第16話「母と息子の心理戦」
「どげんした? お腹痛くなったとね?」
箸もとらず、打ちしおれたみたいにぼんやりとたたずむ息子を見かねた母が、心配そうに尋ねる。
「……いや、別に」
吉田はそれだけ言って箸を取り直し、食事を再開したが、表情は冴えないままだ。
「あと、あれもあったね」
何か思い出した母が話をつなぐ。
「道路に落ちてた財布を拾って交番に届けて、取りに来た落とし主に感謝されたやんね」
吉田はまた難しい顔つきで「……それ、いつ?」と尋ねる。
「これは大人になってからやろ。何? これも覚えとらんか?」
吉田は頭を掻きむしり、「もういい! 昔の話は!」と叫んだ。そしてふてくされた子どもみたいにごはんを乱暴にかき込む。
「何ね……あんたがこれだけ立派なことしてきたという話ばしよっとに、それがどうして気に食わんとね?」
「もういいってば……」
吉田は力なく言った。顔がほとんど半泣きになっている。
実際、吉田は泣きたかった。財布を拾って落とし主に感謝された話も、その前の川で溺れる少女を救出した話も、吉田にはまったく心当たりがなかった。きれいに消えているのだ、誇らしくて自慢できる、素敵な過去の記憶が。どんな立派なことをして人に感謝されても、忘れてしまったら「なかったこと」になる。そんな残酷な話があるか?
食事をとる吉田の顔はゆがんでいる。皿につける箸の動きは荒いし、食べ物も投げ入れるように口に運ぶ。大いに心がささくれ立っていた。
(仕方がないか……過去透視能力の代償だもんな)
記憶の消去は、他人の過去を覗き見るのと同時に起きていることは明らかだった。過去透視能力を使う度に過去の記憶が1つずつ消えるのか、それともまとめて大きく一度に消えるのか、そのメカニズムは皆目不明だが、過去透視能力を使う結果として過去の記憶が犠牲になっていることは動かしようがなかった。
「あんた、何かに悩んでるんじゃなかね?」
息子の様子を見かねて母が言った。
「別に……」
悩みはあれど母に語れる内容ではない。
「いくら悩んでも、宗教とかに頼ったらいかんよ。あんなのに手を出したら、身ぐるみはがされるけんね……」
母は、息子の顔色をうかがうように言った。
母の真意がわかりかねる吉田は、いぶかしげに「どうして急にそんな話する?」と返した。
「長いこと東京に住んどると、身内も近くにおらんし、相談できる人もそんないないやろうし、孤独になってよくそんな場所を頼るようになるいう話はよく聞くけん」
「宗教なんてぜんぜん信用しとらん、そんな心配せんでよか」
吉田はバカバカしいとばかり言下に否定した。
それでも母は心配げな表情を変えず食い下がる。
「あんたの人生やけん、あんたの好きなように生きるのが本当やし、実際お母さんもお父さんも何も言ってこんかったけど、自分でも知らんうちに自分の首ば自分で締めることもあるけんね。好きなことするにしても、そのきれいな手と名前ば汚さんようにせんとね」
吉田は無表情で聞いていたが、最後の言葉だけは耳に引っかかった。実際、すでに汚れているのである。
「心配せんでよか。小心者やけん悪さば働く度胸ないことくらい知っとるやろ」
吉田は全否定して母の疑いを打ち消しにかかる。
それでも母は、止まらなかった。
「……正直に言いなさい。あんた、本当は宗教に入ってるとじゃなかね?」
母がまた蒸し返してきたので、吉田はやや強い調子で「入ってないってば」と吐き捨てた。
「怪しいビジネスはしてないね?」
ほとんど喚問のような調子て聞いてくる。
吉田はここでも「してない」とキッパリ否定したが、このときようやく、(もしかして、日記を読んだか?)という疑念が脳裏に浮かんだ。
「なんで、そんなことを聞く?」
今度は吉田が尋問をはじめる番になった。
「別に、東京暮らしが長いと、ヘンな勧誘とか仕事にハマるとか、心配やけんただ聞いただけたい」
母の答えは先ほどの言葉を繰り返しただけだった。
歯切れの悪い母の返答を受けてその疑念は薄まるどころか膨らむ一方となった。
吉田は母に(日記を読んだのか?)と確認したかったが、それを切り出す勇気がでない。
(読んだ)と言われたらショックを受け、これ以降母との同居などとてもできなくなる。もし(読んでない)と否定されたとしても、この流れで確認すると怪しいことを記述する日記の存在をわざわざ明かすようなものだし、それは同時に後ろめたい隠し事があることをほのめかすことにもなる。そんな計算が働き、日記のことを確かめたくても踏み込めない。それでも母の真意を確認せねば気が済まない。
「いや、だから、あんたも東京生活長いやろ? その間に辛いこととか哀しいこととかもあるやろうし、変な方向に走らんか心配たい。親ならそれくらい考えて当たり前たい」
母は母で日記を読んだ後ろめたさもあり、そのことに言及などできず言い訳で逃げ続ける。
実は母も、日記を隅から隅まできれいに読んだわけじゃないので、吉田のやっていることすべてを把握しているわけではなかった。流し読みして何か息子の暗部に触れた思いがして、それ以上読んでいられなくなったのである。
母が特に目に止まったのは「宇宙」「神秘な力」「この能力で俺の人生は変わる」といったフレーズだった。さらには「15万獲得」「10万獲得」などの収入を表す数字の記載も目についた。これらの情報をもって得体の知れない宗教団体や反社会的な闇ビジネスに手を染めているのではないかとの疑惑を胸に抱いたのだった。
吉田は吉田で、過去透視能力を使って誰かの秘密の過去情報を握り、ゆすりのネタに金を巻き上げる違法ビジネスの記録について、伏せ字や隠語、匂わす表現にとどめるなど、ストレートな表現はなるべく避けるよう気を配って書いていた。それは万が一第三者に読まれた場合のことを考えてのリスク対策であったが、細かいことはわからなくても普通じゃないことが書かれてあることくらいは誰でも直感できる内容だった。もし母が読んでいたら、なるほど宗教との関連を疑ってもおかしくない。
「……ちょっと、飲んでくる」
吉田はそう言って立ち上がり、日記や財布の入ったバッグを手に取ると、玄関に向かって外出の構えを見せた。
外はすでに暗く、小雨が降っている。
「傘もっていかんね」と注意する母の言葉も聞こえないフリをして、吉田は出かけていった。
(金も入ったし、久しぶりキャバクラでもいくか)
吉田は酒の酔いと官能の刺激で心にかかる雨雲を打ち払いたい思いにかられていた。
看板灯のネオンで明るい駅前の繁華街を歩く。雨模様もあり、人気は少なくどこか寂しい。吉田の動きに客引きだけが反応する。
実は、吉田の気づかぬところで、その姿にじっと視線を送る人影の存在があった。
彼女は、吉田の姿を認めた瞬間、驚いたように目を見ひらき、すかさず影のように張り付いて尾行した。
かつて吉田にソープ嬢歴の秘密をネタに金銭をゆすり取られた人妻・緒方孝子であった。
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