【信じる】信じることは本当に美徳か?それとも意地か?

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

信じることは希望であり、同時に呪縛でもある

「信じ抜くことは素晴らしい」「それこそが絆だ」──そう言われると、多くの人はうなずくだろう。最後まで信じ続ける姿勢は、美徳として讃えられ、感動的な物語の中心にも据えられる。しかし本当にそうだろうか。信じ抜くことは、時に単なる意地であり、思考停止の別名でもあるのではないか。ここには人間の複雑な心理が隠されている。


人はなぜ「信じ抜くこと」を尊いと感じるのか。理由のひとつは孤独への恐れだ。裏切られることを恐れる人間にとって、「最後まで信じてくれる存在」は何よりも心強い。恋人や夫婦が互いを信じ続けるとき、友情が困難を越えて続いていくとき、そこに美徳を感じるのは自然だろう。社会もまた、人と人の信頼がなければ成り立たない。だから「信じること」は安心の根拠であり、希望の源泉でもある。


また、信じることは単なる感情ではなく、現実を変える力を持つ。自分を信じれば自信が芽生え、その自信が行動を変え、やがて成果につながる。誰かを信じて応援し続ければ、その人は本当に成長するかもしれない。いわゆる「自己成就予言」だ。信じる心が未来を切り開くのなら、「信じ抜くこと」が美徳とされるのも理解できる。


しかし、この美しい面ばかりを語るのは危うい。信じ続けることは、ギャンブルのような側面も持っている。人は一度賭けたものを簡単には手放せない。負け続けても「ここでやめたら今までのお金が無駄になる」と思い込み、さらに賭け続けてしまう。それが「サンクコスト効果」と呼ばれる心理の罠だ。信じることも同じだ。「今さら疑ったら、これまでの努力や信念が無駄になる」と感じ、疑念を抱きながらもやめられない。つまり、信じ抜くことは実はもう信じていない証拠であり、ただの『意地』にすぎない場合があるのだ。


さらに厄介なのは、信じ抜くことが「美徳」と称賛される社会的風潮が、人々を盲信へと導く点である。宗教や思想、政治的立場を一切疑わない態度は、一見すると忠実に見えるが、実際には思考停止であり、批判精神を失わせる。自分を守るどころか、自分を縛る檻を築いてしまうことさえある。「信じること」が強さに見えて、実は弱さの表れになっていることもあるのだ。


では、信じることは善か悪か。答えは単純ではない。「信じること」は常に二つの顔を持つ。光の側面では、愛や友情を育み、人を勇気づけ、未来を創造する。影の側面では、意地や依存を生み、現実から目を背ける手段にもなる。美徳かどうかは、信じる行為の裏にある心理に左右される。理解と希望から生まれる信念は力となるが、恐怖と意地から生まれる信念は鎖となる。


だからこそ必要なのは、「なぜ自分はこれを信じているのか」と問い続ける姿勢だ。そこに未来を共に築こうとする意思があるのか。それとも「今さらやめられない」という逃げがあるのか。この違いを見極めることができなければ、信じることはただの『ギャンブル』に落ちてしまうだろう。


信じることは、人間にとって避けられない営みだ。友情も愛情も、社会も、信頼なしには成立しない。だが同時に、「信じること」を無条件に賛美するのも危険である。重要なのは「信じ抜け」と叫ぶことではなく、「なぜ信じるのか」を問い続けることだ。その問いの中にこそ、盲信ではない誠実さが宿る。信じることは賭けであり、力であり、絆であり、同時に呪縛でもある。だからこそ私たちは、この二面性を見据え、より自由に、より誠実に生きる道を探さなければならない。

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