回まで。


 最後にオーガの手が地面を掻き、そのまま闇へと消えた。

 跡には何も残っていない。


 小田桐と橘は息を呑む。

 だが、蓮を見つめる目に畏怖と同時に、確かな決意が宿っていた。


 彼らは口を閉ざす。誰一人として、この場の真実を漏らさないと。



【システム判定――エクストラミッション:討伐支援、達成】

【帰還処理を開始します】


 視界が白に塗りつぶされ、血と死の臭いが遠ざかっていく。



 病室。

 蓮はベッドの上で荒く息を吐きながら目を開けた。

 冷たい汗が全身を濡らしている。手の震えは止まらず、影の奥底で蠢く何かの気配が消えない。


「……帰って、きた……」


 呟いた声は、掠れていた。



 数分後。

 巡回の看護師が病室のドアを開ける。


「あら……」


 そこには、汗にまみれて苦しげに眠る蓮の姿があった。

 シーツを握る手が震えている。


「悪夢でも見てるのかしら……」


 そう呟きながら、看護師は静かにシーツを整えた。

 もちろん、蓮の影の奥に潜む“眷属”の気配など、彼女には知る由もなかった。



 第一章   完



◆◆◆

【あとがき】

ここまで読んで頂きありがとうございます。

まだまだ続きますので、読んで頂けたら嬉しいです!

面白い・続きは? と少しでも思って頂けたら、⭐︎での評価やフォローして頂けると嬉しいです!!

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