嫉妬のようななにか
芸術学部のアトリエで、一条蓮の意外な言葉に心を揺さぶられて以来。私たちの間の空気は、以前とは比べものにならないくらい複雑な色合いを帯び始めていた。彼の隣にいると、心臓が時々、大きく音を立てるようになった。業務だと割り切っていたはずの彼の気遣いや笑顔が、いちいち私の心をかき乱す。私は、この感情の正体から必死に目を逸らしながら、危ういバランスの上で「偽物の彼女」を演じ続けていた。
そんな私の日常には、大学とは別にもう一つ、大切な居場所があった。駅前の商店街にある、老舗の書店。週に三回、私がアルバイトとして時間を過ごす、静かで、インクと古い紙の匂いに満ちた空間だ。
ここには、一条蓮のような眩しい世界の住人はいない。けれど、私にとってかけがえのない安らぎを与えてくれる人がいた。
「衣川さん、お疲れ様。その平台、補充終わったら上がっていいよ」
柔らかな声でそう言ったのは、アルバイトの先輩である新津匠(あらつたくみ)さんだった。彼は大学を卒業して二年目の社会人で、編集者になるという夢を追いかけながら、この書店で働いている。いつも穏やかで物腰が柔らかく、私が仕事でミスをしても決して責めず、静かにフォローしてくれる。年の離れた、優しいお兄さんのような存在だった。
一条蓮との刺激的で、常に心が張り詰めている日々の後では、新津さんの隣で黙々と本の整理をする時間は、私にとって何よりの癒しだった。
その日も、閉店作業を終え、二人きりになったバックヤードで、私は新津さんと他愛のない話をしていた。
「衣川さん、そういえば最近、なんか雰囲気変わったよね。綺麗になった」
雑誌の返品作業をしながら、新津さんが、ふとそんなことを言った。私は驚いて、持っていた伝票を落としそうになった。
「き、綺麗だなんて、そんなこと……!」
「いや、本当だよ。なんか、前よりも表情が柔らかくなったっていうか……いいことでもあった?」
優しい眼差しで問いかけられ、私の脳裏には、アトリエでの一条蓮の横顔が勝手に浮かび上がった。慌ててその残像を振り払う。
「……別に、そういうわけでは」
「そっか?」と彼は穏やかに笑うと、「でも、無理はするなよ。何かあったらいつでも相談に乗るから。俺、衣川さんのこと、結構心配だからさ」と、私の頭をくしゃりと撫でた。
その温かい手のひらと、心からの気遣いの言葉に、私の胸はじんわりと温かくなった。そうだ、世の中には、新津さんのように、見返りを求めず、ただ静かに優しさをくれる人もいるのだ。彼との時間に、偽りの関係も、時給計算も存在しない。そのことが、私を心からほっとさせた。
「ありがとうございます、新津さん」
私が素直に礼を言うと、彼は「どういたしまして」と、また柔らかく笑った。
店の裏口から外に出ると、九月の夜風がひんやりと頬を撫でた。商店街の明かりが、家路を急ぐ人々の影を長く伸ばしている。
「この後、時間ある? もしよかったら、そこのカフェで軽くお茶でもどうかな。聞きたいこともあるし」
新津さんの珍しい誘いに、私は少しだけ驚いた。けれど、彼の隣は居心地がいい。私は「はい、ぜひ」と答えようとした。
その、瞬間だった。
「お疲れ様」
すぐ近くから、聞き慣れた、けれど今は少しだけ聞きたくなかった声がした。
はっとして振り返ると、書店のショーウィンドウの明かりに照らされて、一条蓮が腕を組んで立っていた。いつからそこにいたのだろう。彼は表情を読ませない顔で、私と、私の隣に立つ新津さんを、じっと見ていた。
「一条、さん……? どうしてここに」
「迎えに来た。業務の一環」
彼は、まるで暗号のようにそう言った。けれど、その目は少しも笑っていない。むしろ、私の隣にいる新津さんに対して、あからさまな警戒心を向けているのが分かった。
まずい、と直感的に思う。穏やかな新津さんの世界と、一条蓮のいる混沌とした世界が、今、ここで交わってしまっている。
「あの、こちらはアルバイト先の先輩の、新津さんです。新津さん、こっちは……大学の友人の、一条くんです」
