2.
風呂を上がったアイヴィは、いつも通り机の上に教科書とノートを開いた。入浴後から就寝までの間に宿題を片付けるのはアイヴィの習慣だった。厳密には、つい最近構築した習慣だが。
去年までは、スミレと一緒に宿題をしていた。放課後に、空き教室や、公園や、スミレの家で。
スミレは紅茶を淹れるのが多分、上手だった。アイヴィは紅茶の良し悪しが分からないが、母がたまに食後に淹れてくれるものよりスミレが淹れてくれるものの方が、香りが高いように感じられ、ぬくもりも全身に染みた。
お茶菓子も大抵、スミレが手作りしてくれたものが出た。クッキー、フィナンシェ、マドレーヌ、カップケーキ。スミレはなんでも作れて、なんでもおいしかった。「将来はお菓子屋さんになるの?」と聞いたら「それもいいかもしれないね」とスミレは可憐に笑った。
そう。スミレは、可憐だった。
どうしようもなく、可憐だった。
紫色の髪を綺麗に編み込んで、瞳はくりっと大きくて。頬はなにも塗ってないのにほんのりと桃色に染まっていて、唇は瑞々しかった。彼女が笑えば、枯れ木にだって花が咲きそうだった。
誰がどう見ても、かわいらしい容姿をしていた。
いい香りをしていた。
いじらしく、愛らしかった。
あれが人狼なら食べられたって、許せてしまう。
いっそ。
食べられてしまいたかった。
その晩、アイヴィは宿題を終らせることができなかった。数学の式を途中まで書いては手が止まった。しばらくしてはっとして式を見直してみると、ちっとも筋が通っていない内容になっていた。
それを繰り返していくうちに、だんだんと嫌気がさして、アイヴィは電気を消して、ベッドに仰向けになった。いつものように、胸の下あたりで祈るように手を組む。
大丈夫。幼いころの夢が今ではもう思い出せないみたいに、たくさん寝て起きて日にちが過ぎていけば、そのうちに、なにもかも忘れてしまえるはず。
「本当に?」
スミレの淹れてくれた紅茶のにおいも、作ってくれたフィナンシェの味も、まだ、覚えているのに?
アイヴィは何度も寝返りを打っては時計を見たが、ちっとも針は進んでいなかった。いつまでたっても、眠れない。昨夜も、うまく眠れなかった。
そのうちに、無理に寝ようとすることにも嫌気がさしてきて、アイヴィはベッドから降りた。
自室を出たアイヴィは、リビング、ダイニング、キッチン、それから両親、祖父母の寝室の前を音を立てないようにそうっと巡回し、そのどれもに明かりがついていないことを確認した。
夜中に出歩くなんて、他の民に見られたら疑われて投票の種になり得る行い、家族にバレたらきっと咎められるに違いない。母も、父も、祖母も、この街に染まりきってはいるものの、やさしい人たちだから。
それからアイヴィは息と足音を潜めながら玄関まで向かったところで、自分がパジャマを纏っていることに気づいた。
「……まぁ、いっか」
桃色のパジャマ、裸足にローファーをつっかけたへんてこな恰好で、アイヴィは外に出た。
向かったのは、遊具がみっつしかない、馴染みの小さな公園だった。滑り台。鉄棒。それから、ブランコ。そこに日中に出会った大きな男……オリアスの姿はなかった。あれから何時間も経過しているから当然だろうが果たして彼は、鐘塔の下に向かったのか。それとも、もうどこかの宿にでも帰ったのか。
アイヴィはブランコに近づき、ふたつぶら下がっている椅子のうち、左側に腰を下ろした。そこが、アイヴィの定位置だった。右側はいつもスミレが座っていた。
アイヴィは地面を軽く蹴って、ゆるくブランコを漕いだ。錆びれた鉄の棒と鎖が擦れ、飢えたカモメのようにきぃ、きぃと鳴く。
仰ぐと、黒い空に、白い三日月が浮かび、星は点々と煌めいていた。こんな夜でも、夜空はどこまでも澄ました顔をしていて、腹立たしいほどに美しい。
後ろの方から、ざり、と砂を踏むを音がした。
誰かに目撃される、そうなれば人狼として投票される可能性を分かりながら外に出た。それでもアイヴィはわずかに身を強張らせ、ブランコの鎖をぎゅっと握りしめる。
「あんた」
背後から、掛けられた声。
呼吸を詰まらせたまま、アイヴィは恐る恐る、振り返る。
そこには見知らぬ男がいた。
いや、男というよりは青年と呼ぶ方が相応しいだろうか。彼の面立ちや声にはアイヴィと同世代程度の幼さがあった。
深夜を彷彿とする黒い髪に、黒い瞳。温度の低そうな色白の肌。白いシャツ、藍色のベストとスラックス、ショートブーツと質素な装いの中、首から提げられた銀色の懐中時計らしきものだけが異彩を放っていた。その表面には一輪の花のような模様が刻まれている。
