第8話 血戦の果てに
空気そのものが重かった。
肺に流れ込む度に、鉄の味が舌の奥に張り付く。血の匂いが濃すぎて、酸素よりも死の気配の方が先に満ちているようだった。
小田桐美沙は、震える手で胸元を押さえていた。
目の前で討伐者が吹き飛ぶ。赤黒い血飛沫が宙を裂き、仲間の絶叫と同時に大地を叩く。頭蓋が砕ける鈍い音、肉の裂ける音。耳に焼き付くそのすべてが、彼女を現実に縫いつけていた。
「ひ……っ」
声にならない悲鳴が喉を突いて漏れ出す。
目を逸らしたい、耳を塞ぎたい。けれど、回復役である自分がそれをしてしまえば、仲間はもっと早く死んでいく。わかっているのに――体が動かない。
「小田桐! 早く回復を!」
「止血だ、頼むっ!」
仲間の叫びが飛ぶ。
目を落とせば、倒れ込んだ討伐者の腹部が裂け、臓腑がはみ出しかけていた。血は泉のように溢れ、石畳を濡らしている。
「う……そ……」
足がすくみ、魔力を練るどころか、吐き気が先に込み上げてくる。二重ダンジョンで味わった恐怖が蘇る。暗闇の中、仲間が次々と絶命していったあの瞬間。あの時は偶然生き延びただけ。自分は勇敢でも、強くもない。
――また、誰かが死ぬ。
理解した瞬間、視界の端で血飛沫が弾けた。
片腕を失った討伐者が、痛みに顔を歪めて地面に叩きつけられる。叫び声が耳を突き刺す。
「うあああああッ!!」
小田桐の全身が硬直した。
震える手を差し出そうとする。けれど、光は集まらない。魔力が空回りし、ただ指先が震えるだけ。
恐怖が、理性をすべて押し潰していた。
◇
その時だった。
地鳴りのような咆哮が響く。
「グオオオオオオオッ!!」
血に濡れた巨体――ブラッドオーガ。
全身を覆う黒紫の皮膚には、無数の傷が走っているのに、痛みを感じていないかのように暴れ狂っている。赤く濁った双眸が、次なる獲物を探すように討伐隊をなぎ払う。
巨大な腕が横薙ぎに振るわれる。
討伐者三人がまとめて吹き飛び、壁に叩きつけられた瞬間、骨が折れる音と血の霧が舞った。
「ひ……ひいい……!」
小田桐の目に、地獄が広がる。
もう無理だ。誰も止められない。
◇
その瞬間、空気が裂けた。
重い足音が、血の海を踏み抜いて近づいてくる。
立っていたのは、まだ若い一人の男。
「……蓮、くん……?」
呟いた名前が震えていた。
病室で出会ったあの少年――神谷蓮が、そこにいた。
◇
蓮は震えていた。
握る短剣が、汗で滑りそうになる。
――来てしまった。
気づけばここに立っていた。システムに引きずられるように転移させられ、目の前には阿鼻叫喚の戦場。
目に映るのは、死んでいく人間たち。
かつて二重ダンジョンで見た光景がフラッシュバックする。
あの時、自分は何もできなかった。震えながら生き延びただけ。
(俺は……また、何もできずに見てるだけなのか……?)
血の臭いが鼻を突き、心臓が激しく脈打つ。
怖い。足がすくむ。
だが――次の瞬間、仲間の叫びが耳を裂いた。
「誰か! 誰でもいい! 止めてくれッ!!」
蓮の頭に、あの時の光景が蘇る。
倒れたまま二度と動かなかった討伐者。必死に助けを求めて伸ばされた手。あの手を、掴むこともできなかった自分。
(……いやだ)
叫びが、胸の奥からこみ上げる。
恐怖を塗り潰すように、強い衝動が心を焦がす。
(もう二度と……あんな光景は見たくない!)
