放蕩。

 長期休暇明けの学校は憂鬱だ。

 春休み明けは、新しいクラスに馴染めるか不安だった。

 夏休み明けは、久しぶりに会うクラスメイトとの距離感が掴めなくて息苦しい。

 冬休み明けも、こたつ恋しさに家へ帰りたくてしょうがなかった。

 出席停止の謹慎処分が明けて初の登校だ。他の子が勉学に励んでいる最中、自分だけが遊んでいたように思われるのが恥ずかしくて無意識に肩が竦んでしまう。喫茶店でのアルバイトも両親に止められて、家族と元カノ以外の誰とも話していない日が続いていた。半月ぶりの学校に緊張して朝から溜め息ばかり漏らしている。

 僕は社会生活を送るのに不都合な性格をしているんじゃないかと本気で悩む。知恵熱が出るほどうんと考えた末に出た結論が、それでも学校へ行こうだから矛盾しているぜ。サボること自体には罪悪感のカケラもないけど、元カノ達に心配をかけたくない。その一心である。

「はぁ……」

「マナちゃん、溜め息ばっかりだね」

「だって、お腹痛いし……」

「心配性だなぁ。南蛇井パイセンのがうつった?」

 よしよし、と小学生みたいに小さな手が僕のお腹を擦ってくれる。

 自転車を押して進む僕の隣を歩くのは、今日もふわふわしている幼馴染だ。

 久しぶりの登校は寝不足で辛い朝に始まり、幼馴染の介護を受けながら終わりそうだ。ふらつく足元を誤魔化しながら、自転車を杖代わりにして通学路を進む。普段は雑談しながら歩く道も今日はやけに足取りが重い。ひばりと言葉を交わすたびに舌が渇いていくようだ。

 溜め息が止められない。

「はぁ……」

「マナちゃん。ステイ」

「ん? え、なに?」

 僕の腰に手を添えて、ひばりがぐっと力を込めた。寝不足の僕は抵抗も出来ずに歩道の隅へと引っ張られていく。欠伸を噛み殺した僕は、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。

 満面の笑みで両手を広げ、ハグを構えた幼馴染がいた。路肩とはいえ普通に公衆の面前だし僕にも羞恥心というものがある。尻尾を巻いて逃げようとしたら、ひばりにスカートをむんずと掴まれた。

「は、恥ずかしいんだけど!」

「何を今更。ひーちゃんとマナちゃんの仲でしょー」

「シチュエーションの問題だよ。他人の目が気になるんだ」

「なぁんだ、そんなことか。マナちゃんってばお年頃なんだから」

「ひばりだって僕と一コしか変わらないからね?」

 ぶつぶつと文句を繰り返していたら、ひばりがスカートを掴む手に力を込めた。ばたばたとはためく布地が僕の足元に空気を送ってくる。ショートパンツを履いているとはいえ他人の目が気にならないはずもない。分かったよ、分かったから止めてくれ。

 駄々をこねる幼子をあやすように、僕はひばりをハグしてあげた。

 背丈に差があるから、正面からハグするとひばりの頭を抱えるような姿勢になる。仔猫のように甘い声を漏らして彼女は僕へと体重を預けてくる。幼馴染のふわふわした髪に触れている間は気も紛れた。

 ……だからこそ、余計に質が悪い。

「もー。ひばりは意地悪だな」

「でも、気分転換にはなったでしょ?」

「……ちょっとはね」

 ありがとう、と頬を撫でる。血の繋がった姉妹よりも仲良しな僕達は、ともすれば共依存に陥りそうな愛情を育んでいる。この関係性に甘えていたいのに、いつかは決断を下す必要もあるのだろう。

 ひばりをいつもの交差点へ送り届けると、信号の向こうには後輩達がいた。この二週間、ひばりの隣に僕がいなかった理由を彼女達は知っているのだろうか。隣を歩く幼馴染に一瞥を向けると彼女は首を横に振った。答えを補強するように道路の向こうから声変わり前の少女が話しかけてくる。高くて、よく通る声だった。

