3.
——なにも疑わないでこんなこと、当たり前にできるみんなこそが狼に見えて、怖いんだ。
去年の春。はじめて、投票をサボった夕方。学校裏の山を登った先、夕日に燃える街を一望できる崖で、アイヴィはスミレに出会った。
実際は、同じ教室に通うクラスメイトとして毎日のように顔を合わせていたが、それまで特段仲が良かったわけではなかった。スミレはかわいくて真面目そうな、ただのクラスメイトだった。そんな彼女が禁足の崖に来ていたから、アイヴィを見て「内緒ね」と悪戯っぽく微笑んだから、驚いた。
驚いた弾みに、堪っていた涙を零したアイヴィの背を、スミレは撫でてくれた。そしてアイヴィが吐露したこの街への恐怖を、理解してくれた。
「うん、私も同じだよ」
と。
そしてスミレは、崖の先をまっすぐ見据え、言った。
「ねぇ、もし、いつか。本当にここで生きていくのが、辛くなったら、そのときは一緒に——」
まともにかかわって間もなかった。
けれど、スミレの言葉は、眼差しは強い引力を持っていた。
その約束を交わしたことで、ふたりの距離は縮まった。その約束がある限り、アイヴィは生きていけると思っていた。
なのに。
アイヴィはスミレを見捨てた。
アイヴィと出会っておよそ一年が経った今春に進級したクラスでは、女子はグループを形成していた。
アイヴィとスミレもそのうちのひとつに属していた。そういうのは好きじゃなかったけれど、この街で、比喩でも暗喩でもなくその文字通り生きていくためには、その場の空気に従うというのは必要なことだった。
最初は円滑にコミュニケーションが取れていた。けれど、何週間か前。スミレがいないときに、ひとりの女子が言った。
「言おうかどうか迷ってたんだけど。私、聞いちゃったんだよね。リージア、スミレのこと好きなんだって」
リージアはクラスの男子で、アイヴィたちが属している女子グループの一員が好意を寄せている相手だった。間違いなく、グループとスミレの間に亀裂を走らせる一石にアイヴィは背筋が凍り付くような感覚がした。その女子を睨みたくさえなった。それをぐっと堪えて、アイヴィは努めて平生を装い尋ねた。
「誰から聞いたの」
その答えとして挙げられたのは、リージアと仲が良い男子の名前だった。
リージアに懸想する女子の表情がひときわ歪む。他の女子たちも、眉を顰めて囁き合う。
「じゃあ、本当なのかな」
「でもあのふたりって接点あった?」
「実は……私、見たんだよね。この前、スミレがリージアが落としたハンカチ拾ってあげてるところ。楽しそうに話してた」
「え、嘘」
「……私がリージアのこと好きだって知ってるはずなのに」
グループの女子は一斉に、リージアに懸想する女子を励まし出す。
アイヴィは理解に苦しんだ。落としたハンカチを拾ってあげるなんて、人として常識的な行動だ。なのに、どうしてこうも非難されなくてはいけないのか。しかしなんにせよ、この亀裂は早めに修復しないといけない。
アイヴィはその日の放課後、スミレの家を訪れた際、その出来事を伝えた。困った表情を浮かべたスミレに、アイヴィは彼女も理解困難に陥ったのだと思った。
「あの子たち結構過激だし、嫌われたら、厄介なことになっちゃうかも。どうにかしないと」
そういうアイヴィにスミレはなにも返さなかった。瞳を伏せたまま黙り込むスミレに「どうしたの」と問えば、スミレは言った。
「私、今度……リージアと遊ぶ約束、してるの」
「え、どうして」
アイヴィが思うより先に出た問いかけの声は、とても間抜けに響いた。
「誘われたから」
「誘われたからって。スミレもあの子がリージアのこと好きなの、知ってるよね……?」
「知ってるよ。でもそれで私がリージアと遊んじゃ駄目ってことになるのかな」
「スミレは……リージアと遊びたいの。仲、良かったの?」
スミレは首を横に振るから、アイヴィは少しほっとした。けれど、スミレはすぐに言った。
「けれど、仲良くなってみたいと思ったの」
「どうして」
「今日のアイヴィ、そればっかり。もしかしてアイヴィも、私とリージアが仲良くするの、良くないと思ってるの?」
その問いかけは、友達としての信頼によるものだったのだろうと思う。
けれど、アイヴィは頷けなかった。
そして、翌日から、スミレはグループから外された。