蓮は叫びながら駆け出していた。
◇
ブラッドオーガの巨体が眼前に迫る。
振り下ろされる棍棒の一撃――常人なら瞬時に粉砕されるだろう。
蓮は地面を蹴った。
視界が歪むほどの速さで回避し、短剣を突き立てる。刃は肉を裂き、紫黒の血が噴き出した。
「グオオオオッ!!」
巨体がのけぞる。
だが止まらない。再び腕が振り下ろされ、蓮の身体は宙を舞う。肺から空気が押し出され、骨が悲鳴を上げる。それでも立ち上がった。
(倒すしかない……! 今ここで……!)
討伐隊の視線が蓮に集まる。
誰もが目を見開き、信じられない表情を浮かべていた。
「な、何者だ……?」
「増援か……? ギルドが送ってきたのか……?」
若すぎるその姿に、誰もが判断を迷う。
しかし蓮の動きは――常識を超えていた。
血を浴びながら、恐怖を飲み込みながら、蓮はただ突き進む。
一太刀ごとに身体が軋む。だが短剣は確かにオーガの肉を削っていく。
「こいつ……! 俺たちが歯が立たなかった相手に……!」
討伐者の一人が呆然と呟く。
その言葉が、やがて仲間たちの口から連鎖する。
「まさか……上級覚醒者……?」
「いや、だが若すぎる……」
「でも、あの力……!」
蓮は聞いていなかった。
耳に届くのは血の轟きと、オーガの咆哮だけ。
◇
何度も吹き飛ばされ、血を吐き、それでも立ち上がる。
胸の奥に燃え盛るのは、ただ一つの願い。
(守りたい。もう誰も、俺の目の前で死なせない)
短剣が赤黒い光を帯びる。
それは蓮自身すら知らない力の片鱗だった。
「うおおおおおッ!!」
渾身の一撃が、ブラッドオーガの心臓を貫いた。
「……グ、ガ……」
巨体が痙攣し、血を吐きながら崩れ落ちる。
地響きと共に、戦場に沈黙が訪れた。
蓮は膝をつき、荒い息を吐く。
全身は血に濡れ、体力は限界を超えていた。
それでも、立っていた。
◇
静まり返る戦場。
小田桐も橘も、言葉を失っていた。
やがて、蓮がかすれ声で呟く。
「……従え――」
伸ばされた手が、ブラッドオーガの死骸を指す。
その瞬間、禍々しい影が床一面に広がり、巨体を飲み込んでいく。血と肉を引きずり込みながら、闇の底へ沈めていく光景は、悪夢そのものだった。
【ユニークスキル《シャドウバインド》獲得】
・死したモンスターを己の影へと格納し、眷属として使役可能。
・同一対象への適用は最大三回まで。
最後にオーガの手が地面を掻き、そのまま闇へと消えた。
跡には何も残っていない。
小田桐と橘は息を呑む。
だが、蓮を見つめる目に畏怖と同時に、確かな決意が宿っていた。
彼らは口を閉ざす。誰一人として、この場の真実を漏らさないと。
◇
【システム判定――エクストラミッション:討伐支援、達成】
【帰還処理を開始します】
視界が白に塗りつぶされ、血と死の臭いが遠ざかっていく。
◇
病室。
蓮はベッドの上で荒く息を吐きながら目を開けた。
冷たい汗が全身を濡らしている。手の震えは止まらず、影の奥底で蠢く何かの気配が消えない。
「……帰って、きた……」
呟いた声は、掠れていた。
◇
数分後。
巡回の看護師が病室のドアを開ける。
「あら……」
そこには、汗にまみれて苦しげに眠る蓮の姿があった。
シーツを握る手が震えている。
「悪夢でも見てるのかしら……」
そう呟きながら、看護師は静かにシーツを整えた。
もちろん、蓮の影の奥に潜む“眷属”の気配など、彼女には知る由もなかった。
第一章 完
◆◆◆
【あとがき】
ここまで読んで頂きありがとうございます。
まだまだ続きますので、読んで頂けたら嬉しいです!
面白い・続きは? と少しでも思って頂けたら、⭐︎での評価やフォローして頂けると嬉しいです!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます