7.見せつけるならせめて横顔を

「べ、別に楽しくないと思いますよ……えっと」


 口籠る。そろり、気を抜けば灰の塊になりそうな目で彼女の長い前髪の下をうかがった。そういえば彼女をどう呼ぶべきであるか私は知らなかったから。

 視線の先、色素の薄い瞳が瞬く。その一瞬だけ、彼女の精巧と言うべき顔から微笑が剥がれたようにも見えた。それはきっと気の所為で、私も続いて瞬きをすればゆるりと穏やかに上がった口角が在る。


「佐野です、中等部二年の佐野誠。誠実のセイでマコト」

「佐野、さん」


 しなやかな指がついついと宙に文字を書いた。

 復唱する。少し厚く見える唇が先に紡いだ名は、当然とも言うべきか――大きな古城が見下ろす石畳の街を暗躍する彼女とは似ても似つかなかったから、何だか私は胸を撫で下ろすような心地だった。

 誠の字を持つ佐野さんと、嘘ばかり口にする私の最愛。その間へざくりとナイフが入った。下手をすればこのままマーブル模様に交じり合いそうな二人が、私の中で正しく分けられようとしている。


「昨日も名乗りましたが……覚えて頂けないのも当然ですね。何せあの文芸部を日頃取りまとめる、そんなお方相手ですから」 

「えっ!? いやいやいや、違うんです……あの、昨日はなんというか。私、色々あっていっぱいいっぱいで……怠慢と言われればそうなんですけど。佐野さんは悪くなくて」 

「いえ、少し意地悪を言ってしまいました」


 ――あ、似ている。

 ナイフの切れ味は酷く悪かったようで。私のまだとろとろの脳味噌は有りもしない四角を引いて佐野さんを囲んでみせた。背にキラキラとしたトーンまで背負わせているみたいだった。

 そっと口元に手を当てる仕草。ちいさな少女めいた、大人びたさっきまでの微笑とは違う笑み。損得抜きに暇つぶしをする時の、あの彼女そのものだった。ああ、今の私はさながらネコチャンに前足で転がされる鼠。ころころ。


「梢! ……さ、佐野殿!」


 そのまま現実へと転がり出た。

 よく響いた声に前を向けば、なにか四角いもの――部内でやり取りしている交換日記をしっかり胸に抱いた真昼。まだこちらへ上がってくる様子はなく四階の廊下に立ったまま。どうしたんですか、と私が問うより速くその姿はくるりと向きを変えた。

 

「拙者急用を思い出したゆえに、ここでパーティ離脱とさせていただきますぞ!」

「えっ」 


 そんな。そんなのとっても駄目です。

 疾風のごとく逃げ失せてゆく。制止しようにもすぐに真昼は視界から消え去ってしまって、後には私と佐野さんだけが残された。筆は走らせても廊下は走っちゃいけないんですよ。


「おや」


 どうか誰か。今ここに降って湧いてください。

 このままではきっと、私は。

 こんなの。

 

「――二人きり、になってしまいましたね?」


 微笑。私の中身はきっと臓腑まで光に透かされている。

 時計はここから見えないし、スマートフォンはポケットの中。そもそももう何にも私には見えやしない。どうか昼休みの時間が残り僅かである事を願う。それから駆けてった真昼が先生に軽く咎められる事も。

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