3.

 老爺が指した部屋の隅に重ねておかれていた二脚の椅子を、オリアスがベッドのそばに並べた。腰を掛けてから少しして、女性がトレーに三人分のティーカップ、クッキーを乗せて運んでくる。女性はそれをベッドそばの机に並べると、「一階のお掃除をしていますので、なにかあったらお呼びください」と一礼して部屋を辞した。

「まずは自己紹介といこうじゃないか。私はルーマリ。セーラ殿からは、私についてなにか聞いているかな」

 オリアスとユラは、視線を交わす。それから、ユラが答える。

「俺はユラ。墓守をしている。こいつは、一緒に旅をしているオリアス。あんたのことは、従者だったと聞いている……百年ほど前に亡くなった」

「そうか。私が亡くなってからもう百年も経ったのか」

「顔を合わせて早々、自分が使者であることを認める者は、はじめてだ」

「おや、そうなのかい?」

「あいつ……大天使なにか予言でも授かったのか?」

 怪訝に問うたオリアスに、ルーマリはきょとんとしたのち、ぷっと噴き出した。

「大天使様をあいつ呼ばわりする人に出会うのは、私も初めてだ。もしかして君は」

 オリアスがそっぽを向く。ややあって、ルーマリはわずかに笑みを含んだ声で言った。

「予言は預かっていないよ。ただ、私が床に伏してから三度、人目を盗んで見舞いに来てくれたことがあってね。三度目のときに私がそろそろ長くないと言ったら、言ったんだよ——「きっと君は不完全な死の状態の魂になるだろう」って」

 吹き込む風に白いカーテンが、白髪がさわりと揺れる。

 ユラがルーマリに尋ねる。

「他者から言われるほど、明確な未練があったのか」

「ああ。セーラ殿が心配だという未練がね」

「あれが心配?」

 オリアスの眉間には自然と皴が寄る。それをルーマリは細めた目で仰いだ。

「セーラ殿は下戸なんだ」

「……」

「その癖に、結構酒が好きなんだ。私が体を壊して隠居する前……まだ、セーラ殿に仕えていた頃は、ときたま誘われては月見酒をしたものだよ。大天使様の献上品を一緒に頂くのは申し訳ないと思ったりもしたけれどね。断ればあの方はひとりで月を仰ぎ酒を呷るの思ったら、物寂しく感じられて……放っておけなかった。そして酔ったあの人はよく、昔の話をした。ぐでんぐでんの酔っ払った、呂律の回らない舌で、それが、昔馴染みたちの話を、何度も」

 色褪せ罅や皴が入った手のひらが、太腿の上に着っぱなしになった本の表紙をそっと撫でる。

「最初、大天使様の従者に選ばれたときは、いい職位につけた、としか思っていなかった。大天使様からの晩酌の誘いも、きっと気まぐれだったに違いないし、私も同情心から答えたものだった。でもね。気づけば、その昔馴染みたちを羨ましく思う自分がいたよ」

 おもむろに瞬いた、淡い色の瞳がオリアスを見る。

「大天使様の昔馴染みとなれば、きっと、彼と同じ種族で、同じ時を重ねられるんだろうと……彼をひとりにせずに済むんだろうと」

「それが、あんたの未練か」

 問うたユラの手を、ルーマリはそっと握った。

「ああ。そうだ」

 そこから流れ込む思いを受け取ったであろうユラはわずかに目を見開き、瞳を揺らし、そっと閉じた。

「大切だったんだな」

 ルーマリは眦の皴をいっそう濃くして、嬉しそうに、微笑んだ。

「セーレ殿は仰ったんだ。私が本当に不完全な死の状態の魂になったときは、自分が特選した墓守に弔わせると——悠久を生きるあの方にとって、私との日々は一ページにも満たないかもしれないと何度も思ったけれど。そんなこともなかったらしい」

