第3話 父の客
その夜、一ノ瀬家のリビングには、珍しく緊張感が漂っていた。
父、一ノ瀬孝太郎は警視庁捜査一課の刑事だ。
普段は家で仕事の話をすることは滅多にない。
しかし、今、父の向かいに座る男の存在が、リビングの空気を重くしていた。
男の名は村田雄一。
父の警察学校時代の同期で、今は隣県の所轄署にいる刑事だと紹介された。
日に焼けた顔に、疲労の色が深く刻まれている。
父が入れてやったインスタントコーヒーのカップを、彼は力なく握りしめていた。
「…というわけなんだ、孝太郎。もう、八方塞がりでな」
村田さんの声は、ひどくかすれていた。
私は自分の部屋に行くふりをして、リビングのドアの隙間から、そっと中の様子を窺っていた。
好奇心からではない。
父の顔が、いつになく険しかったからだ。
「密室、か。厄介だな」
父の低い声が応える。
「ああ。書斎のドアには内側から鍵とドアチェーン。窓も全て施錠されていた。合鍵の類も存在しない。完璧な密室だ」
「物盗りの線は?」
「ない。金目のものには一切手がつけられていなかった。第一、そもそも侵入の形跡がないんだ」
村田さんは、まるで助けを求めるように父の顔を見た。
「検視の結果は、急性心筋梗塞。病死だ。だが、俺はどうしても腑に落ちない。あの家政婦の証言が、頭から離れないんだよ」
囁き声。
その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。
まさか。
「“囁き声が聞こえた”か。荒唐無稽だな」
父は腕を組み、厳しい表情で呟いた。
「ああ。だから、上の連中は誰も本気で取り合ってくれない。ただの老婆の聞き間違いか、妄想だろうと。だがな、孝太郎。あの家政婦の目は、嘘をついている目じゃなかった。あれは、本当に何かを聞いた人間の目だったんだ」
沈黙が落ちる。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
父は何かを深く考えているようだった。
その視線が、一瞬だけ、私が隠れているドアの方に向けられた気がした。
まさか、気づいている?
「…少し、詳しく聞かせてもらおうか。その“囁く死体事件”とやらを」
父がそう言った時、私は確信した。父は、私という存在を念頭に置いて、この話を聞いている。
背筋に、ぞくりと痺れるような感覚が走った。
それは恐怖ではない。
武者震いに近い、期待と興奮の入り混じった感情だった。
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