第2話 図書室のアリア

碧山学院高等部の図書室は、私の聖域だ。

放課後の光が大きな窓から差し込み、古い本の匂いと静寂が満ちている。

ここでページをめくる時間だけが、私を現実の些末なことから解放し、純粋な思考の世界へと誘ってくれる。

いつもの指定席で、私はエラリー・クイーンの『Xの悲劇』を再読していた。

緻密に張り巡らされた伏線、読者への挑戦、そして鮮やかな解決。

何度読んでも色褪せない論理の芸術に、私はため息をつく。

「よっ、名探偵。今日も事件か?」

静寂を破ったのは、やはり航汰だった。

バスケ部の練習を終えたらしく、額に汗を浮かべている。

彼は私の向かいの席にどかりと腰を下ろすと、机に積まれたミステリー小説の山を見て苦笑した。

「あんたも飽きないよな、それ。俺にはどれも同じに見えるけど」

「それは違うわ、航汰。一つ一つの事件に、一つ一つの人生と、犯人だけの歪んだ美学があるの。それを解き明かすのが楽しいんじゃない」

「美学ねえ…。俺にはただの人殺しにしか見えないけど」

航汰はそう言いながら、私の読んでいたページを覗き込む。

「で、犯人は分かったのかよ」

「当たり前でしょ。これはもう五回目の読破よ。犯人は……」

私が犯人の名前を告げようとした瞬間、航汰は慌てて両手で耳を塞いだ。

「わー!言うな!ネタバレ禁止!」

「聞いといてそれ?」

呆れる私に、航汰は「だって、莉子があんまり楽しそうに話すから、いつか読んでみようかと思ってさ」と、少し照れくさそうに言った。

彼のそういう素直なところが、私が彼と友人関係を続けている理由なのかもしれない。

「そう。なら、いつか読んでみるといいわ。この物語のロジックは、きっと航汰の脳みそをシェイクしてくれるから」

「シェイクって…」

軽口を叩き合いながらも、私の頭の片隅には、数日前に読んだ「囁く死体」の記事がこびりついていた。

密室、奇妙な証言。

まるで小説から抜け出してきたかのような事件。

もし、この事件の調書が目の前にあったなら。

私はどんな風に読むだろう。

どんな推理を組み立てるだろう。

そんなありえない空想に浸っていた私の心を見透かすように、航汰が言った。

「最近、なんか面白いことあったか?お前、そういうの探してる時の顔してるぞ」

「別に。いつも通りよ」

私は素っ気なく答えると、再び本に視線を落とした。

だが、私の心はすでに、まだ見ぬ事件の記録へと飛んでいた。

物語のページが、また一枚めくれたみたい…。

指先で本のページをそっと撫でながら、私は新しい謎の香りを、確かに感じ取っていた。

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