アトリエの空の色
高坂華からの静かなる宣戦布告は、皮肉にも、私と一条蓮の関係をより強固なものにした。あの一件以来、彼は「約束だから」と言って、これまで以上に私と一緒に時間を過ごすようになった。それは「偽装カップル」としての業務というよりは、むしろ、悪意ある視線や噂から私を守るための、ボディガードのようでもあった。
講義の間の十分しかない休み時間でさえ、彼はわざわざ私のいる教室までやってきて、「よっ」と声をかける。図書館でレポート課題に取り組む時も、ごく自然に私の向かいの席に座り、黙って自分の課題を進める。彼が隣にいるだけで、私に向けられる悪意は形を潜め、遠巻きの好奇心へと変わっていった。その庇護は、偽りの契約の上に成り立つものではあったけれど、孤独に震えていた私にとっては、抗いがたいほど温かいものだった。
おかげで、SNSでの嫌がらせをきっかけに燻っていた悪質な噂は、少しずつ沈静化していった。私と蓮が、周囲が何を言おうと揺るがない「本物のカップル」であるかのように堂々と振る舞い続けたからだろう。もちろん、それはすべて演技だったのだけれど。
そんなある日の放課後だった。空は朝から機嫌が悪く、灰色の雲を低く垂れ込めていたが、ついに堪えきれなくなったように、大粒の雨を地面に叩きつけ始めた。折りたたみ傘を持っていない私は、次の講義までの一時間半、校舎の中で足止めを食らうことになった。
「すごい雨だな。梅雨でもないのに」
廊下の窓から外を眺めていた蓮が、呆れたように言った。彼も、私と同じ講義を選択しているため、二人して時間を潰す方法を考えていた。図書館は、この時間だと満席だろう。
「どうする? どこかの空き教室でも探すか」
「そうですね……」
私が曖昧に頷くと、彼は急に悪戯っぽい子供のような顔つきになった。
「そうだ。せっかくだから、探検してみないか?」
「探検、ですか?」
「ああ。俺たち、いつも文学部棟の周りばっかりだろ。たまには、違う校舎に行ってみるのも面白そうだ」
彼はそう言って、私の返事も待たずに歩き出した。その強引さは、初めて会ったあの日のカフェテリアを少しだけ彷彿とさせたが、今はもう、不快感はなかった。むしろ、彼の大きな背中を追いかけることに、私は奇妙な安心感を覚え始めていた。
彼に連れられて足を踏み入れたのは、芸術学部の校舎だった。
一歩、その建物に入った瞬間から、空気が違うのが分かった。私たちが普段使っている校舎の、静かでアカデミックな雰囲気とはまるで違う、自由で、少しだけ混沌とした創造の匂い。壁には、学生が描いたのだろう、完成されているのかいないのかも分からない、大胆な色彩の抽象画がいくつも飾られている。廊下の隅には、針金で作られた前衛的なオブジェや、削りかけの石膏像が無造作に置かれていた。
「へえ、面白いな、ここ」
蓮は、好奇心旺盛な子供のように、きょろきょろと辺りを見回している。私は私で、この異世界のような空間に、すっかり心を奪われていた。
私たちは、まるで共犯者のように息を潜め、薄暗い廊下を奥へ、奥へと進んでいった。その時、ふと、一つの部屋のドアが、数センチだけ開いているのが目に入った。ドアプレートには『油絵第一アトリエ』と書かれている。隙間から漏れ聞こえるのは、雨音だけ。どうやら、誰もいないようだった。
「……入ってみる?」
蓮が、囁くように言った。その目は、これから秘密基地に忍び込む少年そのものだ。私は、いけないことだと分かりながらも、こくりと頷いてしまっていた。
軋むドアをそっと開けると、ひんやりとした空気と一緒に、懐かしい匂いが私たちの体を包み込んだ。絵の具と、テレピン油が混じり合った、独特の匂い。高校の頃、美術の授業で嗅いだことのある、創造の香りだった。
アトリエの中は、静謐な空気に満ちていた。何十ものイーゼルが、まるで主を待つ従者のように、行儀よく並んでいる。そのいくつかには、描きかけのキャンバスが立てかけられていた。壁際には、アグリッパやブルータスの石膏像が、感情の読めない表情でこちらを見つめている。
雨に濡れた窓ガラスを通して、外光が柔らかく差し込み、無数の埃をきらきらと光らせていた。それは、まるで教会のように、どこか神聖な空間だった。