「先輩、風邪が治ってよかったですね!」

「ひばりちゃんは受験生なんだから、うつしちゃだめですよー」

「……気を付けるよ。ありがとね」

 名前は知らないけど顔見知り程度には愛着がある。控えめに手を振ると、後輩達は腕ごと手を振り返してくれた。調子に乗って投げキッスを飛ばしてきた子もいて、ひばりに小突かれている。とても賑やかでいい友達だ。

「それじゃ、また放課後に!」

「ん。またね、ひばり」

 一人になった僕は自転車にまたがって、いつもの通学路を走る。街路樹の近く、割れて模様の変わったタイルにハンドルを取られないよう注意して進む。

 高校が近づくにつれ、息が苦しくなってきた。久々の運動だしな、と言い訳をしながらペダルを踏み込む。熱もないのに寒気がして、風邪でもないのに頭痛が酷い。動悸や息切れが始まるのも時間の問題だと気付いて自転車を降りた。

 ハンドルを押して進む。運動と呼べるほどの代物じゃないのに息が苦しくなってきた。同じ学校の生徒達と顔を合わせるのが嫌で、俯いて歩く。

 帰ってしまえと弱い自分が囁いた。学校へ行くのが嫌なら家で休めばいい。軋轢のあった潟桐はもう学校にいないのに、お腹を押さえて立ち止まる。自転車のスタンドを立てて、歩道の隅へとうずくまった。

 怖いんだ。世界の何もかもが。

 浅い呼吸を繰り返す。泣き出したいのに、涙だけが出ない。

 俯いて動けなくなった僕の肩に触れるものがあった。

 道を塞いでいただろうかと顔を上げる。そこには北村がいた。

「……北村? そうか、バス停から歩いてくると、この道なんだ」

「……うん、おはよ。……どうしたの?」

「おはよう。ちょっと、体調を崩しただけだよ」

 誤魔化すように笑った。風が舞い上げた砂埃に、反射で顔を覆う。目の端に滲んだ涙は砂埃のせいに違いない。無表情に立ち尽くす北村は、僕の嘘を見抜いているのだろうか。

「……顔色が悪いね。……朝ご飯、食べた?」

「はは、ただの充電切れだよ。しばらく学校をサボっていたから」

「……失敗と教訓を、活かせてないね」

「うぐっ」

 北村の囁くような声が胸に刺さる。

 困ったら友達を頼りましょう、と叱られたばかりなのにね。

 今日も僕はひとりで悩みを解決しようとしていた。北村の鋭い視線に射抜かれて、足元からひんやりとした空気が這い上がってくるようだ。蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなって、北村が僕の頬に触れても金縛りは続いた。

「……どうしたの?」

 喉に舌が張り付いて喋れない。

 ごくりと飲み込む音がやけに響いた。北村に心配かけてどうするんだと自分を鼓舞して言葉を探す。正直に伝えるのが一番だ。分かっているくせに、迷惑をかけるんじゃないかと要らない心配が脳裏を過る。手の震えが止まらない。声を絞り出そうとして何度か失敗しているうちに、北村が自転車の荷台へと腰掛けた。

「……学校サボって、デートしようか?」

「へ? 北村も冗談言うんだね」

「…………」

 あ、なんか怒っている。表情は変わらないけど雰囲気で分かる。ごめんと謝るのは簡単だけど北村が求めているのは謝罪じゃない。彼女に許してもらうには僕が正直に悩みを打ち明けるしかないのだ。

 深呼吸を繰り返して逃げ出したい気持ちをぐっと堪える。北村は無表情だった。膝に乗せた通学鞄に手を乗せ、僕をじっと見つめていた。話し出すのを待ってくれているようだ。

 浅い呼吸を繰り返して、拳をぎゅっと握りしめた。

「怖いんだよ」

 どうにか絞り出した言葉に続けて、内心を吐露する。

「仲良くなったと思っていたクラスメイトや、親しくしてくれた生徒会の先輩が僕に白い目を向けるのを想像すると前に進めないんだ。今にも涙がこぼれそうで、それも恥ずかしくて」

