静かなる宣戦布告
サークルの部室で一条蓮の知られざる一面に触れた、あの夜。私と彼の関係は、静かに、けれど確実に変化の兆しを見せていた。雇用主とアルバイトという無機質な契約書の上に、インクの染みのように、じわりと人間的な感情が広がり始めていたのだ。
彼が私に見せた、完璧な仮面の下の孤独。そして私が彼に差し出した、百円の缶コーヒー。その些細なやり取りが、私たちの間にあった見えない壁を、少しだけ低くしたようだった。業務として学内を並んで歩く時も、以前のような息苦しさはなくなり、交わす言葉も少しずつ自然なものになっていた。
彼が抱える悩みを知ってしまったからだろうか。私は彼を、遠い世界の王子様としてではなく、自分と同じように悩みを抱え何かに抗おうとしている、一人の不器用な人間として見るようになっていた。
偽りの恋人関係は、相変わらず続いていた。けれど、その嘘の中に、ほんのひとかけらの真実が混じり始めているような、そんな不思議な心地よさを感じ始めていたのも、また事実だった。まるで、ぬるま湯に浸かっているような、この曖昧で穏やかな日々が続けばいい。そんな淡い期待を抱き始めていた矢先のことだった。
静かなる宣戦布告は、何の前触れもなく私の日常に突きつけられた。
異変に最初に気づいたのは、ある火曜日の二限、大講義室でのことだった。いつも通り、私は一番前の席でノートを取っていた。ふと、背後から感じる視線の質が、最近のものとは少し違うことに気づいた。
これまでは、好奇心や、少しばかりの嫉妬の色が濃かった。それが今日は、どうだろう。もっと粘着質で、悪意に満ちた何かが含まれている気がする。憐れみ、とでも言うのだろうか。あるいは、あからさまな嘲笑。気のせいだと思おうとしても、一度感じてしまった不快な感覚は背中に張り付いて剥がれなかった。
その異変の正体は、昼休みに、最も残酷な形で私の目の前に提示された。
「さくら、ちょっといい?」
学食へ向かう途中、同じゼミの友人である美咲が、心配そうな、そして少しだけ言いにくそうな顔で私に声をかけてきた。彼女は、私が一条蓮と付き合い始めた(と彼女は思っている)ことを、驚きながらも祝福してくれた数少ない友人だった。
「これ、見た……?」
彼女がおずおずと差し出してきたスマートフォンの画面を見て、私は息を呑んだ。
そこに表示されていたのは、SNSの投稿を写したスクリーンショットだった。黒い背景に白い文字が並ぶ、いわゆる「裏アカウント」と呼ばれるものだろう。アイコンは真っ黒に塗りつぶされ、アカウント名も分からない。けれど、その棘のある文章の癖と、話題の中心人物から、これが誰の手によるものなのかは、火を見るより明らかだった。高坂華だ。
『最近、蓮の隣にいる地味な子って何? 目障りなんだけど』
『なんか裏があるって噂だよ。バイトでお金もらって彼氏のフリしてるとか、惨めじゃないのかな』
『お金で買われたニセモノの彼女役とか、プライドないんだねw 見てるこっちが恥ずかしい』
——ざあっと、血の気が引いていくのが分かった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃。手足の先から、急速に温度が失われていく。
「こんなの、ひどいよ! 誰が流してるのか知らないけど……」
隣で憤る美咲の声が、やけに遠くに聞こえる。私の目は、画面に並んだ活字の羅列に釘付けになっていた。
——バイトでお金もらって。
——ニセモノの彼女役。
——惨め。
事実と、悪意と、嘲笑が、巧みに混ぜ合わされている。それは、逃げ場のない、完璧な攻撃だった。もしこれが完全なデマであるなら、私は怒ることも、笑い飛ばすこともできただろう。しかし、そこには否定しようのない「真実」が含まれている。そして、その真実こそが、私の最大の弱点だった。
「……大丈夫?」
心配そうに私の顔を覗き込む美咲に、私はかろうじて笑みを作って見せた。
「うん、大丈夫。ありがとう。ただの嫌がらせだよ。気にしない」
気にするな、という方が無理な話だった。
一度その存在を知ってしまった悪意は、ウイルスのように私の思考を蝕んでいく。廊下を歩けば、すれ違う学生たちが私のことを見て笑っているように見える。図書館で本を読んでいても、背後から「惨め」という囁き声が聞こえる幻聴に襲われた。
