ひばりと気分屋。 -2
西条ひばりは、僕の幼馴染である。
ふわふわとした捉えどころのない少女で、すぐ隣の家に住んでいた。両親の帰りが遅い日はこうして僕の部屋へと遊びに来ることも多い。ひょっとして僕の家に住んでいるのか? と思うほどに遭遇頻度が高いので、幼馴染というよりは妹みたいな存在だった。
その西条が僕の部屋でゴロゴロしている。
ひょっとして家主か? と思うほどのくつろぎっぷりである。
「西条。そこ、僕のベッドなんだけど……」
「いいじゃん。ここがひーちゃんの居場所だから」
「……まぁ、ほどほどにね? 遅くなる前に帰るんだよ」
家が隣同士だから遅くなっても問題ないんだけど、追い返さないと連泊始めるからな。
制服姿の西条が、ベッドの上で脚をパタパタさせていた。埃が舞って不健康だ。ちなみに、彼女が脚をバタバタと動かすせいでスカートもめくれてしまっている。こちらは短パンのおかげで下着が覗くこともなく、大変に健全だった。……僕は何を言っているんだ。
「制服のまま横になると、しわになるよ」
「ん? じゃあ着替えよっかなー。どこにあったっけ」
「そこのタンスの、下から三段目」
教えてあげたら西条は素直に従った。
放置したら彼女の私物で僕の部屋が塗り替えられそうだ。
「持って帰りなよ」
「えー? どうせ泊まるんだし、いいじゃーん」
「洗濯するのは僕なんだけど」
まったく、文句のひとつも言いたくなるぜ。
西条と一緒に、僕も制服から私服へ着替えることにした。制服をハンガーにかけ、過ごしやすい服を選んで袖を通す。よし、勉強するぞと気合を入れた僕とは対照的に、西条は再びベッドへと転がっていった。
「……ねぇ、西条。僕はこれから勉強するんだけど」
「ん。ひーちゃんも勉強中だよ」
「そんな体勢で? しかもベッドだし」
「お姉ちゃんのベッドは、とてもリラックスできるので」
そういうもんかなぁ、と思いつつ放っておくことにした。
妹の我儘に付き合ってあげるのもお姉ちゃんの務めだからね。
「マナちゃん」
「なに、西条」
「……むぅ」
珍しく名前で呼び掛けられた。けれど、西条は何かを求めてくるわけでもない。
西条も反抗期だろうか、と今日は母親の気分になってみた。
勉強道具を抱えて机に向かう。西条も本当に勉強しているようで、ベッドに広げているのは数学の参考書だった。僕があげたやつを使っているらしい。一年違えば出題傾向も変化しそうなものだが、果たして無事に志望校を合格できるのだろうか。まぁ、西条は僕よりも要領がいい子だから、特に心配はしてないんだけど。
妹みたいな幼馴染を監視役にして、僕も勉強を始める。やる気を起こすまでが大変だけど、やり始めたら面白いほどに勉強が捗った。与えられた課題を終え、念のためにと復習した英語の単語帳もこれでバッチリだ。文法に関しては一度も落としたことがないから、これでちょっとは安心かな。
勉強を切り上げたところで親からの着信があった。
言い忘れていたが、僕の両親は喫茶店を経営している。一階が店舗で、二階が僕達の居住スペースだ。娘の立場だろうと自信満々に自慢するぜ、とても居心地のよいお店だと。特に目玉商品のオムライスは絶品の一言に尽きる。喫茶店でオムライス? とか野暮なことは言わないように。地域色って奴だよ。
「西条、ご飯だって。お店の方で食べていいよ」
「つーん」
「西条? 今日はキミの好きなオムライスだよ」
「おっ、それは素敵……じゃなくて」
ノートをぱたんと閉じた西条が、ベッドの上に座り直す。
参考書の代わりに僕の枕を抱きかかえた西条は、甘えるように僕を見上げた。
「ひーちゃんのこと、名前で呼んでほしいな?」
「えぇ? なんで?」
「いいじゃん。べつに、もう十年の付き合いなんだし」