 そっと、ルーマリの手がユラから離される。

「セーレ殿に伝えてもらってもいいか? 疑ってすまなかった、と。できれば、このクッキーを添えて。あの方も気に入っていた……少なくとも、百年前は、気に入っていたからね」

 皿に乗っていたのは、ジャムクッキー。

 オリアスは、そしてユラも、それに覚えがあった。

「店の名前は——」

「蛙印のフロッシュ・ロゼ」

 ふたりが声を揃えて続けば、ルーマリはわずかに驚いたように瞬き、くすりと笑った。

「さすが、私だけじゃなくセーレ殿も気に入ったクッキー屋さんだ。百年続いていたか」

「伝えるのは、謝罪だけでいいのか」

 まっすぐに、ユラが尋ねる。責めるでも、誘うでもなく、純粋な確認の言葉だった。ルーマリは口を開いた。乾いた唇は、「ああ」と答えようとしているようだった。しかし、それが一瞬、止まる。そして、ルーマリは頬を掻くと、やがて、面映ゆそうに微笑んだ。

「やっぱり、もうひとつだけ、いいかな——」

 その言葉を聞いて、ユラはひとつ頷き、胸に手を当てる。

「必ず伝えよう」

「死人に口を与えてくれてありがとう、ユラくん……それから、オリアスくんも」

「……」

「セーレ殿によろしくね」

 答えないオリアスに、それでもルーマリは何も言わずただ微笑んでいた。

「じゃあ、ユラくん。弔いを頼んでいもいいかな」

「ああ」

 ユラが右手のひらを、ルーマリに向ける。

「エトランゼの名のもとに。あんたの魂を、不完全な死から往くべき道へと導こう」

 風がぶわりと噴き上がり、カーテンが激しくはためく。ふんわりとした光が溢れ出し、景色が急速に溶けていく。

 やがて、真っ白になった世界で瞬きをすれば、次の瞬間にはセーレの間に戻っていた。

 セーレはずっとその場から動いていなかったらしく、オリアスと目が合うとにっこりと微笑んだ。

「おかえり。オリアス。ユラくん」

 ともに戻ってきたユラは、弔いに力を使い、眠気をに帯びた重たい瞬きをしながら、手に持った鳥籠を見た。その中にあった白い光は黒い種に姿を変えている。

 と、セーレが指をぱちんと鳴らした。セーレの足元に、黒くしっとりとした土が入った、エメラルドグリーンの植木鉢が現れる。

「その種を植えるのは植木鉢でもいいって聞いているけれど。これでもいいかな」

「ああ。種が根と花を生めれば大丈夫だ」

 ユラに一瞥され、オリアスが魔法で土に適度な穴を掘ってやる。その様子をにこにこと見守ってくるセーレの眼差しを鬱陶しく思いながらも、鳥籠の扉も開けてやれば、ユラがそっと種を手に取った。

 そしてセーレの足元に屈むと、植木鉢の土の中に種を埋めた。

 あっという間に芽を生やし、そしてそれは見る見るうちに一輪の黄色い花を咲かせ、光を放った。ゆっくりと渦を描きながら上へ上へと向かっていく。セーレがまたぱちんと指を鳴らすと、天井に小さな穴が生まれた。光はそこを通り抜け、やがて空へと向かっていくのだろう。

「オリアス」

 その光を見届けたユラは、オリアスに手を差し出した。求められているものを一瞬で察したオリアスは、トランクからクッキーの箱を取り出す。

 ユラはそれを受取ろうとしてから、わずかに瞳を細め、オリアスの背後に回った。

「ユラ?」

「俺は疲れたから。オリアスから、渡してくれ」

 ユラはオリアスの背に抱き着き、外套に顔を埋めながら言う。

 疲れているのは本当だろうが、それでも十中八九、余計な気も回しているのだろうとは思う。

 オリアスはため息を吐き、クッキーの箱をぶっきらぼうにセーレに突き出す。

「もしかして、私にお土産を買ってきてくれたの? なんだ、気が利くじゃないか」

「違うこれはもともとユラが食べる予定で買ったものだが百パーセントユラの善意により仕方なく譲ってやるだけだありがたく受け取れ」

「わぁ、すっごい早口。へぇ、でも、驚いた。蛙印のフロッシュ・ロゼ。まだ潰れてなかったんだね。私もこの店のクッキーが好きなんだ。ルーマリにお茶を頼むと、いつもお茶請けに用意してくれたんだよ」