咄嗟に「彼氏」ではなく「友人」と紹介してしまったのは、新津さんの手前、見栄を張ってしまったからだろうか。その選択が、目の前の男の機嫌をさらに損ねたことに、私はまだ気づいていなかった。
「どうも、新津です。いつも衣川さんにはお世話になってます。本当に真面目で、助かってるんですよ」
新津さんは、さすが大人だった。にこやかに、完璧な笑顔で挨拶をしてくれる。しかし、蓮の態度は最悪だった。
「……一条です」
短く、ぶっきらぼうにそう返しただけ。普段の彼からは考えられない、愛想の欠片もない態度だった。
「衣川さん、本当に頑張り屋さんで、つい心配になっちゃうんですよね。大学でも、ちゃんと楽しんでるかい?」
新津さんが、私を気遣ってそう尋ねる。その言葉に、蓮がぴくりと反応した。
彼は無言で私に近づくと、私の肩をぐっと強く引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めた。そして、目の前の新津さんに向かって、挑戦的な笑みを浮かべて言い放った。
「ええ、もちろん。俺が楽しませてるんで、心配には及びませんよ」
その声は、甘い響きとは裏腹に、氷のように冷ややかだった。さらに、彼は追い打ちをかけるように続けた。
「それから、訂正。こいつはただの友人じゃなくて、俺の彼女なんで」
——しん、と。
商店街の喧騒が、嘘のように遠のいた。
凍りついたのは、その場の空気だけではない。私の心臓もだ。なんだ、これは。この過剰なまでの演技は。まるで、自分の所有物だとでも言うように、私を抱きしめる腕の力。そして、新津さんを威嚇する、敵意に満ちた瞳。
「……そうでしたか。それは、失礼いたしました」
さすがの新津さんも、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、「じゃあ、僕はこれで。お邪魔しました」と、完璧な大人の対応で身を引いてくれた。その背中を見送りながら、私は申し訳なさと、そして蓮に対する怒りで、顔が燃えるように熱くなるのを感じていた。
新津さんの姿が見えなくなると、蓮はぱっと私から腕を離した。まるで、用済みだとでも言うように。
「……どうして、あんな言い方するんですか」
私は、震える声で彼を問い詰めた。
「新津さんは、本当に優しくて、いい人なのに。あんな失礼な態度、ひどすぎます」
「……別に」
彼はふいと顔を背け、拗ねた子供のようにそう呟くだけだった。その横顔は、不機嫌さを隠そうともしていない。今日の彼は、優しい新津さんとは正反対の、ただの「意地悪な人」にしか見えなかった。
気まずい沈黙が、私たちを支配したまま、駅までの道を並んで歩く。なぜ彼はあんなに怒っていたのだろう。業務として、私が他の男性と親しくしているのがまずかったのだろうか。だとしたら、あまりに過剰な反応だ。彼の考えていることが、まったく分からなかった。
駅の改札前で、彼がようやく足を止めた。私は「それじゃあ」と、逃げるように別れを告げようとする。
「……なあ」
彼が、ぽつりと、地面に視線を落としたまま言った。
「俺以外の男の前で、あんまり無防備に笑うなよ」
「え……?」
聞き間違いかと思った。顔を上げると、彼はバツが悪そうに、一度だけ私の方を見て、すぐに目を逸らした。その耳が、わずかに赤くなっているように見えたのは、きっと駅の照明のせいだ。
「……なんでもない。じゃあな。業務終了」
彼はそう早口でまくし立てると、私の返事も待たずに、背を向けて改札の中へと消えていった。
一人、雑踏の中に残された私は、彼の最後の言葉を、何度も頭の中で反芻していた。
『俺以外の男の前で、笑うな』
それは、まるで、嫉妬——。
まさか。そんなはず、ない。だって、私たちは偽物で、これはただのアルバイトなのだから。
けれど、胸の奥深くで、彼の「意地悪」な言葉が、なぜか、今まで言われたどんな優しい言葉よりも甘い響きをもって、何度も何度もこだましているのを、私は止めることができなかった。
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