「それは、まぁ、そうなんだけど」
適当に誤魔化そうとしたら、西条がベッドから降りて僕の方へ近寄ってきた。椅子に座っている僕の膝の上に腰を下ろしたチビっ子は、そのままぺたんと抱き着いてくる。ずっとベッドに寝転んでいたせいか、西条の身体からは薄く汗の匂いがした。
「今日はどうしたの。随分と甘えたがりじゃないか」
「そういう日もあるってことですー」
学校で疲れることでもあったのかな、と西条の頭をわしわしと撫でてあげる。
西条の目元が緩んだのも束の間、彼女はぷぅっと頬を膨らませると僕の胸にぐりぐりと頭を摺り寄せてくる。妹みたいに可愛がっている幼馴染だけど、だからといって他の元カノ達以上の特別な感情を抱いているわけじゃない。こうやって家に遊びに来ることも、泊まっていくこともあるけれど、それは彼女を本当の妹みたいに思っているだけの話である。
……とまぁ、色々な言い訳を重ねてみるけれど。
結局のところ、僕が相手のことを名前で呼べないのは気恥ずかしいからの一点に尽きる。
「西条、あのね」
どうにか要求を撤回してくれないかと彼女にお伺いを立ててみるが、西条はぷいっと顔を背けて話も聞いてくれない。喉のあたりをくすぐってご機嫌を取ろうとしたが、かぷっと噛みつかれてしまった。猫より気まぐれな妹君は、僕に抱き着いたまま離れようともしない
「マナちゃん。最近、冷たいじゃん」
「そんなことないと思うけど」
「いーや。冷たいね。高校生になった途端、ひーちゃんと遊んでくれないんだもん」
……これはまた、随分とこじれていそうだ。僕が高校へ進学したために登下校の時間がバラバラになってしまい、お喋りの時間が減ったことも影響しているのだろうか。
かぷかぷと僕の指を口に含んで、西条は頬を膨らませる。
「ひーちゃんのこと名前で呼んでくれるまで、ご飯食べないもんね」
「わ、我儘すぎるよ……」
「いいじゃんかー。名前で呼ぶだけじゃん」
まぁ、確かに彼女の言う通りなんだよな。
たかだか名前を呼ぶだけなのに、どうして緊張する必要があるんだって話だ。
理由は分かっている。名前を呼べば相手の領域に一歩踏み込むことになる。人付き合いが苦手な僕にとって、誰かと仲良くなるための一歩は自分の心をすり減らすに等しい痛みを伴うものだ。
それは相手が幼馴染だろうと例外じゃない。
ぎゅっと胃袋の上の方が縮む気がした。プレッシャーを受けた身体が反応したのだろう。けれど僕の体調などお構いなしに、西条は僕へと抱き着いて離れない。僕だってもう高校生になったんだ。このくらいは乗り越えて大人にならなくちゃいけないんだ。
覚悟を決めて、震える唇で言葉を紡ぐ。
「ひばり。……はやく、ご飯を食べに行こう」
「ん、よろしい! へへー、これで私もマナちゃんの特別だね」
「……元々、ひばりは僕の特別だよ」
とても仲の良い幼馴染だからね、と続けた言葉を聞いていたのかいないのか、彼女は甲高く叫びながら部屋を出ていた。お店に迷惑をかけていないかと慌てて僕も追いかけると、ブーメランのように戻ってきた彼女と鉢合わせて真正面からぶつかってしまった。
尻餅をついた僕へと、西条は全身全霊で甘えてくる。
「えっへへー。今日はいい日だなぁ」
「良かったねぇ。……ちょっと、重いんだけど」
「そんなことないもーん。ひーちゃんは天使の羽より軽いから」
「それは言いすぎでしょ。ほら、行くよ」
名前を呼んだからって特別な関係になれるとは思わない。たとえ嫌い合っている間柄でも、下の名前で呼び合う関係性もあるだろう。けれど西条が……。いいや、違うな。
ひばりが喜んでくれるなら、名前で呼ぶのもいいなと思った。
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