 ぷは、とユラはオリアスの外套からわずかに顔を離して、言った。

「ルーマリが。それを持ってあんたに、疑ってすまなかったと伝えてくれ、と言ったんだ」

「おや、私は彼になにか疑われていたのか」

「あんたにとって、自分との日々は一ページにも満たないものかもしれないと」

「へぇ……ユラくんはどう思う? 私がそう思っているように、見えるかい?」

「あんたの百年が一ページなら」

 セーレはじっと、オリアスの胸のあたりを見つめた。そこを透かして、ユラを見つめるように。そして、彼は口だけでなく、目も綻ばせて笑んだ。

「言い得て妙だ」

「それから、もうひとつ。伝言」

「なにかな」

「——心からお慕い申し上げております。だと」

 ユラより先に、オリアスが口にした。

 ユラがオリアスの背中をこぶしで、ぽすぽすと軽く殴った。それからまた、全体重をオリアスに預けてくる。頭もぐりぐりと擦りつけてくる。先の意趣返しだ、オリアスはすんとした態度を装ってそれを受けとめる。

 そうしてじゃれあうふたりの外で、セーレだけがそっと瞳を細め、クッキーの箱を見て、ふっと、息を零した。

 やがて、オリアスの背中の気配が落ち着いた。オリアスが振り向けば、ユラはオリアスに抱き着いたまますうすうと寝息を立てている。

 ユラを前に持ってきて、オリアスは横抱きにした。

「君もずいぶんと彼を慕っているようだけれど。ユラくんもずいぶん君に心を許しているんだね」

「ルーマリに、特選した墓守に弔わせると言ったそうだな。どうしてユラに依頼した。今日会ったばかりだろ」

「交流した時間なんて関係ないさ。圧倒的要因が、そこにあるんだから。君を起こした存在。それ以上のお墨付きがあるかい?」

「……なぁ」

「なに、オリアス」

「本当に、お前が大天使になるしか道がなかったのか」

 セーレが、オリアスを見据える。かつては爛々としていた、今は虚しさが滲むようになった、灰色の瞳に滑る光。

たちの普通は、この世界では普通じゃなかった。だから、人々を救わんと魔法を使ったあいつは悪霊災害を引き起こした悪魔とされて、恐れられ、石を投げられた。僕は、石を投げられたくなんてなかったのさ。知ってるだろ? 僕が、誰のことも好きで、誰とでも遊べる、男だって。目立ちたがりで、八方美人の、プレイボーイだってさ。だから、僕は君たちを悪魔犠牲にすることで、僕だけを守る道を選んだ。僕は望んで、大天使になったんだよ」

「本当に」

 にっこり、と。セーレがいっとう華やかな笑顔を浮かべた。

「本当さ」

「それなら。俺たちのことは封印じゃなく、殺せばよかったんじゃないのか」

「オリアスは僕に、君たちを封印したのは深い事情があってのことだった……とでも言ってほしかったの? オリアスって、そんなに友情を重んじるタイプだったっけ。ああ、でも、飲みには必ず来てくれたもんね」