アイヴィがグループに、スミレとリージアが遊ぶ約束を話したことが決定打となった——そう、アイヴィはこのときはじめて人にナイフを向けた。私情による悪意という名のナイフを。
「ひどい」
「友達だと思ってたのに」
「人のやることじゃないよ」
「……ねぇ、もしかしてさ、スミレが人狼なんじゃない?」
「きっとそうだよ。そうじゃなきゃ、こんな酷いことできないもん」
「じゃあ、追放しないと」
「あたし達みんなで票を入れたらさ、きっと、追放できるよ」
「ねぇ、やろうよ」
それから、グループはスミレに票を入れるようになった。
アイヴィもスミレに票を入れた。
スミレにはスミレ以外のグループ全員分の五票が入った。けれど、その週は、別の人が七票を集めた。
その次の週は、別の人が八票集めた。
次の次の週は、別の人が六票集めた。
他のところで誰かの恨みを買った誰かが追放され続けた。
それでもいつかはきっと、スミレの番が来るだろうことは予想できた。
投票日の夜は寝つけなかった。
堪えかねたアイヴィはついに、スミレと話そうと思った。
自分がしてしまったことを謝ろうと思った。そして、もしスミレが追い詰めらているのなら、ふたりが手を取り合ったあの日に交わした約束を遂行したっていいと思っていた。
それで、放課後、スミレの後をつけた。
スミレは学校裏の山を登っていった。
崖に向かっているのだと思った。
アイヴィとスミレが出会った場所だ。
そこでなら、やり直せるとアイヴィは強い希望を持った。しかし、それは束の間に終わった。
辿り着いた崖には、リージアがいた。
瞬間、アイヴィの視界は真っ赤に染まった。
そしてスミレと話せないまま、週末が訪れ、投票のときとなった。
アイヴィはスミレの名前を書いた。いつになく濃い筆圧で書いた。
そして、今朝の開票で、スミレの処刑が決まった。
「スミレには、四票入りました」
アイヴィには、ユラが語ったことは大して理解できなかった。墓守だのなんだの、どうしたって荒唐無稽な空想にしか思えない。
だが、魔法はたしかに目撃してしまった。ユラの言葉に、間違いがない部分がたしかにあってしまった。
アイヴィの胸は震えて、どうしようもなく力が抜けた。そして、雨を降らすようにぽつりぽつりと、アイヴィは心当たりを語っていた。
ユラが問うた。
「一票欠けたのは、あんたか」
「そうです」
「投票をやめたのか」
「いいえ、投票はしました」
「お前は、お前に入れたのか」
オリアスに問われ、アイヴィはふっと微笑んだ。
「この街の人狼投票では、同数票が入れば、ふたり同時に追放されるんですよ」
ふと、少し胸が軽くなったのを感じた。
アイヴィの罪も罰も、醜すぎて誰かに語りたい話でもない。けれど、本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。一番は聞いてほしかった人は、今夜、いなくなってしまったけれど。
「本当に……私はもう死んでいるんですか」
「ああ。今夜、この崖から転落し、頭を損傷した。仮に打ち所がよかったとしても、転落前にあんたは胸にペティナイフを深く刺していたから、どちらにしても死んでいたろう」
「今日、グループの子たちに、スミレに票を入れなかったことを話したんです。裏切者の私は、どうせ来週あたりには処刑される運命にあったとは思います。けど、どうせ死ぬのなら、絶対に、今日がよかった。だから……うん、私も、そうしようと思ってました。魔法って、本当にあるんですね」
「これは魔法じゃなく、墓守の力だ」
「違いを説いたところであんまり意味ないと思うけどな」とオリアスが肩を竦める。
ユラが背後に目を向ける。夜空が、街が、その光景の色が明らかに淡くなっていることに気づく。
「もうすぐで、あんたの肉体が落命した時間になる。そうなればこの夢想は終わり、俺たちは二度と干渉できず、あんたの魂は悪化し悪霊となる道しか残らず、抹消される他なくなる。抹消された魂は二度とこの世界に新たな命を持って芽吹くことはない」
一歩、二歩、アイヴィに近づいたユラは腰を屈めた。そして、ユラはアイヴィに手を差し出した。
「俺は墓守としてあんたの魂を悪化させたくはない。肉体を失った魂が本来歩むべき道筋へと送り届けたい。そのためには、この夢想にいるあんたが、自分の死を受け入れる必要がある。アイヴィ。俺たちの話を、あんたの結末を、信じてくれるか」
