記憶の霧の向こうがわ

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記憶の霧の向こうがわ

 週末の昼下がり、玄関のチャイムが鳴った。母さんが慌ただしく出ていく背中を見送りながら、俺は少しだけ憂鬱な気分でため息をついた。介護施設に入っているじいちゃんが、一時帰宅する日だった。


 久しぶりに会うじいちゃんは、車椅子の上で前よりもずっと小さく見えた。皺の刻まれた顔はぼんやりとしていて、焦点が合っていないように見える。


「お父さん、おかえりなさい」


 母さんの声に、じいちゃんはゆっくりと顔を上げた。


「おお……。ただいま」


 その視線が、リビングの入り口に立つ俺を捉える。じいちゃんの目が、かすかに見開かれた。


「おお、帰ってたのか。仕事は休みか?」


 それは、俺に向けられた言葉ではなかった。隣に立つ母さんが、俺の腕をそっとつねり、「合わせてあげて」と目で訴えかけてくる。俺はこくりと頷いた。


「……うん、まあね」


 じいちゃんは満足そうに微笑んだ。その笑顔は、俺が知らない、父さんだけが知っている笑顔だった。


 リビングのソファに腰を下ろしたじいちゃんは、機嫌が良さそうだった。昔話が始まると、そのほとんどが俺の知らない、父さんとの思い出話だった。


「お前も大きくなったなあ。昔はよく、キャッチボールをしたもんだ」


 俺はじいちゃんとキャッチボールをした記憶がない。いつも仕事で忙しかった父さんと、たまに公園でボールを投げ合っただけだ。


「そうだったっけ……」


「忘れたのか? お前はいつも全力でボールを追いかけてたじゃないか。懐かしいなあ……」


 じいちゃんは遠い目をして、楽しそうに語り続ける。俺はただ、曖昧に相槌を打つことしかできなかった。忘れられていることへの寂しさと、父さんの代役を演じることへの居心地の悪さが、胸の中で渦を巻いていた。


 でも、食卓で母さんの作った煮物を頬張り、「やっぱり家はいいなあ」と幸せそうに笑うじいちゃんの顔を見ていると、真実を告げることなんて、とてもできなかった。


 昼食の後、じいちゃんが「少し休む」と言って、昔使っていた部屋へ行きたがった。俺が車椅子を押して、今は物置のようになっている和室へ連れていく。


 部屋の隅に積まれた段ボールの上に、古いアルバムが乗っているのが見えた。


「おい、あれを取ってくれ」


 じいちゃんが、震える指でそれを指差す。俺はアルバムを手に取り、じいちゃんの膝の上でゆっくりとページをめくった。色褪せた写真の中には、若いじいちゃんと、まだ幼い父さんがいた。


「ほら、これだ。お前が初めて歩いた日の写真だ」


 そこには、よちよち歩きの父さんの手を引く、たくましいじいちゃんの姿があった。じいちゃんは一枚一枚、宝物のように思い出を語っていく。俺は、自分が生まれる前の、父さんとじいちゃんの時間を追体験しているような不思議な感覚に包まれた。


 やがて、じいちゃんがある一枚の写真を指差した。大学生くらいの父さんが、少し照れくさそうにじいちゃんの隣に立っている。今の俺と、どことなく面影が似ていた。


「この頃のお前は、生意気でな。よく口答えもした。だが……わしは、お前が自慢だったぞ」


 じいちゃんの声は、少し震えていた。


「立派になったなあ……。本当に……」


 俺は、何も言えなかった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。その時、じいちゃんがふと俺の顔をじっと見つめた。その瞳は、さっきまでのぼんやりとした光ではなく、確かな意志を持っているように見えた。


「……お前、誰だ……?」


 どきりとした。正気に戻ったのか? 俺が答えに詰まっていると、じいちゃんはふっと息を吐いて、穏やかに微笑んだ。


「いや……いい。誰でもいい。そばにいてくれるだけで、わしは嬉しいんだ」


 その言葉が、なぜだか無性に胸に沁みた。


 夕方になり、施設から迎えの車が来た。帰り支度を終え、じいちゃんは再び車椅子に乗せられる。


「お父さん、また来てね」


「ああ。……今日は、楽しかったぞ」


 玄関で、じいちゃんは俺の方を向いた。


「じゃあな。……仕事、頑張れよ」


 やっぱり、最後まで父さんだと思っている。俺は、ほんの少しだけ意地悪な気持ちで、こう返した。


「うん。じいちゃんも、元気でな」


 それは、父さんではなく、孫である俺の言葉だった。じいちゃんは一瞬、驚いたように目を見開いた。だけど、何も言わず俺の手を両手で握りしめたら、職員の人に押されて車へと向かっていった。


 じいちゃんを乗せた車が遠ざかっていく。母さんが隣でぽつりと言った。


「ごめんねえ。一日中、お父さんの代わりにさせちゃって」


「ううん、別にいいよ」


「おじいちゃん、本当にあなたのこと、お父さんだと思ってたのかしらねえ……」


 その言葉に、俺は自分の右の手のひらを見つめた。そこには、じいちゃんが玄関で別れる直前、誰にも気づかれないようにそっと握らせてきた、一枚のくしゃくしゃの千円札があった。


 子供の頃、遊びに来るたびに「これで好きなもんでも買え」と言って、お小遣いをくれるのは、じいちゃんが決まって孫の俺にしてくれていたことだった。

 俺は、千円札を強く握りしめた。じいちゃんは、一体どちらの俺を見ていたのだろう。答えは分からない。けれど、この千円札が温かいことだけは、確かな真実だった。


 車が去った道の先をいつまでも見つめながら、俺は切なさと温かさが入り混じった、不思議な気持ちで立ち尽くしていた。

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