「うわ、すげえ……」
蓮が、感嘆の声を漏らす。彼は物珍しそうに、パレットに残った絵の具の塊を指でなぞったり、並んだ石膏像の顔を覗き込んだりしている。私は、そんな彼から少し離れて、アトリエの中をゆっくりと歩いた。そして、窓際に立てかけられた一枚の、大きなキャンバスの前で、足を止めた。
それは、まだ未完成の油絵だった。
描かれているのは、どこまでも広がる、青い空。それだけ。雲も、鳥も、太陽も描かれていない。ただひたすらに、深い青が、キャンバス全体を支配していた。
けれど、それは決して単調な青ではなかった。吸い込まれそうなほど深い群青色から、夜明けの光を感じさせる淡い水色まで、無数の「青」が、幾重にも、幾重にも塗り重ねられている。その執拗なまでの色の重なりが、見る者の心を強く揺さぶった。
「すごいな、この青」
いつの間にか隣に来ていた蓮が、ぽつりと呟いた。
その言葉が、私の心の扉の、小さな鍵を開けたようだった。私は、まるで魔法にかかったかのように、その絵について語り始めていた。
「この青、ただの青じゃないんです。すごく高い絵の具の、ラピスラズリを砕いて作る顔料の色……フェルメール・ブルーに、少しだけ似てる。でも、きっとこの絵の作者は、そんな高価なものは使ってなくて、ありふれた絵の具を何色も何色も混ぜて、この深さを出そうとしてるんだと思う」
蓮は何も言わず、私の横で、じっと耳を傾けている。
「よく見ると、下地に赤や黄色がうっすらと見えるんです。普通、青空を描くのに、補色になる色は使わないはずなのに。……だから、きっとこの人は、ただ綺麗な空を描きたいんじゃない。この青い空の向こう側にある、何か別のもの……例えば、燃えるような情熱とか、届かないものへの憧れとか、あるいは、どうしようもない寂しさとか。そういう、目には見えない感情を、この青さに託してるんじゃないかなって」
そこまで一気に話して、私ははっと我に返った。
しまった。まただ。私は、自分の好きな世界のことになると、周りが見えなくなってしまう。一条蓮のような、華やかな世界の住人が、こんな地味で小難しい絵画談義に、興味があるはずがない。
「……すみません。つまらない話、しちゃって」
急に恥ずかしくなり、俯いて消え入りそうな声で謝罪する。きっと彼は、呆れているに違いない。
しかし、彼の口から発せられたのは、予想とはまったく違う言葉だった。
「……すごいな、衣川さんって」
驚いて顔を上げると、彼は、見たことのないくらい優しい、そして、心から感心したような目で、私をじっと見つめていた。
「俺には、これがただの青い絵にしか見えなかった。でも、君には、そんなにたくさんの物語が見えるんだな。画家の感情まで、ちゃんと聞こえてくるんだ」
「そ、そんなこと……」
「ううん。本当にすごいよ」
彼は、絵と私の顔を交互に見比べた後、ふっと、柔らかく微笑んだ。
「君といると、今までモノクロに見えてたものが、急に色を持って見える気がするよ」
——どくん。
心臓が、大きく、一つだけ跳ねた。
彼の言葉には、何の計算も、演技もなかった。それは、アトリエの静寂の中に溶けていく、あまりにもまっすぐな、彼自身の「本心」の言葉だった。
雨が、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差し込んだ午後の光が、彼の横顔を美しく照らし出している。その光の中で、彼の瞳が、私だけを映している。
私は、彼の顔をまともに見ることができずに、再び俯いてしまった。顔が、耳が、燃えるように熱い。偽物の関係の中に芽生えてしまった、本物のときめき。この感情に、私はまだ、名前をつけることができなかった。
静かなアトリエに、二人分の沈黙が流れる。でも、それは決して気まずいものではなく、どこか温かくて、熟れた果実のように甘い沈黙だった。
私は、このアトリエの、絵の具の匂いを、そして窓から見えた雨上がりの空の色を、きっと一生忘れないだろう。
私と彼の、偽りの物語が、初めて本物の色を帯びた、この日のことを。
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