何よりも心を抉ったのは、やはり「惨め」というたった三文字の言葉だった。
その通りだ、と、心の中のもう一人の私が冷たく呟く。私は惨めだ。お金のためにプライドを売り、偽りの笑顔を貼り付け王子様の隣に立つ張りぼてのシンデレラ。自分自身でも、心のどこかでずっと感じていた罪悪感や虚しさを、高坂華は最も的確な、そして最も残酷な言葉で白日の下に晒したのだ。
その日の夜、私は自分の部屋のベッドの上で電気もつけずに蹲っていた。友人から送られてきたスクリーンショットの画像を、何度も、何度も見返してしまう。見れば見るほど、鋭いガラスの破片が心に突き刺さるのが分かるのに目を逸らすことができない。
これは、戦争なのだ。
高坂華は、私という存在を一条蓮の世界から完全に排除しようとしている。物理的な暴力ではない。けれど、その攻撃は、人の心を殺すには十分すぎるほどの威力を持っていた。
涙が、静かに頬を伝った。十五万円という対価は、私の心の治療費に充てられることになるのかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えが、頭をよぎった。
翌日。睡眠不足で重くなった体を引きずるようにして大学へ向かうと、校門の近くで、腕を組んだ一条蓮が険しい表情で立っていた。そのただならぬ雰囲気に、私はすぐに彼もあの噂を耳にしたのだと悟った。
彼は私を見つけると、ずかずかと大股で近づいてきた。そして、周囲の視線も気にせず私の腕を掴んで近くのベンチへとぐいと座らせた。
「これ、見たか?」
彼が私の目の前に突きつけたスマートフォンの画面には、昨日から私を苦しめ続けている、あのスクリーンショットが映し出されていた。私が黙って頷くと、彼は「ちくしょう」と低い声で悪態をつき、自分の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「俺のせいで……。本当に、すまない」
絞り出すような声だった。彼の顔には、私に対する申し訳なさと、そして、高坂華に対する燃えるような静かな怒りが浮かんでいる。
「あいつには、俺からもう一度きつく言っておく。二度とこんな真似はするなって。でも、これは鍵垢の投稿のスクショだから、あいつがやったっていう直接的な証拠がない。だから、これ以上どうすることも……」
「……大丈夫です」
私は、力なく笑って見せた。彼のせいではない。彼を責める資格など、私にはない。これは、危険なゲームに参加することを選んだ、私自身の責任なのだから。
「仕事のうちです。こういうリスクも、契約に含まれてるって分かってましたから」
私がそう言うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔で唇をぎゅっと引き結んだ。そして、次の瞬間、彼は私の手を、両手で強く、強く握りしめた。
「大丈夫じゃないだろ」
彼の声は、低く、けれど有無を言わせない力強さを持っていた。
「君が、たった一人でこんな思いをする必要はない。これは、俺が始めたことだ。俺が、責任を取る」
彼は私の目をまっすぐに見て、言った。
「絶対に、君を一人にはしない。だから、何かあったらどんな些細なことでも俺に言え。辛い時は、辛いって言え。約束だ」
彼の真剣な瞳。握られた手から伝わってくる、熱いくらいの体温。
傷つき、孤独に震えていた私の心に、その温もりが、まるで冬の陽だまりのように、じんわりと染み込んでいく。
これは、業務だろうか。
これも、演技なのだろうか。
それとも——。
そんな問いが、胸の奥で静かに芽生える。
高坂華が放った宣戦布告の矢は、確かに私の心を深く傷つけた。けれど、皮肉なことに、その痛みは、偽物の彼氏であるはずの一条蓮との間に、本物の「絆」と呼べるものの最初の糸を、結びつけようとしていた。
私は、彼の温かい手をそっと握り返した。それが、今の私にできる唯一の返事だった。
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