全体的に線は細く、背丈はそこまで高くない。日中に会った男——オリアスの、肩あたりくらい。
「ここらへんでこんな人を見なかったか」
少年は表情を少しも動かすことなく、凪の霜風のような声で淡々と問うてくる。
「瞳は赤いが、髪は黒くて、衣服も黒くて、背の高い……全体的に、
アイヴィは答える。
「見ました」
「どこで見た」
アイヴィは逡巡した。
「よかったら、居場所まで案内しましょうか」
少年はひとつ、おもむろに瞬いた。
アイヴィはすかさず手札を切る。
「あなたは、ユラ・エトランゼさんですか」
「ああ」
「探している人は、オリアスさんですよね」
「うん」
「その人とは日中に会って、あなたを探していることも、どこであなたを待っているかも、教えてもらいました。なので案内できますよ」
「そうか」
やがてユラは、こくりと頷いた。
「なら、頼みたい」
「分かりました」
きぃ、と音を立てて、アイヴィはブランコを降りた。それからそっと微笑んだ。
「じゃあ、行きましょうか」
なにしてんだろ、私。
と、アイヴィは心中で呟いた。
アイヴィはユラを連れて、鐘塔の下へ。は、向かわなかった。
学校裏にある山の、人に踏み慣らされた道を登っていた。
鬱蒼茂る木々は、葉々は、夜の色を吸い込み、いっそう陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
森に入る前も入ってからも、ユラは疑問も疑念もそれどころかほとんど言葉を発しなかった。あまりに静かすぎて逸れてしまったのではないかと疑い振り返ると、黒い瞳と目が合う。
そのときにわずかに首を傾げる仕草はどこか小動物めいていた。が、やはりユラはなにも発しなかった。
しばらく歩いてから、アイヴィはついに、問いを投げかけてみることにした。
「ユラさんとオリアスさんは、旅人なんですか。この街には、ただ立ち寄っただけですか。それとも、鐘塔を見に来たんですか」
公園で言葉のやりとりはした。彼が寡黙な性質だとしても、明確に問い掛ければきっとなにかしらは返ってくるだろうと、半ば実験めいた気持ちがあった。
それに、今日知り合った彼らについて知りたい気持ちもあった。同じくらい、知りたくない気持ちもあったけれど。
「旅することを目的にしているわけではないけれど、旅人ではある。鐘塔は、この街の観光名所なのか」
「名所ってほどでもないですけど。わざわざ外部から見に来る価値があるものが、それくらいしか思いつかないだけです。けれどその感じだと、違うみたいですね」
「ああ。だが、ただ立ち寄っただけというのも違う」
「そうなんですか?」
「人を探すために来た」
「えっと、つまり、オリアスさんを探すためにこの街に来た、ということですか」
「いや。オリアスとはこの街に来てからはぐれたのであって、探していたのは別の人だ。そういえば、あんたの名前は聞いてなかったな」
「私は、アイヴィです」
答えたところで、木々の道を抜け、目指していた崖についた。
ここからは煌めく星空と、こぶしを翳せばいくつもの家も塔に吊るされた鐘も隠せてしまうほどに小さくなった街を、展望できる。
足場は広いものの、柵などが設置されていないため、学生は許可なく立ち入らないよう定められている。アイヴィはそれを何度も破った。
ここでお祭りの夜に花火を見たり、夕日や星や朝日を見たりした。スミレとともに。
けれどもう二度と、スミレとこの崖に来ることはない。
放課後の教室にも、馴染みの小さな公園にも、スミレの家にも。
もう、スミレは、いない。
「オリアスがいるようには見えないが」
「ユラさん」
アイヴィは、ズボンのポケットからペティナイフを取り出した。家を出る前にキッチンから持ってきたものだ。
ケースを抜いて、刃先をユラに向ける。これまで家の中で、りんごの蜜しか吸ったことがないそれが、夜の光にきらりと煌めく。
「なんのつもりだ」
相変わらず淡々と、ちっとも動じた様子なく、ユラが言う。
「あなたに、死んでほしい」
「あんたの恨みを買うようなことをした覚えはないが」
「ええ、あなたに恨みはありません。私情です」
「私情」
「なので、私に刺されるか、崖から落ちるか。どちらか好きな方を選んでください」
「その震えた手で、刺せるのか」
震えて当然だ。アイヴィは人にナイフを向けたことなんてないのだから——向けたことなんてない?