「……それってつまり、ここであなたの手を取ったら、私はいずれ新しい命を持って、生まれ変わるかもしれないってことですか?」
「ああ」
「こんな醜い場所に、こんな醜い私が、また生まれるんですか」
愚かで恐ろしい人狼投票も、それを当たり前にできる人たちも、それに支配された人間関係も、全部がずっと、嫌だった。
けれど一番嫌だったのは、結局その空気にずっと従っていた自分だ。
それを受け止め、手を差し伸べてくれたスミレに、私情で刃を向け牙を立てた。希望ある旅人たちに嫉妬も向けた。こんな醜悪な魂、消えてしまった方がいいに決まっている。
「アイヴィ」
ユラが言う。
「次のあんたの魂がこの街でまた生まれる可能性がゼロとは言えない。だが——この街だけが世界じゃない。世界は広い」
アイヴィは目を見開く。
と、オリアスも近づいてきたかと思うと、ユラの頭に大きな手のひらを乗せた。
「それに、スミレとまた会える確率も、ゼロじゃない」
「スミレと……」
「魂が抹消されれば、間違いなく、もう二度と、お前はスミレには会えない。魂があったところでスミレが同じ時代に生まれるかも分からない。仮に出会えても、前世の記憶を保持するケースは稀有で、気づけるとも限らない。だが、それでも可能性はゼロじゃない。だろ、ご主人」
赤い瞳と口端をにっと綻ばせるオリアスを一瞥して、ユラが小さく頷く。
「とんでもない希望的観測、限りなくゼロに近い可能性だがな」
「おいおい。墓守として魂を弔いたいのなら、少しは希望のあることを口にした方がいいっていつも言ってるだろ」
「保証できないことを確信っぽく口にして唆すのは俺の主義に反する」
「バカ正直なんだから」
オリアスは呆れたように肩を竦めながらも、その表情はやけに穏やかだった。
「……仮に。もし、そんな奇跡、起きたら」
震える声で、アイヴィは尋ねる。
「記憶がなくても、私は、きっとまた、スミレのことを思う。だから……スミレをまた、傷つけてしまうと思う。そうなるくらいなら、やっぱり……」
短く息を吐いて、ユラが言った。
「そうならないとは言えない。だが、あんたがこれまでに抱いてきた思いは、きっと、魂に刻まれている。それは今後のあんたの導になる、かもしれない。あんたが、そいつをも二度と傷つけたくないと思っているのなら。今度はもっと長い時を共にしたいと思っているのなら。今度こそ、約束を果たしたいと思っているのなら。そのための行動がとれる、かもしれない」
たまらず、アイヴィは、ふ、と笑いを零した。
「かもしれない、ばかりですね」
「言っただろ、保証できないことを確信っぽく口にはしたくはない。それに結局、あんたが自分自身で現実を受け入れ前に進む決意をしなければ、俺は弔えない。次のあんたがどこでどんな命の運び方をするのかなんてのは、誰にも分からない。あんたが本当に望むのなら、魂を抹消できるやつにあんたを託してもいい。だが」
澄んだ黒い瞳がまっすぐに、アイヴィを見つめる。
「もしあんたの中に少しでも望みがあるのなら。報いたい思いがあるのなら。描いたいつかが、あるのならば。悔いることを知り、悪に堕ちきらず留まれているその魂を棄てるには、まだ早いと思う」
夜風が吹き抜ける。
ユラの黒髪がふわりと靡く。
しかし黒い瞳だけは、ちっとも揺らがない。
かもしれないばかりを口にする彼の瞳は、どこまでもはっきりと、しっかりと、まっすぐだった。
「どうする。アイヴィ」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「世界は、本当に広いんですか」
ユラは答えた。
「二年余りの旅では、出発地点の背が霞ほども見えないくらいには、広い」
アイヴィはぎゅっとこぶしを握り締めて、解いて、息を吐いた。そして、ユラの手のひらに、アイヴィは手のひらを重ねた。
ユラはそっと瞳を細め、その眦がわずかに綻ぶ。ずっと淡々としていた少年の微笑みは、なんというか。
「ユラさんは笑っていた方がいいと思いますよ」
「なんでだ」
「その方が——」
ふと、仰いだオリアスが唇の前で人差し指を立てながらユラの黒髪を一撫でするから、アイヴィは笑ってしまった。
首を傾げるユラに、アイヴィは「なんとなくです」と答えた。
