あの山を目指して 【1分で読める創作小説2025】

山広 悠

第1話

富士山をなめていた。


8合目を過ぎると急に勾配が激しくなり、火山灰が深くなって足元が不安定になる。それと同時に空気が一気に薄くなる。

火山灰エリアを過ぎると今度は手を使わないと登れない岩場が続く。

数メートル進むだけで心臓が、太ももが悲鳴を上げる。

いよいよ脚がつり始めた。

かといってここまで来て下山するのもありえない。

痛む脚を擦りながら、果てしない先の山頂を見上げて、俺は途方にくれていた。

その時だ。君が声をかけてくれたのは。

「大丈夫ですか?」

なんてことない一言と差し出された飴。だが、こぼれるような笑顔に俺は激しく狼狽した。

口下手で人見知りな俺は飴を受け取りながら「ど、どうも…」としか言えなかった。

「それじゃあ、お互い無理せず頑張って頂上を目指しましょうね」

そう言ってまたにっこり微笑むと君は先に進んで行った。

朝日に照らされた君の笑顔は本当に輝いていた。

山では皆、誰にでも優しくなるものだ。

そんなことは頭では分かっていたが、あの時、初めて人を好きになったんだ。


しばらく休憩すると、つりかけていた脚も復活してきた。

君から貰った勇気を胸に、また歩き出す。


数時間後、山頂に到着した。

かつて感じたことのない、沸き上がるようなとんでもない達成感。

生憎の曇り空だったが、そんなこと全く関係なかった。

登頂できたのもこんな気持ちを味わえたのも、それもこれも全て君のおかげだ。

一言御礼が言いたくて、君を探し始める。

痛む脚を引きずりながら、大勢の外国人をすり抜ける。

どこにも君はいなかった。

もう、下山してしまったのかな…

そう思い、下山ルートへと向かう。

下山ルートの入口には、下へと続く道と、もう一つ更に高みへと続く道があった。

そういえば、以前「富士山の山頂は最高点ではない」と聞いたことがあった。

まさかこの先まで行ったのか…?

薄い霧の中、目をこらす。

いた!

間違いない。君の後ろ姿だ。

俺は脚がまたつりかけているのも忘れて、走って追いかけた。周りの人が怪訝そうに見つめる。

あと少し。

あと一歩で君に追い付ける。

ちゃんと御礼を言って、できれば初めて芽生えたこの気持ちも伝えたい。


「あの…!」

俺は意を決して声をかけた。

君が振り返る。

パッと明るい笑顔が浮かぶ。


その時、いきなり突風が吹いた。

よろめいて踏ん張った先の足元の岩がグラッと崩れ、俺は火口へと落ちかけた。

君が咄嗟にトレッキングポールを伸ばす。俺はそれを必死に掴んだ。




君は2度も俺を救ってくれたんだよ。

赤ん坊と一緒に寝ている君の寝顔をみながら、俺はそっと呟いた。



                     【了】












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あの山を目指して 【1分で読める創作小説2025】 山広 悠 @hashiruhito96

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