4.

 カーネに導かれ、ときどき街の人を紹介されながら見た街中に、ユラの姿を見つけることはできなかった。

 その晩、オリアスはカーネと隣街へ行き、彼の工房に泊めてもらった。たしかに画材が所狭しと置かれていはいた。だが散らかっているというよりも、ここを使っているアーティストが自身が作業しやすい空間を構築している、という印象だった。熱心に絵に向き合っているからこそ生み出される光景だろうと思った旨を伝えると、カーネは照れ臭そうに頬を掻いた。

「本来は僕みたいな若造が工房なんて烏滸がましい話なんだけどね。明日結婚する奥さんの……僕のお義父さんになる人が僕の絵を気に入ってくれて、いい絵を描くためにはいい作業場が必要だって用意してくれたんだ……って言うと、僕がそれ目的で結婚したみたいに聞こえちゃうかな? ち、違うからね? もちろん、支援してくれるのはありがたいんだけど。ちゃんと恋愛結婚だからね!」

「言い訳すると余計それっぽく聞こえるぞ」

「うう……本当に恋愛結婚なんだよ。学生時代から付き合ってて。僕の絵を見た彼女が「素敵ですね」って微笑んでくれたときの笑顔がすごく、かわいくて!」

「言い訳の次は惚気か」

「うううう……オリアスさんってもしかして結構意地悪だね?」

「お前の反応がよすぎるだけだ。ま、幸せそうでいいじゃねぇか。惚気を長々聞く気はないけど」

「……うん、幸せだよ。とてもね」

 その微笑みには、嘘偽りは感じなかったもののほんの少しの濁りが滲んで見えた。

「そういえば、オリアスさんの方の話は聞いてなかったね。黒い髪の、黒い瞳の男の人って。オリアスさんの旅の連れ?」

「まぁ、そんなところだ」

「へぇ。じゃあ、とても仲が良いんだ」

「は?」

「良くないと一緒に旅なんてできないでしょ」

 それは、まったくもってその通りだと思う。しかも一泊二日といった期限が目先にある旅ではなく、十年以上同行するのならなおのこと。だからオリアスはユラの掴みどころのないマイペースな振る舞いに振り回され不安を抱いている。かといって、命懸けの契約を交わしている身だ、やすやすと傍を離れるわけにもいかないし、オリアスが離れれば彼は——。

「オリアスさんはその人のことが大切なんだね。すごく心配そうな顔をしてる」

「それは……生きるのが下手なやつだから」

「生きるのが下手」

「放っておくとそう遠くないうちに野垂れ死ぬ」

「面白そうな人だね」

「面白くねぇよ、ちっとも……」

「ふふ、僕もますますその人に会ってみたくなっちゃったなぁ」

 カーネは仮眠用のベッドを広げると、備蓄しているという保存食まで分けてくれた。それから「さて、僕もそろそろ帰るね。今日は奥さんが僕たちの大好物の、シチューを作って待ってくれてるんだ」と緩みきった笑顔を浮かべたカーネと、明朝この工房で会う約束をして解散した。

 オリアスは食欲はさほどなかったが、カーネから貰った魚の缶詰の蓋を開けると、一口食べた。それは保存のための、甘みの濃い味付けがされていた。嚥下すれば、食欲が満たされる感覚もある。

 街を巡る間も、夕日がじんわりと皮膚を焼く感覚、舗装された土の道を踏む感覚が、しっかりとあった。

 なんともリアルな夢想。きっと転べば痣ができるだろうし、皮膚を切れば血が出るのだろうと、そそっかしい男に思いを馳せては、オリアスは眉間を抓んだりため息を零した。

 缶詰を食べ終えると、オリアスはベッドに横になった。長躯がはみ出さないよう脚を折り曲げ、窓辺をぼんやりと見つめる。

 点々と街灯が照る街、時々人が通る姿を見ては、それがユラじゃないかとたしかめる。黒髪の背姿を見つけると、勝手に期待して、勝手に落胆した。

 ユラとともにいることは不安だ。それでも、出会ってしまい、気になってしまい、関わってしまったからには、放っておけない——放っておきたくない。

 どちらの世界にいるとしても、ユラが無事であることを祈りながら。ユラに言えば「悪魔も祈るのか」と淡々と意外がられそうだと思いながら。オリアスは瞼を閉じた。



 翌朝、オリアスは工房に訪れたカーネと合流し、彼が今住んでいる街の方をぐるりと巡った。カーネの故郷である街よりずっと広く、商店や背の高い建物が数多あり、学校や噴水広場などもあり、先日見た中央ほどではないにしても都会的だった。