「……」

「僕はね、オリアス。石も投げられたくはなかったけれど、朋友を殺せるほど、強かでもなかっただけさ。言っただろ、八方美人だって」

「お前はたしかに、目立ちたがりのプレイボーイではあった。だが——アスタがあの世界の平和と引き換えに亡くなったとき、誰よりも泣いてた」

「……」

「アスタの犠牲を当然の義務ノブレス・オブリージュのように扱うやつらに怒っていた。それが八方美人か」

 セーレは笑顔を崩さなかったが、何も応えはしなかった。オリアスは小さくため息を吐く。

「まぁ、どんな理由があったとしても。それを一切語られることなく、お前に裏切られた事実は変わらねぇ。俺がお前に好感を持つことはもうねぇよ」

「あはは、報復するかい」

「お前をどうこうするより、ユラと旅する方がはるかに大事だ」

「そう、久々に全力でやり合うのも悪くないと思ってたんだけどね」

「年齢的には爺さんどころじゃないやつ同士のやり合いなんて目も当てられない」

「爺さんどころじゃないやつが、若い男の子にメロメロじゃないか」

「……うるせぇ」

 そっぽを向くオリアスに、セーレはからからと笑う。

「僕としては新鮮な姿が見られて良かったけれどね。あいつらが起きたら是非とも語ってやりたいよ。まぁ、それが何年後か、何百年後になるかは分からないけど……そうだ。ブルーから呪具のことは聞いただろう」

 オリアスの眉がわずかに跳ねる。

「わざわざ話題に出すってことは」

「オリアスが目覚めて、わりとすぐかな。もうひとり、目覚めた子がいたんだ。十中八九、そいつが作ったものだね。経緯と意図はまだちっとも分っていないけれど……まぁ、彼は誰よりも僕を恨んでいそうだからなぁ」

 遠くを見つめて、セーレは肩を竦める。

「まぁ、君たちも遭遇することがあったら、気を付けてね」

「俺は恨まれるようなことしてねぇから問題ねぇだろ」

「分かんないよ? この世界を絶対滅ぼすマンになってたらどうするのさ」

「そうしたら、とうに滅ぼされてるだろ」

「まぁ、それもそうだね——僕たちはみーんな、とても素晴らしい魔法使いだったから」

 オリアスはセーレを一瞥し、ため息を吐いた。

「自分で言うことかよ」

「ねぇ、オリアス。朋友としてひとつだけアドバイスしてあげよう」

 人差し指をぴん、と立てたセーレは、それを自身の口元に翳した。

「君がユラくんのことを、そしてユラくんとの旅路を心から大事に思うのならば。その主従契約をどう扱っていくか、よく考えた方がいい。それから、どうしたって止めることも覆すこともできない限り有る時間を、大切にね」

「ふたつじゃねぇか」

「本当だ。僕もさすがに、老いてきたのかなぁ」

「ただの馬鹿だろ」

「ひどいなぁ」

「……セーレ」

「うん」

「お前に言われるまでもない」

「そう」

「俺たちはもう行く。どこかのタイミングで花送りに参加させられるくらいにはユラを回復させないといけない」

 オリアスに抱かれながら、出会って三年経っても相変わらず青年と少年の間の容姿にある男はすうすうと眠っている。無垢な寝顔を少しでも視界に入れると、心の澱が浄化される。

「ユラくんとももっと話したかったな。また一緒に遊びにきてね」

「三年後の花弔祭には来るだろうが、お前には会いに来ねぇよ……ああ、そうだ。ここまで呼びつけたんだから、ランタンを便宜しろ。大天使」

「はいはい。これね」

 セーレがぱちんと指を鳴らすと、クッキーの箱はどこぞへ消え、入れ替わりでその手に紙袋が召喚される。差し出されたそれを受け取り、ランタンキットが入っているのを確認する。

「オリアス」

「なんだ」

「またいつか、みんなで飲みに行きたいね」

「行かねぇよ。下戸」

「昔は下戸でも付き合ってくれたのに」

 大仰に肩をすくめ、それから。

「君たちのお陰で、久々に、ちゃんと呼吸をした気がするよ。ありがとう」

 かつての朋友は両手を合わせ、昔と変わらない顔形で、昔よりも鈍く澄んだ表情を浮かべた。

「君たちの旅路が幸多からんことを。大天使の私が、心より祈ろう」

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