「エトランゼの名のもとに。あんたの魂を、不完全な死から往くべき道へと導こう」
ユラの言葉とともに、重なるふたりの手に白い光が生まれる。
すっかり淡くなっていたあたりの風景が、絵画を濡らすように溶けていく。アイヴィも足先が、指先が、次第に透けていく。
それとともに薄れていく意識の中で、アイヴィは思い出す。
たしかにアイヴィが歩んだ、先にユラが語った通りの、死の記憶。
そして転落の最中見た、ふたりの出会いの記憶を。
「なにも疑わないでこんなこと、当たり前にできるみんなこそが狼に見えて、怖いんだ」
学校裏の山を登った先、夕日に燃える街を展望できる崖に、ふたりの少女がいた。
膝を抱え震えるアイヴィの背を、スミレが撫でながら言った。
「うん、私も同じだよ。ねぇ、もし、いつか。本当にここで生きていくのが、辛くなったら」
そのときは。
「一緒に、この街から逃げ出そう。この街だけが、世界じゃないから」
その笑顔の眩しさは、愛らしさは、きっと。永遠に、アイヴィの魂に刻まれ続ける。
「世界ってとっても広いんだって!」
*
静穏な湖のほとりの木陰に、オリアスとユラはいた。
次の目的地に向かう道中で、ユラが持つ銀の羅針盤が不完全な死の状態にある魂の存在を探知した。
それがこのほとりで見つかり、オリアスの錠破りの魔法を使って、ふたりはその魂の中、肉体の持ち主が死に至るまでの二十四時間を辿る夢想へと潜った。
オリアスが閉じていた瞼を持ち上げると、夢想に潜ったときにはてっぺんにあった日がわずかにだけ西に傾いていた。水面で鳥が水を飲み、ち、ち、と鳴いている。隣に座るユラはまだ目を閉じたままだった。
そしてふたりの目の前にあったはずの白い光、不完全な死の状態にある魂は姿を消していた。そこに、黒い種をひとつ残して。
「ご主人」
ユラの睫毛がかすかに震える。それからおもむろに、ユラの瞼が持ち上がった。
難度か瞬いたユラは、黒い種を見つけ拾い上げ、短く息を吐く。
「無事に済んだか」
「お前が死にかけたがな。対象の方から接触されないと魂の核を読み取れないにしても、もっとやりようあるだろ」
「あれが一番手っ取り早かった。あんたがアイヴィをつけてるのも、気づいていたから」
「まぁ、あれが一番怪しかったから追ってはいたけどよ……魂の主は、その記憶の中で最も自我を持っている、だろ」
「ああ。魂の主は夢想に本来存在しない異物である潜入者に極端に関わりたがるか、避けたがる傾向にあるって。ジジイの手記にあったからな」
「はぁ。頼ってくれるのはいいけど、あまり無茶をしてくれるな」
「夢の中でも聞いた」
ユラはあたりの地面を見回しながら生返事をする。オリアスはため息を吐く。
「どうせお前は一発じゃ聞かない。魂の夢想の中で死んだら、二度と出られなくなるんだろ」
「それなら、魂に潜り込んで目が覚めたときが一番危なかった」
「……今回はどこからスタートだったんだ」
「森の中の木のてっぺんに引っかかっていた」
「夢想でのスタート地点が俺とご主人でばらけるのはいつものことだが、どうしてお前ばかり変なところに飛ばされるんだか」
オリアスが肩を竦める一方で、ユラは地面の一か所を指した。
「ここに穴を掘ってくれ」
「悪魔にそんな雑用を任せるのは、きっと世界中探してもお前くらいなもんだぞ」
ぱちん、とオリアスが指を弾くと、地面に小さな穴が開く。ユラはそこに花の種を埋めた。
種はあっという間に土を突き破り緑を芽吹かせた。それはみるみる育って小さな白い花を咲かせた。
風に揺られた花が放つ小さな煌めきは、ゆっくりと空へ昇っていく。
それを眺めていたユラの腹が、ぐぅと鳴いた。
きょとと瞬き、腹を擦ったユラがオリアスの肩にこてんと寄りかかり仰ぐ。オリアスは眦を綻ばせ、彼の襟足を撫ぜる。
「夢想でお前と合流出来たとき用にサンドイッチ作ってたんだが、食わせるタイミングなかったな」
「サンドイッチ」
「たしか、すぐ近くに街があったよな。行くのは、飯食ってからにするか?」
「うん」
昼下がり。湖のほとりの木陰、一輪咲く白い花の傍らで。
あくびを零す墓守に肩を貸しながら、溢れる慈しみを抑えることなく微笑んだ悪魔は、トランクから食材を取り出した。
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