 そうして昼前には一通り巡り終えたが、ユラの姿は見つからなかった。

 屋台でカーネが買ってくれた燻製肉とチーズのブリトーを食べてから、ふたりは街周辺の森も探索してみることにした。

「正直、森については熟知しているかといわれると微妙なんだよね。こどもの頃はシンミアとよく遊びに行ってたんだけど」

「なぁ」

「ん?」

「ここいらの森って、街の人間がそれなりに出入りするか?」

「いや、ここら辺は獣も出ないし、あるといえばちょっとした木の実やキノコくらいだから。来るのはこどもたちか、散歩がしたい大人くらいかなぁ」

「足を止めるなよ」

「え、なに?」

「誰かにつけられている気配がする」

 オリスが声を潜めて言うと、カーネがわっと目を見開く。そのまま大きく開きそうになった口を、カーネはすんでのところでは両手で塞いだ。

 それからカーネは目だけであたりを見回し、極限まで声を潜めた。

「ほ……本当? 誰が、なんのために。こどもたちがごっこ遊びで、とか?」

「こどもじゃないな。隠れるのは上手くないから、尾行に慣れているわけじゃなさそうだが」

「なんでオリアスさんそんなこと分かるの? もしかしてオリアスさんがその道のプロ? 僕、物語読むのも好きなんだよね。スパイ物語序盤を思い出しちゃうよ」

「お前、尾行される心当たりは?」

「え、僕?」

「俺はつけられるような心当たりが微塵もない」

「ほ、本当に? スパイみたいなムーブしておいて?」

 なにせ生きている時間が違うのだから。なんて、言ったところで信じてもらえなさそうだが。

 この朗らかな青年も他人から恨みを買うことはなさそうではあるが、それでも何者かにつけられているのは事実だ。ここは取り返しのつかない過去、夢想に過ぎない。それでも、世話になった善人が目の前で狙われているとなれば、見て見ぬふりはし難い。それと同時に、昨日かすかにだけ抱いた可能性が再び脳裏に過る——何者かに尾行されている、結婚式直前の男なんて。

「で。なにかないのか」

「ええええ……そ、そんなこといわれても……あ」

「なんだ。なんかあるのか」

「……うーん、でも」

「確信がなくてもいいから言ってみろ。用心するに越したことはないんだから」

「いや……僕は今はそれなりに稼げてきている画家だし、奥さんは商会長の娘で家が太いんだよ。だから、それを狙っての可能性を考えたんだけど。でも、そうだとしたら、家に強盗とかに入るかなって」

「お前を人質に身代金を要求する可能性もなくはないが……俺もいる、男ふたりを相手にしても尾行してるってことは他の目的があるか、よっぽどの無謀かだろうな」

「他の目的……あっ」

「なんだ」

「僕に懸想してくれてる、とか……!?」

 カーネの表情に戯けた色がぺかっと浮かぶ。

「まさか結婚のタイミングでモテ期が来るとはなぁ。でも僕には心に決めた人がいるから……!」

「……まぁ、ないとは言い切れないな」

「もしくは、奥さんの方に懸想してる人かな。とっても綺麗な人だから。そんな彼女と結婚できる僕に嫉妬した誰かが僕と決闘するタイミングを見計らっている!」

 オリアスはわずかに呆れながらもまた「まぁ、ないとは言い切れないな」と返した。

「名指しできるほどの心当たりは好悪問わずないってところか」

「うーん。これまでの人生で僕に好きって言ってくれた女の子は、奥さんだけだし。どれだけ貧しくなっても後ろ暗いことだけはするな心まで貧しくなってしまうぞ、っていうのがうちの家訓だかね。堂々と生きてるつもりだよ……シンミア以外には、だけど」

