第4話 ペナルティダンジョン
視界がぐにゃりと歪み、病室の白い天井が闇に飲み込まれていく。
世界が反転するような浮遊感。内臓が裏返るような不快感に、神谷蓮は思わず喉を押さえた。
次の瞬間、全身が硬い床に叩きつけられる。背中に鈍い痛み。荒く息を吸い込み、見開いた視界に広がったのは、見慣れた病室ではなかった。
「……ここ……どこだ……?」
立ち上がると、足元にはひび割れた石畳が広がっていた。壁は煤け、黒ずんだ苔がべったりと張り付いている。天井から滴る水がポタリと音を立て、赤黒い靄が床を這うように漂っている。
まるで地下の墓所か、悪夢の中の世界だった。
――ペナルティダンジョン。
頭にその言葉が浮かんだ瞬間、背筋を冷たいものが走った。
デイリーミッションを未達成にした罰。逃げられない現実。システムは冗談でも幻でもなく、徹底した規則で彼を縛っている。
「……っ」
低く唸る音が響いた。
闇の奥で赤い光がふたつ、じっとこちらを見ている。
次の瞬間、それは姿を現した。
全身を黒い炎に包んだ獣。背は人間の胸ほどまであり、筋肉は縄のように盛り上がっている。牙から滴る涎は硫黄の臭いを帯び、床に落ちるとジュッと煙を上げた。
――ヘルハウンド。
灼けるような双眸の上に、鮮やかな赤色のネームが浮かび上がった。
「……赤……。これって……」
理解する。
赤色――それは格上。絶対的に勝てない敵を意味する。
目にした瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。息が止まりそうになる。
「……冗談じゃ、ないだろ……」
そのとき、視界に半透明のウィンドウが展開された。
【ペナルティミッション発動】
――制限時間:60秒
――条件:逃げ切るか、討伐せよ
「……討伐? ははっ……無理だろ、絶対に」
震える笑いが喉から漏れる。
だが笑っている余裕はなかった。
ゴォッ――!
獣が咆哮をあげた。音の圧だけで鼓膜が破れそうになり、腹の底まで震えた。
灼熱の吐息が肌を焦がすように押し寄せる。
反射的に、蓮は走り出していた。
「う、わぁぁああああっ!」
石畳を蹴るたび、靴底が削れる。壁際を掠めるように疾走し、ひたすら距離を稼ぐ。
だが背後から響くのは、地鳴りのような足音。
爪が石を抉り、火花が散る音。鼻を突く焦げ臭さ。
「来るな……来るなぁっ!!」
肺が焼ける。喉が潰れる。脚は棒のようになり、膝が砕けそうになる。
それでも止まれば終わりだ。噛み砕かれ、黒炎に呑み込まれる未来しかない。
【残り 40 秒】
「……っはぁ、はぁ……まだ……まだかよっ……!」
頭の中で残り時間を呪う。
一秒が永遠に感じられた。
壁を掠めて飛び退いた瞬間、背後で火の爆ぜる音。振り返らなくても分かる。獣が炎を吐き、そこにあった石壁を焼き崩した。
熱気が背中を舐め、髪の先が焦げる。
「ッくそぉっ!」と叫び、脚に鞭を打つように走り続けた。
【残り 15 秒】
「……っ……あと、少し……」
視界の端が揺らぎ始める。
光の裂け目が、目の前に現れた。
――戻れる。
その直感だけで身体を投げ出す。
ドンッ!!
勢いのまま、蓮の身体は病院の壁を突き抜け、ベッドに叩きつけられた。
布団が乱暴に吹き飛び、肩を強打する。
「っ……あぁ、はぁ……っ……!」
胸を掻きむしるように呼吸を繰り返す。
額から汗が滴り、全身が震えて止まらない。心臓はまだ耳を叩くように暴れていた。
カチャリ、とドアが開く。
バインダーを手にした看護師が入ってくる。
「神谷さん、容態の確認に――……あら?」
視線がベッドに注がれ、目を丸くする。
「……いらしたんですね。てっきり……」
安堵に微笑む声が、現実に引き戻す。
蓮は肩で息をしながら、小さく頷いた。
だが、視界の端に新しいウィンドウが浮かぶ。
【ペナルティミッション達成】
報酬:《インスタンスダンジョンチケット〈D級〉》
「……チケット……?」
ストレージに吸い込まれていく光を、呆然と見送る。
だが心臓はまだ、ヘルハウンドの吐息を背後に感じているかのように早鐘を打ち続けていた。
――死んでいたかもしれない。
そう実感した時、背筋に冷たい汗が一層流れ落ちた。
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