 積極的に友達を作れないのも、恋焦がれる少女達との仲を深めていけないのも、すべてはこの性格に起因している。生まれ持った強固な性質だ。僕が他人を気にせず振舞えるようになったなら、それは僕の姿形を持った別人だろう。

 臆病な自尊心を晒せる相手は片手で数えて事足りる。

 自転車の後輪を蹴ると、カラカラと乾いた音を立てて回った。

「僕は弱い人間だからね。言い訳が必要なんだ」

 恋人をひとりに絞れない。だからみんなが好きだと素直さを盾にして逃げる。潟桐の傲慢さを話し合いで解決できないから、尊厳のためと言い訳して暴力に逃げる。根底にあるのが僕の弱い心だと考えれば、僕はどこまでも進歩のない人間だといえた。

「僕は、弱い人間なんだ」

 言葉を繰り返せば言霊になって、現実を補強するらしい。あんまりスピリチュアルなことは言いたくないけど、今日だけは信じてしまいそうだ。

 北村は何も答えない。鼓膜を押すような沈黙、水底に沈んでいくような底知れない不安があった。目を細めた北村が僕の服の裾を掴んでくる。細くて白い指が僕の手に絡む。ふと、今日の北村が変だと気付いた。いつもと違う、些細な違和感。何が違うのかと思考を巡らせ、不意に気付く。

 スキンシップが苦手なはずの彼女が僕の手を握っていた。

「……私じゃダメ? 私が、波久礼君の言い訳になってあげる」

 囁くように呟いた彼女は、僕の手を握り直す。

「……私じゃ、ダメかな」

 北村の瞳には僕だけが映っている。

 覚悟の決まった瞳の底に、好意と慈愛が見え隠れしていた。

 感情表現が乏しいと思われがちな少女にも、熱い血潮は通っているようだ。

「……っ。……波久礼君の熱血がうつったかも」

 ふと我に返ったのか、彼女は恥ずかしそうに僕の自転車のサドルへと腰を下ろした。

 耳にかかった髪を指で払い、口元へと手を寄せる。春先に比べ伸びた髪と、ちょっとずつ上手になっていく化粧が彼女を大人に変えていく。それだけじゃないか。彼女は、自分で道を探しながら成長しているんだ。

 かっこいい。北村は、とても格好いい。

「北村、ぎゅっーてしていい?」

「……ちょっとだけなら」

「ん。ありがとう」

 許可を貰って、サドルを降りた彼女を抱きしめた。

 ひばりや東風谷先輩のせいで麻痺しがちだけど、他人に胸襟を開くのは勇気のいる行為だ。手を繋ぐ、腕を組む、抱きしめる。程度の差はあっても他人に触れられるのを好まない人も多いだろう。北村もそうだったはずだ。

「北村とハグするの、初めてだよね」

「……そうかも」

「だよねぇ。……ひょっとして、照れてるの?」

 答えが返ってこない。それこそが何よりの答えだった。

 元カノ達の中で唯一、彼女とはハグをしたことがなかった。貧血で倒れそうになった彼女を受け止めたことはある。運動会の帰り道とかに、南蛇井や東風谷先輩と揃って肩を組んで歩いたこともある。けど、ハグをしなくても好意を伝える方法は他にいくらでもあったから無理に抱き着こうとはしなかった。僕はひばりとは違うのだ。

 細い北村の身体を壊れないように抱きしめる。

 腕に感じる温もりは、体温ばかりじゃない。

 心と心が触れ合って伝わる、唯一無二の熱量があった。北村の背中に触れながら、道路を行き交うクルマや学生達を眺めていた。あまり交通量の多い道路ではないと思っていたけれど、時間帯にもよるのだろうか。

 心配が和らいで余裕の出てきた頭で色んなことを考えていたら、北村に背中をぽんぽんと叩かれる。頬が触れ合う距離で彼女の表情を伺うといつもの無表情は変わらず、けれど顔は赤く上気していた。