 カーネの瞳に切ない陰りが浮かぶ。

「そいつがお前を避けるようになった理由って、結局明らかになってないのか」

「え、もしかしてオリアスさん、シンミアのこと疑ってる? シンミアはそんな、誰かをつけるようなこと、ましてや悪いことなんてしないよ」

「なんで断言できる。お前とシンミアは、今は親しくないんだろ」

「それは……そうだけど。シンミアが僕を避けるようになった理由は、分からない。聞けてない。色々、考えはしたけど。例えば…… シンミアも僕の奥さん、ガットのことが好きだったのかな、とか。僕が直接なにかをしでかしたんだとしたら、あいつはすぐに言ってくれるはずなんだ。そんなあいつが言えないことって考えたら…… 避けられるようになったのも、僕が彼女と交際をはじめて少し経ったくらいのタイミングだったから」

「でも」とカーネはこぶしをぎゅっと握る。

「そうだとしても、シンミアは絶対、悪いことはしない。しないよ。もしなにか思うところがあって、行動を起こすとしても、面と向かって起こすはずだ」

 訴えかけてくる眼差しは揺るぎない。親しかったのはかつてと言いながらも、カーネはシンミアに深い信頼を寄せているらしい。シンミアの方は、分からないが。

 オリアスは逡巡してから、カーネに言った。

「この後の、黄昏の試練だったか? 俺が同行しても問題ないか」

「え?」

「相手が誰にしろ、つけられているんだ。なにかをしでかさないとも限らない。万が一の用心棒くらいにはなれる自信がある。結婚式に水を差されるのはお前だってごめんだろ?」

「それは……うん、そうだね。同行者がいてはいけないっていう規則はないし、オリアスさんがいてくれると心強い。でも、いいの? お連れさん探さなくて」

「一宿一飯の恩返しだ。それに、試練の吊り橋やら森やら丘やらにいる可能性もあるだろ」

 その後オリアスとカーネは、追跡者に気付いていないふりをしながら、森をしばし探索した。ユラの姿はやはり見つからず、追跡者の気配も消えることはなかった。

 太陽がいくらか西に傾いたところで、ふたりは黄昏の試練へと向かった。

 カーネの故郷である街と、丘へと続く森を繋ぐ、吊り橋。

 近づいてみると長さはそれなりにあり、緩やかな湾曲を描いている。下には、水深がそれなりにあるだろう幅広の川が流れていた。その流れはちっとも飛沫が散らないほどに穏やかで、吊り橋も昨日カーネが言っていたように、しっかりと整備され風に揺られはしても命の危険を感じるほどではない。そうして渡った先の森も静穏で、度胸試しの場というよりかは、ほどよい散策場所といった印象だった。

 さすがに四方が明け透けの吊り橋を渡っている間は、追跡者の気配は遠ざかった。そのまままけたらと思って早足で森を進んだが、そのうちまた人の気配がした。

 もういっそ刺激してしまった方がいいだろうか、とオリアスは思った。

 好奇心か悪意かはたまた思慮によるものか。尾行の意図が透けず、向こうが行動を起こすまで待つつもりだった。しかし、こうも執拗についてこられるとなんらかの機を窺っているようにも感じられてしまう。

 どうしたものか、と思っているうちに、道の向こうから光が差し込んできた。

 進んでいくと、開けた場所に出た。

 そこは、西方に傾きつつある日を背にした街を一望できる丘だった。あたりにはかわいらいし海色の花が群生しており、その真ん中に、男が横たわっていた。やわらかな風が吹き抜け、海色の花の中に、黒い髪が映え靡く。

「ユラ!」

 オリアスはユラの元に駆け寄る。

 瞼がぴったりと閉ざされ、頬には土汚れや生傷がつき、もともと劣化していた衣服はところどころほつれ破けている。口元に手を翳してみると、息があった。オリアスの、強張っていた肩と胸からいくらか力が抜けた。

「ユラ。ユラ」

 何度かその肩を揺すりながら呼びかけると、ユラの艶やかな睫毛がふるりと震え、やがて瞼が持ち上がった。ぼんやりとした黒い瞳が、オリアスの姿を反射する。

「……オリアス?」

 少し掠れた声が、名前を呼ぶ。

「大丈夫か」

「元気だ」

 元気という言葉に似合わない淡々とした声ではあるが、それはいつものことだ。ゆっくりと上体を起こす様を見てても不調を隠したりはしていなさそうで、オリアスはほっと息を吐いた。