「はは……」
「なにが面白いんだ」
「いえ、ちょっと。それで、どっちにしますか」
「どっらも嫌だと言ったら?」
「刺します」
ユラは顎に手を当てると、少し思案し、言った。
「分かった。刺されるのは嫌だから、崖から落ちよう」
アイヴィはぽかんとした。迫ったのはアイヴィだが、こんなにもあっさりと死を受け入れる人が在るものだろうか。しかしそう思っている間にも、ユラは崖の先へと歩みを進めた。
澱みも、躊躇いもない足取りで、ついにユラは縁に立つ。
「あんたも来い」
ユラがこちらを振り返る。
「俺に死んでほしいんだろ。なら、あんたが手ずから押して、殺せ」
瞬いたアイヴィは、躊躇いながら、一歩、一歩とユラの方に近づいた。やがて、互いに手を伸ばせば届く距離に着く。
「……なにも、しないんですね」
「なにもって?」
「ある程度近づいたら、逆に突き落としたりとか、されるかなと思っていたので」
「俺はあんたを殺す動機も道理もメリットもない」
「私に殺される謂れもないでしょ」
「でもあんたは俺を殺したいんだろ」
ユラの黒い瞳がまっすぐにアイヴィを見据える。
アイヴィは手を持ち上げ、ユラの方に伸ばす。
ユラは目を瞑る。
アイヴィは人殺しになる覚悟なんてできていなかった。
けれど——ここでアイヴィがユラを殺さなければ、ユラとオリアスが出会ってしまえば。
彼らは、まだ、逃げれてしまう。
「狡い」
醜い嫉妬に押され、アイヴィはユラの胸に触れる。
五つの指先が触れた瞬間に、まるでベッドに転げるように、ゆるやかに、いっそたおやかに、ユラの身体が傾いた。
ユラの足が浮く。ユラと崖の接点がなくなる。ユラが、死ぬ。
「あ」
アイヴィがペティナイフを落とし、腰を抜かして膝をつき、涸れた声を発すると同時だった。横を、なにか凄まじい速度のものが駆け抜けていった。
黒い外套をひらりと翻らせたそれは、崖から軽やかに飛び下りる。
呆然としながらアイヴィが崖下を覗き込むと、ユラを抱き留めたオリアスが中空で浮かんでいた。まるで、彼のまわりにだけ重力というものが存在しないかのように。
オリアスがこちらを仰いだ。赤い瞳と目が合った。夜のせいか、日中に見たよりも深い血の色をしたそれに、アイヴィはわずかに身を竦めた。
オリアスはふわりと崖の上まで浮き上がると、アイヴィより後ろに、軽やかに着地した。
アイヴィは茫然としながら、その光景を見ていた。
「な、なんなの……」
ふ、とオリアスは息を吐く。
「魔法だ」
「魔法って……そんな、絵本や夢じゃないんだから」
「夢ではある」
オリアスの腕から降り立ったユラが、崖から落下したことがまるで夢であったかのように平然と宣った。
「オリアスが魔法を使えるのは、現実の事実だけれど」
それを聞いたオリアスが、呆れたため息を吐いた。
「だからって、打ち合わせなしにあまり無茶な策に出ないでほしいがな。ご主人よ」
「オリアスならどうにかしてくれるだろ」
「……」
オリアスは赤い瞳を細め、つんと唇を尖らせると、大きな手のひらユラの頭に乗せ、黒髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「それでも、心臓に悪いことはあまりしないでくれ」
「そんなことより」
「そんなことって」
「こいつが手ずから突き落としてくれたおかげで、この魂の核が見えた」
ユラがアイヴィを見据えた。
「アイヴィ。享年、十五歳。死因は、崖からの転落による頭部の損傷。未練は——スミレという少女の存在」
アイヴィは少しの間、呆然としていた。
おもむろにオリアスを見てから、もう一度ユラに視線を戻した。
「なに、言ってるんですか。享年とか、死因とか……未練とか。まるで、私が亡霊みたいな言い方」
「まるで、じゃない。あんたの肉体はとうに死んでいる。にもかかわらず、未練に囚われ魂が現世を彷徨い続けている。あんたは今、〝不完全な死〟の状態にある」
「は、はぁ……?」
「俺はあんたの魂が悪霊に堕ちる前に弔うべく、あんたの魂に潜り込んだ墓守だ」
「墓守って……あの、いったい、どういう妄想……あなたたち、旅芸人かなにかなんですか?」
「旅芸人だとよ」
ふ、と笑いを零すオリアスに一瞥もくれず、ユラは言った。
「墓守は、魂の主の肉体が死に至るまでの二十四時間を辿る夢想に入ることができる。入った段階では魂の主の顔と名前しか知れないが、主の方から俺に触れてもらえれば、俺はそいつの死にまつわる情報、死因と未練を読み取ることができる——あんたの未練はスミレという少女と交わした約束だ」
いっそ透徹なほどに黒い瞳が、まっすぐにアイヴィを見据える。
「心当たり、あるんじゃないのか」
心当たり、なんて。
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