 流石に恥ずかしくなってきたようだ。なるほど、ひばりからは僕がこう見えているのかも。

 髪を整える北村と少し距離を取る。腕には、まだ温もりが残っていた。

 彼女は、照れを誤魔化すようにそっぽを向いた。

「……遅刻しちゃうよ。……それとも、今日はサボる?」

「学校に急ごう。北村に元気を分けてもらったから、もう大丈夫だよ」

「……本当に?」

「平気だって。あ! 遅刻がマズいなら自転車でニケツする手もあるよ!」

「……ダメです。……道交法は守りましょう」

 北村なりの軽口にふへへと笑って、僕は自転車のスタンドを蹴り上げた。

 もし学校に着いたあとで心がダメになったなら、北村と南蛇井のいるクラスに突撃しよう。ふたりに頭を下げて、弱い僕を慰めてもらうのだ。悩んだら頼れと言われたんだし、有言実行させてもらおう。

 北村と並んで学校へ向かう道すがら、スマホで時刻を確認してみる。僕は自転車通学だから徒歩だと何分掛かるのか分からない。普段もバス停から学校まで歩いている北村なら感覚で分かるのだろうか。

「これ、間に合うの?」

「……大丈夫。……五分くらいある」

「なら余裕じゃん」

 それじゃ、もっとハグしてても良かったのかな? なんて思いながら自転車を押す。しきりに前髪に触れる北村を眺めて歩いた。

 無表情ゆえに不機嫌そうと誤解を受けることも多い北村だが、彼女と仲良くなれば所作の端々に感情が滲み出ているのが分かる。彼女の頬には未だに朱が差していて、僕まで頬が火照ってきた。ハグにここまでの効力があったとは。

 仲の良い四人とは、積極的にハグしていたいな。

 学校が目と鼻の先になった。

 用水路脇の狭い道を抜けて駐輪場へと向かう。体格のいい男子が慌てたように走っていくのを横目に、この時間が続けばいいのにと願う。北村と話をしている時間は穏やかで居心地が良い。少しでも話していたくて、歩く速度を緩めた。

「北村、なんか変わったよね」

「……どうして?」

「いつもより可愛いから。メイクもちょっと変わったよね?」

「……分かる? ……嬉しいかも」

 北村が前髪から指を離した。今日は彼女の表情も明るい気がする。僕の処分が終わって無事に戻ってきたからと考えるのは自意識過剰だろうか。駐輪場に自転車を置いた後も一緒に下駄箱へと向かった。クラスが違うからどこかで離れなくちゃいけないのに、名残惜しくて離れられない。今生の別れでもないのに後ろ髪を引かれる思いだ。

 階段を上っていたら、先を歩いていた北村が振り返った。

「……最近、笑う練習をしているの」

「へぇ、そうなんだ。それまた、どうして?」

「……そっちの方が、可愛いかなと思って」

 北村が頬を掻く。周囲に誰もいないことを確認して、一瞬だけ笑顔になった。

 衝撃で顎が外れそうなほど驚いた僕を放って、彼女は普段通りの無表情に戻っている。

「……他の人には秘密ね。……私も、少しは努力してみようと思って」

 あまりの可愛さに膝から崩れ落ちそうだ。

 北村も、彼女なりに社会に馴染む方法を模索しているようだ。階段に躓いた僕は、前のめりに転がりながら一年生の教室が並ぶ階の廊下へと飛び出した。前を歩いていた少女にぶつかりそうになって、反射的にごめんと謝る。

 ばったりと出くわしたのは、クラスメイトの女の子だ。七里の友人で、僕も何度か挨拶をしたことはある。所詮その程度の仲だし――と目を背けかけた僕に少女は柔らかく微笑んだ。

「おかえり、波久礼君」

「え、あ……。ただいま?」

「ふふっ。元気そうで良かったぁ」

 えへへと笑いながら、教室に戻るクラスメイトを見送る。そして、北村に向き直った。

「また、放課後にね」

「……うん。……ありがとう、帰ってきてくれて」

 控え目に手を振った北村も、自分のクラスへと歩いていく。

 去り際に、もう一度、あの笑みを見せてくれた。

 作りものだと嘯くくせに、北村の笑みは眩い宝石のようだった。

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