「ずっとここにいたのか」

「いや、最初は川辺にいた。それで、起き上がろうとしたら、足を滑らせて川に落ちて」

「は」

「這い上がって服を乾かしつつ、どこかでオリアス誰かに出会えないかと思ってとりあえず歩いていたら、気づいたら森の中に入り込んでたみたいで」

「……」

「とりあえずさらに歩いてたら、ここに着いたから。休憩してた」

「お前は……はぁ……まぁとりあえず、命があってよかったよ」

「それは」

「彼がオリアスさんの連れ?」

 いつの間にか傍らに来ていたカーネに声を掛けられ、つい放置してしまっていたことを思い出す。カーネは屈むと、ユラににこりと微笑みかけた。

「はじめまして。僕はカーネ。昨日、オリアスさんと出会って、いろいろお世話になったりお世話をしたりしてたんだ。えっと、ユラさん、でいいのかな」

「あんたは……」

 わずかに目を見開いたユラは、逡巡ののち、カーネの方に手を差し出した。

「……ああ、ユラだ。よろしく」

 カーネが「うん、よろしくね!」とその手を握る。

 何気ないやりとりだった。けれど、オリアスの中で抱いていた可能性の輪郭がさらに濃くなる。その懸念を抱き、どうユラにたしかめるかと思った矢先だった。

 背後から、パァン、と発砲音が響いた。

「オリアス」

 それでも、オリアスには魔法があった。すんでのところで防御を行うことはできたはずだ。普段はぼんやりとしていてどんくさいユラが、そのときばかり俊敏にカーネを自身の背後に引き下げながらオリアスを押しのけてこなければ。身を挺して、庇いに入らなければ。

 ユラの左肩が銃弾に撃ち抜かれる。

 ユラの体がぐらりと揺れてどさりと地面に落ちる。

 瞬く間に滴った赤色が、そこに咲く青の花弁に滲み暗く染めあげた。

 カーネは目の前で起きたことが信じられないように呆然としていた。あれだけ牧歌的な村で、これだけ朗らかに育ったのだ。銃声や血とは無縁だったのかもしれない。

 彼と比べると、オリアスはよっぽどそういったものに触れて来ていた。

 しかし、胸が痛くなるほど心臓が早鐘を打っていた。

「大丈夫だ」

 その中で、ユラだけが、落ち着いた様子でそう言った。

「大丈夫じゃねぇだろ!」

 ユラの肩から溢れる血を止めるべく、オリアスは羽織っていた外套の一部を引きちぎって、きつく縛りつける。

「っ、くそ、なんで庇った」

「そんなことより」

「そんなことって」

「オリアス」

 ユラの黒い瞳は、今にもまた眠りにつきそうなほどに輪郭がぼやけている。しかし、その中の光は、オリアスを呼ぶ声は、やけに強さを帯びていた。

「俺を、絶対に、眠らせないで」

「は?」

「眠ったら、弔えずに、この夢想が終わる」

 そう言われてようやく、オリアスがここが夢想であることを思い出す。

 それでも、この世界には現実と遜色ない五感が存在する。ユラは間違いなく激痛を味わい、今も辛いはずだ。それを思うと、顰めた眉間が、食いしばった奥歯が、少し痛かった。

「せっかく、あんたの力を借りて、ここまで来れたのに、なにもできず終わるなんて、嫌だ。だから。眠らないように、刺激を与え続けてほしい」

「眠らないようにって……この状況でもお前眠れるのかよ」

「この状況だからだ」

 頑なに、ユラが言う。

「強すぎるのは駄目だ、もっと、眠りに近付いてしまうから……鉛筆で、刺すぐらいのものが、いい」

 こんな時にも寝落ち癖が発動するのか、と最初はなんとも言い難い気持ちになったが、しかし、希うように言葉を重ねるユラは真剣な様子だった。

 ただでさえ怪我を負った相手に追い打ちのような真似はしたくない。ユラのことがよく分からない、また振り回されている。胸がぐちゃぐちゃとして少しの息苦しさすら感じる。けれど。

 ユラは、命を捧げるほどに墓守になることを、墓守としての使命を果たすことを望んでいる。

 この一件が片付いたらユラとしっかり対話をすることを心に決めつつ、オリアスは彼の腕に小指の爪を食い込ませた。

「ありがとう、オリアス……それから」

 ユラが詰まった息を吐き零す。

「絶対に、カーネを死なせるな」

 ユラの視線を辿ってオリアスがカーネを見たと、同時。

「……え」

 カーネが掠れた声を零した。

 彼の視線は、森へと続く茂みに注がれていた。

 そこには、シンミアの姿があった。

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